アラサー女と黒幕騎士
「断髪」を加筆修正したものです。タイトルを変更したら何か変化あるかな?と思ってタイトルを変えて再アップしました。
断髪
01.起
「……ここは……?」
ある日目覚めるとユミはヨーロピアンな洋室のベッドにいた。
ユミは非正規雇用で働く、高卒アラサーのデブスだ。
薄給なので、旅行どころかこんな宮殿みたいな内装のホテルに泊まるなどできない。
コンコン
呆けていると、誰かが部屋に来た。
「クリオネお嬢様、お目覚めですか?朝の身支度をいたしましょう」
メイドだ。
(クリオナ……??はっ、これはもしや――)
ユミは見知らぬメイドの言葉に、すぐさまベッドを飛び出してドレッサーへ向かった。
(もしかして、異世界転生!?ならきっと美少女の令嬢に――)
だがそこには生前と大して変わらないデブでブサイクな姿の自分がいた。
(――なって無いんか――いぃ!)
生前アラサーだったため、とりあえずこの肉体がそれより若いことだけは分かった。
茶髪に茶色の瞳で、ブサイクなこと以外に全くヒントになるものがない。
しかも'クリオネ令嬢'なんて全く記憶に無い。
(落ち着いて……まずは何の作品に転生したのかメイドから訊きださないと)
「んっ、コホン……私のお父様のフルネームを言ってみてくれる?」
「えっ?ロドリゴ・エステバン伯爵さま……です」
メイドは不可思議なユミの質問にも、おずおずと答えた。
(やった!伯爵令嬢なんだ。エステバン……エステバン……知らん!)
やっぱり何の作品の何のキャラになったのかサッパリ分からなかった。
「せ、正解。じゃあ、今年は何年だったかしら?」
「帝国歴352年ですが……」
「そ、そうだったかしらね……」
(帝国……最近、帝国が出てくる作品何個も読んだから分かんないよぉぉぉ)
ユミは早くも内心で半べそをかいた。
悪役令嬢モノが好きで、大抵舞台がヨーロッパ風だからである。
「クリオネお嬢様は今日もお美しくてらっしゃいますね~。
プレ・デビュタントまであと4年なんて、早いものですね」
普通顔のメイドは、にこにことユミの長い茶髪を梳かしながら言った。
「プレ・デビュタントって何歳でやるんだったかしら?」
「まあ、16歳になる年の9月にやるものですわ、お嬢様ったら」
ウフフ……とメイドは笑いながら答えた。
(ということは、この令嬢の肉体は12歳……)
身長が150cmくらいあるため、もっと年上かと思ったら驚くほど若かった。
西洋風の顔立ちや風景のため、どうやら成長が日本人より早いようだ。
コンコン――「入って」――ガチャ
次に部屋を訪れたのは騎士の服装をしたブサメンだった。
「お嬢様、昨日おっしゃっていたブティックへ行く準備が整いました」
ブサメン騎士がうやうやしく伝えた。
「……そう、準備が整ったら行くわ」
「はい、かしこまりました」
そう言うとブサメン騎士は廊下へと下がって行った。
「お嬢様の専属護衛騎士のアラン卿は今日もうるわしいですわね……」
ほぅ……と普通顔のメイドが、うっとりしながら言った。
「……今のが????」
ユミは陶然と頬を染めてドアを見つめるメイドを見てハッとした。
(美醜逆転モノ……?エステバン――伯爵……)
「あっ!」
ユミは唐突に気付いた。
これは生前読んでいたweb小説の美醜逆転モノであると。
(しかもメインカップルを妨害する当て馬男の婚約者……モブじゃん!)
ヒロインでも悪役令嬢でも主人公でもなく、名も無きモブだった。
唯一、エステバン伯爵、という名字の方は原作中に出てくる。
「お嬢様、大丈夫ですか!?」
ガチャ、っと部屋に入って来たのは先ほどとは別の金髪碧眼のイケメン騎士だった。
ドキッ!
ユミは心臓が口から出てくるかと思った。
「えっ!?だ、大丈夫……ちょっと、その……夢の内容を思い出しただけよ!」
ユミは一瞬、騎士の眉目秀麗さにカッと頬を染めつつ、慌てて言い訳した。
「そ、そうですか……じゃあ、外でお待ちしてますね……」
イケメン騎士もなぜか頬を染めてユミから目を反らすと、慌てて部屋から出た。
「フン、イラン卿は身の程をわきまえるべきですわ」
メイドが先ほどのブサメン騎士を見た時とは真逆の冷ややかな表情で言った。
「え、なんで?」
「どうみてもお嬢様に気があります。あの見た目で……はぁ、世も末ですわ」
メイドは首を横に振りながら、ユミのヘアスタイルを整えた。
「イラン卿が気に入らないのね」
「いくら腕が立つと言えど、お嬢様の横に立つには見栄えが悪いですもの」
「そう……」
この世界、どうやら美醜に厳しいらしい、とユミは身支度を手伝われながら思った。
ブサイクが美形で、痩せてたりマッチョより、肥満体の方が魅力的なのだ。
(それより、どんな内容だったっけ……)
色々読んでいるため、あらすじが思い出せない。
(ああ、そうだ。魔法のあるロマンスファンタジー物で――)
美男子だけどブサメン扱いの皇太子とヒロインが幾多の困難を乗り越えて結ばれる話。
美女と野獣で野獣が野獣のままの美醜逆転みたいな話だった。
(確か悪役が魔剣士で、ヒロインに振られて闇落ちして……)
そこまで思い出してユミは次第に背筋が冷たくなっていった。
(世界を滅ぼすんだった……!)
そう、この世界、まもなく壊滅状態になってしまうのだ。
「さっき、帝国歴352年って言ったわよね!?」
ユミは慌ててメイドに再確認した。
「えっ、ええ……」
(原作開始より12年前!)
よしまだ間に合う!
悪役は8歳かそこいらで、自分が実は強いということに気付いてしまうのだ。
それまでは虐げられて育ったため、人格破綻してとんでもない悪逆非道になってしまうのである。
「ローブを出して現金を用意して!ちょっと出かけてくるわ」
「あ、は、はい――」
ユミはブティックでは無く貧民街へ向かうことにした。
バチン!バシン……
「「「……」」」
ユミとふたりの平民に変装した騎士は、不気味な音のするあばら屋の前にいた。
「お前みたいなブサイクがいるから私の人生はどん底なんだ!死ね!」
何かを叩く音とともに、怒号も聞こえる。
嫌な空気しか感じない。
「お嬢様……見ない方がいいかもしれませんが」
イケメン騎士より若干年かさのブサメン騎士が、そっとユミに耳打ちした。
「いえ……聞き取りしたところ、銀髪紫瞳の子どもがいる家はここしかないわ」
悪役の特徴と大体の年齢だけを頼りに、辿り着いたのがここだった。
ガラッ……
ユミの言葉に、ブサメン騎士は意を決して粗末な板の戸を開けて、踏みこんだ。
ピタッ
粗末な家の中で、空中に上がっていた手を止めた人物がいた。
みすぼらしい年増の女だった。
床には幼い子どもが倒れていた。
「なに?あんたたち……」
女はけだるげに騎士を見上げて尋ねた。
スッ
ユミはブサメン騎士の背後から出ると、年増女に向き合った。
「その子どもを……奉公に出さない?とある商家に」
身分を明かさない方がいいだろう、と配慮してユミは商家の者ということにした。
「奉公……?」
女は酒焼けしたようなハスキーボイスで訊き返した。
「ええ、毎週使いの者があなたに賃金を渡しに来るわ」
ユミはそう言いながら、女に大銅貨を渡した。
「……そんなこと言いながら、こんなはした金で買うつもりじゃないだろうね」
女は落窪んだ目をギラギラ光らせながら、小娘のユミをねめつけた。
この世界、オカネには金銀銅が大中小とある。
悪役の母親は、貧民街で身を売るその日暮らしの生活をする困窮者だった。
小銅貨1枚あれば1日なんとか食いつなげる彼女の収入は週給で約小銅貨7枚。
中銅貨は小銅貨5枚分、つまり大銅貨は小銅貨10枚分、10日分の日給だ。
すでに3~4歳に見えるやせ細った幼子を育てるのに、確かに割に合わない。
「それなら、向こう10週間分を先払いするわ。次は10週間後に大銅貨を渡す」
そう言ってユミは女に小銀貨を1枚(大銅貨10枚分)渡した。
賃貸住宅を借りる時の3ヶ月分の家賃を前払いする感じのアレである。
「ふん……」
「それと我が家の家宝を、約束の証明にあなたに預ける。売らないでね」
そう言いながら、ユミは大して高くもないアメジストのブローチを外して女に渡した。
「……連れてきな」
女は宝飾品と小銀貨を見下ろして、不遜につぶやいた。
ジャ――
伯爵邸のユミの部屋の魔道具シャワーでバスタブに湯を張っていた。
「……」
痣だらけの痩せた小さな身体を縮こまらせながら、悪役はすでに2回の丸洗いに耐えていた。
「お湯で汚れをふやかして、あと1回洗ったら終わりにするからね」
ユミは2回洗っても汚れがこびりついてダマになった髪を一房とりながら言った。
悪役は銀髪のはずだが、どう見ても灰色と茶色のまだらである。
(うーん……こりゃ切らないとダメだな……)
その頭皮には、うねうねと白い小さな虫がうごめいていた。
「……シラミという寄生虫がいるから、髪を切るしかないの。少しの間、ごめんね」
シャキン……
ユミはハサミを取り出して言った。
「……!」
悪役は刃物を見て、顔をこわばらせ、身を硬直させた。
「大丈夫、髪の毛は切っても痛くないからね。じっとしてて」
シラミに寄生された時の駆除方法は、'毎日髪を洗うこと'である。
日本が貧しかった時代に男児が丸坊主にされていたのは、洗いやすかったからだ。
「……」
だが、ユミはここまで逐一、今から何をする、次は何をすると声かけをして作業していた。
だから悪役は恐怖を堪えながら、じっと耐えた。
「いいこ、いいこね……きれいになったら、お腹にやさしいもの、食べようね」
ユミはアラサー独身だったが、10歳の時に弟を産んで母が死に、育児経験があった。
幼児は先を見通すのが苦手なため、こういった声かけが有効なのを知っていたのだ。
安心感を与えれば、癇癪やむやみやたらな反抗を多少は軽減できる。
シャキ、シャキ……ジャ――……
広い浴室に、汚れて束になった髪を切り捨てる音と湯船に湯を張る音だけが響いた。
(よし……これで毎日頭皮が洗えるから、じきにシラミはいなくなるはず)
ユミはほぼ丸坊主になった小さな頭を撫でながら思った。
「どうして……買い取らなかったの?」
か細い声がユミの耳に届いた。
「買い取りだと一度限りの収入で、すぐに使いきってすぐに困窮しちゃうでしょ」
ユミは短くなった銀髪を泡が立つまで念入りに、優しく何度も洗いながら答えた。
「……」
「毎週、少しずつ与えれば使いこまないし、飢えずに済むから」
ユミは原作を読んで悪役の生い立ちに同情したことを思い出しながら答えた。
10歳で0歳児の世話や家事を父親に押し付けられたユミは、自分があの母親の立場ならそういった支援が欲しかったから。
貧民は読み書き計算が出来ないため、お金を計画的に使うということが難しいのだ。
当時小学生だったユミも、やりくりが上手くできなくてよく叱責されていた。
俺が汗水流して稼いだカネを無駄遣いしたな、と。
そして結局、父親が週1で生活費を渡すようになったので、それを踏襲したのだ。
それにユミは0歳児を24時間連続稼働で世話をした時、幾度となく殺意を覚えたことがあるからだ。
何をしても泣きやまない0歳の弟に怒鳴り散らしたり、叩いたり、乱雑に扱ったこともある。
だからその罪滅ぼしもあったかもしれない。
こうしてユミは世界を破滅に追いやる悪役を、虐待家庭から救出することに成功した。
02.承(前半)
「お嬢様!」
ぽふっ、ほぼ丸坊主の銀髪がユミのふくよかな腹に飛び込んできた。
「イゴール、ご飯は食べたの?」
ユミはその頭を優しく撫でながら尋ねた。
救出から2ヶ月、まだ子どもの悪役イゴールはすっかり肌艶が良くなっていた。
勝手に貧民街から子どもを連れ込んだが、今のところ誰にも何も咎められていない。
というかアミは、伯爵家の当主、両親にすらまだ会ってすらいなかった。
「ううん、一緒に食べたくて来たんだ!」
紫色のアメジストのような瞳がきらきらとユミを見上げて言った。
乳幼児期から幾度となく信じたり期待しては親や大人に裏切られてきたイゴール。
次は優しくしてくれるかも、と思っては殴られ、母親は自分を本当は愛してると思っては拒絶され。
幾度となくどん底に突き落とされてきたイゴール。
だからユミは小さなことから少しずつイゴールの信頼を獲得した。
'これは痛くないよ'と言ったら本当に痛くないように気をつけたり、'次はこうするよ'と言ったら必ずそれを守り。
地道な'言ったことを守る'の繰り返しにより、ユミはイゴールの怯えて委縮した心を解きほぐしていった。
「そう、じゃあ一緒に食べましょう」
ユミはイゴールの眉目秀麗な顔をうっとりと見つめて言った。
(伯爵令嬢だから生活には困らないし、こんな美少年はいるし、最高~!)
美麗絵師が描いたイラストから現実世界に抜け出したような麗しいその姿。
4歳くらいかと思った傷だらけの痩身は、6歳だった。
痣も徐々に消え、救出したユミを慕い、その表情は日に日に明るくなっていった。
ユミも彼にカトラリーの使い方を教え、服の着方などを教えて、共に過ごした。
まだ2ヶ月しか一緒に過ごしていないのに、産んだ気さえしてきた。
(それに、ヒロインに会わせなければ失恋して闇落ちすることもない!)
世界の破滅は回避されたのだ!
ユミは救世主気どりで、ひとり鼻高々だった。
「お嬢様は……僕と一緒に食事するの、嫌じゃないの?その……吐き気がしたり」
イゴールは紫の瞳を上目遣いにして、おずおずと訊いた。
「どうして?」
ユミは美少年を前に吐き気をもよおす理由など無く訊き返した。
「だって、僕はみにくいでしょ?母さんは……僕を見るとめしがまずくなるって言ってた」
イゴール少年の言葉に、そばに控えていたイケメン騎士の肩がわずかに震えた。
「私は好きよ。だから一緒に食事するの嫌じゃないわよ」
ニコ、とユミは微笑んでイゴールに答えた。
なんならご褒美である。
イゴールの美しい顔を見ながらごはん3杯はイケる。
(ブサイクな私から、こんな美の化身が生まれるはずが無いのに……私ったら)
元の世界の美意識のままのユミにとって、この世界のブサイクは超絶美形なのだ。
ポッ、イゴールの頬がバラ色に染まったが、ユミは気にせず食事を続けた。
(私はいずれ当て馬子爵と結婚する身だし、それまでは存分に美形を愛でてもいいよね)
うまくいけば、小間使いとかでそばに置くことが許されるかもしれない。
(当て馬子爵が家庭内のことに口出ししないタイプだといいな……)
前世では結婚することなくアラサーになったが、流れで結婚するならそれでいい。
なんだかんだで独身が居心地良くて気付けばアラサーになっていたユミ。
(このくらいの事が無いときっと結婚することなんて無かっただろうし)
ユミはそのように楽観視していた。
ムズ……
(ん?最近なんかやたらと頭がかゆいなぁ)
ユミはイゴールのことより、自分の頭皮が気になった。
そして、食事を終えて部屋に戻ると、メイドに気になる場所を見るよう言った。
「ハッ……お嬢様、大変です。シラミがついてます!」
メイドはユミの茶髪をかき分けながら、血相を変えて言った。
そして、床でおもちゃをいじるイゴールをキッと睨みつけた。
毎日イゴールのほぼ丸坊主の頭を洗っているユミは、イゴールにはもうシラミがいないことを知っている。
どうやらイゴールに寄生していたシラミの一部がユミに乗り換えたらしい。
「じゃあ、枕とベッドシーツを全部焼却処分してくれる?」
言いながら、ユミは髪の毛をひっつめ髪にして紐できつく縛り始めた。
「はい、ただいま!」
メイドは厳しい顔つきで即座に行動に移った。
「……」
イゴールは不安げに、様子を窺った。
ドタバタとシーツを剥がすメイドと、おもむろに封蝋を火にかけるユミを。
ガタ……、とユミは引き出しからハサミを取り出した。
「ハッ、お嬢様なにを――いけません!キャ――!」
突然、シーツと枕を廊下に出そうとしていたメイドが悲鳴を上げた。
「どうしました!?」
すぐに専属護衛のブサメン騎士が部屋に飛び込んできた。
シャキン!
だが時すでにお寿司。
ユミは尻まである長い長い茶髪をボブショートの長さでバッサリ切り落としていた。
「おおげさね~!長過ぎて、うっとおしいと思ってからいい機会だわ」
ユミはあっけらかんと言った。
顔面蒼白のメイドには気にも留めず、毛束をさらにきつく縛って蝋で断面を固めた。
「で、ですが……プレ・デビュタントまであと4年しかないですのに!」
メイドは目を白黒させながら言い募った。
ブサメン騎士と、遅れて入ってきたイケメン騎士も目を丸くして髪を短くしたユミを見た。
(ああ、成人式や結婚式に向けて髪を伸ばす的なアレ?)
結べる長さをギリ残してあるので問題ない。
「シラミを死滅させてつけ毛として使うの。結えば髪が短いなんて分からないわよ」
ユミは毛束をまとめる蝋に息を吹きかけながら、適当な箱を取りだした。
そしてそこに入れると、防虫効果のあるハーブを入れてフタを閉めた。
人間に寄生するしぶといタイプの虫を死滅させる一番の方法は、毒でも熱でもない。
いわゆる兵糧攻めである。
(普段は短髪で楽に過ごして、でかけるときだけロングに見せかければいいわ)
ユミは'私って天才'とばかりにフフンと鼻を鳴らした。
長い髪は寝がえりの時につんのめったり、洗うと中々乾かなかったりで面倒なのだ。
一度頭についたシラミの駆除方法はひたすら洗うことなので、短髪の方が扱いやすい。
「……!」
そんな満足げなユミとは正反対に、騎士たちとメイドは真っ青になって目を見合わせた。
そこへ。
「一体何事だ!」
恰幅のいいガマガエル風の中年男がズカズカと部屋に入ってきた。
この世界では美中年扱いである。
「旦那さま!」
メイドが目を剥いて声を詰まらせた。
部屋に緊張が走る。
(ふぅん、あれがクリオネ令嬢のお父さんかぁ。元の私より若干年上くらいかな?)
ユミはのんびりと初対面の父親を見つめた。
「な――なんだ、その髪は!」
ガマガエル風の伯爵は、わなわなと指を震わせてユミに怒鳴りつけながら近寄って来た。
「この方が楽なので。外出時は結っ――」
バシン!
ユミが言いきる前に、突如目の前で白く星が散って、重力の感覚がおかしくなった。
バタン!
急に自分の右側に壁が出現して、そこに叩きつけられた感覚がした。
目が回る。
どっちが天で、どっちが地か、わからない。
左ほほが熱く、口の中でサビ臭い味が広がって、鼻の穴から火を噴いた感じがした。
「旦那さまっ、シラミがついてしまったので仕方なかったのです!」
メイドが慌てて叫んだ。
「毒でも熱でもまいて駆除すればよかろう!髪を切るなど、けしからんっ!」
揺れる視界の中、鼻息荒く、どすどすと床を踏み鳴らして巨体がユミに接近した。
おかしい、さっきガマガエル男が近寄って来たはずなのに。
「あ……」
ユミはようやく、自分が父親に殴られ吹っ飛んだらしいことに気付いた。
だが、あまりの突然の暴力に、全く思考が追いつかない。
「髪を……切ったごときで??」
ユミは髪を切った事とビンタの関連がつかず、呆然とつぶやいた。
「当たり前だ!髪も身体もすべて、お前はわしの所有物なのだ!」
「所有物……?私が……?」
「誰のおかげで生活できてると思っている!?勝手な真似は許さん!」
ガマガエルがユミの振り乱された髪をわし掴みにしようと手を伸ばした。
(勝手?自分で自分の髪を切るのが、勝手な真似ですって?)
困惑に揺れるその視界を、小さな背中が遮った。
「なんだお前は?薄汚いガキめ。私が屋敷を留守にしている間に入り込みおって!」
ガマガエル父親の言葉で、ユミはイゴールが立ちはだかって庇っていると気付いた。
次の瞬間、太い脚が振り上げられるのが見えた。
小さなイゴールすらガマガエルは蹴ろうとしている。
ユミは全身の血が逆巻くような感覚に突き動かされて、起き上がった。
ガッ!
「――ぐ!」
ユミは背中に衝撃を感じた。
「お嬢様!」
ユミが胸に抱えた、かわいらしい少年の悲鳴が耳元で聞こえた。
紫の瞳が、みるみる見開かれた。
「何で……僕がお嬢様の代わりになろうとしたのに……」
力も人権も何も持たないイゴールに出来ることは、身代わりになることくらいだった。
なのに逆に庇われてしまった。
護りたいと思ったお嬢様に。
産まれた時から虐待されて育ったイゴールは、誰かに護られたことなど初めてだった。
イゴールの小さな胸に、熱い何かが宿った。
「邪魔するな、どけ!クリオネ!」
ガッ!
ガマガエルが角度を変えて再びイゴールを蹴ろうとして、また庇ったユミを蹴った。
「旦那さま、いけません!」
イケメン騎士がユミごとイゴールを胸の中に庇って叫んだ。
ぎゅっ
広い肩幅がすっぽりとユミの背を包みこんで、厚い胸板がユミを守った。
「くっ……貴様、腕がいいから雇ったが、その見た目でよそで雇われると思うのか?」
ガマガエルはしつけを邪魔するイケメン騎士を、忌々しげになじった。
「これ以上は、お嬢様が傷物になってしまいますよ。どうか穏便に……」
イケメン騎士はガマガエルの前に跪いて進言した。
「……フン!クリオネ、お前は4日間メシ抜きだ!自分の身の程を思い出すんだな!」
そう言うとガマガエルは踵を返して鼻息荒く部屋を出て行った。
(髪を切ったごときで……??)
ユミはイゴールの小さな身体を抱きしめながら、尚も納得がいっていなかった。
この世界は男尊女卑で、女に人権などなく、モノ同然だったのだ。
03.承(後半)
コンコン……
ユミが絶食させられて2日目の夜、誰かが窓ガラスを叩くのが聞こえた。
見ると、窓の外に月の精霊かと思うような美少年がいた。
「イゴール!危ないじゃない」
ユミは慌てて、フードを被っているイゴールを部屋に入れた。
「これ……お嬢様が以前くれたビスケット、持って来たんだ」
そう言いながら、イゴールは自分の秘蔵ビスケットを布から出して言った。
「あなたこれ……私のために?」
ユミは思わず目頭が熱くなるのを堪えながら、イゴールを見た。
産まれてから6年間、常に飢えに苦しんだイゴールは過食傾向があった。
そしてお腹を壊したり、嘔吐したりしてしまっていたので、保存食を持たせていた。
いつでも食べ物がある、という安心感を得て、イゴールの精神は徐々に落ち着いた。
その大事な'保険'であるビスケットを、イゴールは持って来たのだ。
「ありがとう……1つだけいただくわね」
ユミはひとつ摘まむと、カリカリとビスケットを食べた。
そのビスケットは、イゴールの'命綱'……いやほぼ'命'なのを知っているからだ。
元々肥満体だったクリオネ令嬢の身体は2~3日食べなくても大丈夫なのだ。
酷い空腹感も、波があるためしばらく我慢すれば収まり、その後は長いことお腹が空かない。
自室謹慎という軟禁状態のため、身体も動かさずに済むからなんとかなるのだ。
「全部食べて……僕は大丈夫だから」
「じゃあ、ふたりのものね。私が一つ食べたのだから、あなたも食べて」
そう言いながら、ユミはビスケットをイゴールの口に押し込んだ。
もしかしたら食べ物を貰えていないかもしれないと思ったからだ。
「イゴール、没収されないよう、あなたのとこに隠しておいてね」
そう言うとユミはビスケットを布で包み直してイゴールの胸にそっと押し付けた。
持って帰って自分で食べろという意味だ。
「お嬢様……ごめんなさい、僕のせいで……」
イゴールはサクサクとビスケットを食べながら、紫の瞳をうるませた。
そんな姿も、まるで月の化身のように美しい。
誰よりも空腹のつらさを知っているイゴール。
彼は、恩人がその苦しみを'自分を庇った罰'として与えられていると自責の念を感じた。
「あなたのせいじゃないわ。悪いのは……」
言いながらユミは何が悪いのか考えた。
自分で自分の髪を切ったユミか?
それともガマガエル父か、この世界の'常識'か、女の人権確立のために立ち上がらなかった先人たちか。
(あの男は私を所有物だと言った……)
ユミは10歳の頃から父と弟のために家事育児をしていた。
いや、させられていた。
(そもそも、私が私のものだったことがあった?)
高校を出るなり家を出て就職し、少ない給料でやりくりして一人暮らしをしてきた。
思えば、その頃ようやくユミはユミ自身のものになったのかもしれない。
なぜなら働けば給料が出るし、休憩もあるからだ。
無休で無給の家事育児と違って。
しかも、自分の分だけでいい家事はものすごく楽だった。
そして気付けばアラサー、どんどん周囲の友人たちが家庭を持っていった。
友人たちは幸せそうだったが、ユミはそれを内心、冷ややかな目で見ていた。
(私はどうして結婚を避けて来たんだろう……?)
学校を休まされてまで不眠不休で0歳児を世話した10歳のあの頃を思う。
貧しい独身生活を送っていても、ユミは今の自分が好きだった。
ユミはもう'家庭'に縛られたくなかった自分に気付いた。
誰かの所有物に、自ら望んでなりたがる友人たちが理解できなかったのは、ユミが現実を知っていたからだった。
(じゃあ、私が私を所有するには?)
ユミの茶色の瞳がキランと光った。
「イゴール、お願いがあるの」
「なに?僕なんでもやるよ!」
「まずイラン卿にこう言って……」
ごにょごにょ……
ユミの指示を銀髪の美少年が聞いていた、その時。
コンコン
「「――!」」
誰かがクリオネ令嬢の部屋を訪れた。
「早く扉の影に隠れて!」
「う、うん……」
ユミに促されてイゴールがフードを被って扉の陰に身を潜めた。
夜だから影が濃く、すぐイゴールは闇に溶け込んだ。
「どうぞ」
ガチャ……
入って来たのはデメキン風の顔立ちのふくよかな中年女性だった。
もちろん、この世界では美女ということになっている。
するり……ぱたん
中年女性の背後を忍び足で抜け、扉がしまる隙をすり抜けるようにイゴールが出て行った。
さすが将来世界最強の魔剣士になるだけあって、片鱗を感じさせる身のこなしである。
「クリオネ、髪を切ったそうね」
蜀台を置きながら、デメキン中年女性が嘆息混じりに言った。
「……ごめんなさい」
誰だろうな、と思いながらユミは従順なフリをして謝罪した。
「お母様の顔に泥を塗って楽しい?あなたまで、男児を産めなかった母を責めるのね。
いつの間にかあんな、ドブネズミみたいな醜い子どもを拾ってきて……」
デメキンが冷ややかに座っているユミを見下ろしながら言った。
「あなたさえ、男の子に生まれてきてくれれば、こんな肩身の狭いみじめな思いをせずに済んだのに……」
デメキンは、さながら幽鬼のように物憂げにぼやいた。
この世界、貴族の令嬢は、跡継ぎになれる'男児'を産む道具だ。
だが、子どもを、しかも男児を産まなきゃ価値のない人間なんているのだろうか?
ゆら……ゆら……
下から照らす揺れる蝋燭の陰影で、もはやホラー並みのグロ顔。
(デメキンとドブネズミなら、ドブネズミの方がまだ顔がカワイイよ)
だが、こういう個性的な顔が、この世界では美しい顔ということになっている。
「……」
イゴールを拾って2ヶ月、ユミはひとつ屋根の下に住んでいるデメキンに会っていない。
メイドいわく、愛人がいて、夫が仕事で留守の間はふたりっきりの世界に浸るらしい。
夫は夫で外に愛人がいるようで、いかにも上流階級の夫婦らしい夫婦生活である。
「あなたは私に似た、この美貌だけが取り絵なのよ。
こんな髪で、クロードに気に入ってもらえるかしら」
「クロード……?」
はて、どこかで聞いたような。
ユミは記憶を辿りながら小首をかしげた。
「親戚のデボン子爵家の次男、あなたの婚約者よ。この伯爵家を継ぐ」
デメキンは気だるげに言った。
(あっ……ヒロインに横恋慕する脇役だわ!)
そしてユミはその脇役の更に脇役の婚約者なのである。
クロード・デボンは、作中でクロード・エステバンを名乗っていた。
子爵家より伯爵家の方が格上。
クロードは婚約の段階ですでに伯爵家は自分のものだとヒロインにアピールしていたのだ。
人のモノを自分のモノのように自慢するとは、何という厚顔無恥。
(てゆうか、伯爵家の血を継いでるのクリオネなのに遺産相続できないんだ……?)
この世界、男尊女卑なので女は財産を継げないのであった。
(それってどうなの?ふつうにカルチャーショックだわ)
あくまで令嬢は血統書つきのイヌみたいな立ち位置なのである。
どっかの貴族家の子どもを産むための道具。
ゾッ――
ユミは頭部の血液が全部引くような感覚にめまいを覚えた。
(家事育児をやるの?また、この世界で……しかも妊娠するところから!?)
分かっていたはずだったが、分かっていなかった感覚。
ユミの脳裏に、妊娠で苦しみ出産で死んだ母のことがよぎった。
急に、他人事みたいに思っていたものが現実として目の前に出現するような。
前世でもタダ働きで搾取され、今世でも道具扱いされるのか……。
(女というだけで、自分が自分のモノではないなんて)
ユミは急に足元がすぽんと抜けおちるような感覚にとらわれた。
「……身の程をわきまえるのね、クリオネ」
青ざめた娘の姿を見たデメキンは、溜め息をつくと蜀台を持って去って行った。
パタン
部屋には冷たい静寂だけが残された。
ユミはその部屋の中で、自分で自分を抱きしめながら震えた。
(これが絶望か……)
一方、イゴールはというと。
デメキン夫人と入れ替わりに廊下に出た後、戸に耳をつけて聞き耳を立てていた。
――クリオネお嬢様には婚約者がいる。
イゴールは、その事実を知り胸がむかむかした。
確かに自分とは年齢差も身分差も外見差もある、高嶺の花だ。
はやくおとなにならなければ――イゴールは焦った。
何も持たない今のままじゃダメだ。
せめて身長差だけでも縮めなければ。
やけつくような感覚に胸をかきむしりながら、託された任務をやり遂げようと誓った。
~4年後~
「はい、これで今月の決算は終わりね……新規事業の方はどうなってる?」
ユミは書類を机に置いて、銀髪の美少年に尋ねた。
「順調に利益が出ております、お嬢様」
朗らかに詳細を報告するその美少年は、10歳になったイゴールだ。
丸坊主だった銀髪はサラサラに生えそろい、肌艶がよく小奇麗にしている。
ユミはあの後、イゴールとイケメン騎士に商会を設立するよう指示した。
自分で自分の所有権を持つために考えた結果がそれだった。
小規模から始まった商会は瞬く間に成長した。
原作の知識とユミの元の世界の知識によって。
「'エスカルゴ商会'も、最初のショボさが信じられないほど活気づいてきましたね」
イケメン騎士が見目麗しい笑顔でユミに言った。
かたつむりの殻のように、商会は末広がりに、生のスパイラルで成長を遂げている。
「ええ、イランのおかげよ。代理人ありがとう」
当時イゴールはまだ6歳だしユミは女なので表舞台には立てなかった。
だからイケメン騎士を代理人にした。
「僕も暗躍したでしょ?」
「ええ、イゴールも素晴らしい働きぶりだったわ」
イゴールはその後、魔法と剣術の才能を開花させ、伯爵家の騎士団に見習いとして所属した。
おかげで食べ物にも困らず、10歳ですでに155cmはあり、めきめき成長中である。
屈強な騎士たちに紛れると小さく目立つが、すでに頭角を表していた。
「ご褒美をあげたいけど……私があげられるものは限られてて。これなんかどう?」
引き出しに適当に入れていた安物のブローチを、ユミは差し出した。
アメジストという紫色の水晶がついており、安物だがイゴールの瞳によく合う。
それは、いつかイゴールを引き取る時の手形代わりにイゴール母に預けたものだ。
あの後売り払うことも盗まれることもなく、10カ月後に手元に戻った宝飾品。
家宝と言ったのが効いたのか、それとも安物だったから売らなかったのかは謎だ。
もしかしたらその後毎週、大銅貨が貰えるなら儲けもの、という打算があったかもしれない。
約束が守られなかったら売ろう、と思っていたのかもしれない。
ユミは約束を守り、ネコババしない信用できる騎士に毎週オカネを届けさせていた。
そうして最初の給与支払いの時に、アメジストのブローチはユミの手元に戻ったのだ。
「ありがとうございます……」
イゴールは思い出の品に紫の瞳をうるませて、そっと'初めての贈り物'を胸に抱いた。
あの日、絶望からイゴールを救ったブローチを。
その後イゴールの母親は安定した収入のおかげで人並みの生活ができるようになった。
身体を売らなくても生活できるため、自暴自棄でなくなったらしい。
たまにもっとカネをよこせと無心するらしいが、騎士相手なので強く出れないようだ。
ユミが'追加請求や借金は一切応じてはいけない'と騎士に言ってあるためである。
一定額しか入らないという刷り込みをきっちり行うためだった。
そのせいか、今ではエスカルゴ商会で小額の短時間労働で小銭を稼いでいた。
イゴールの母はイゴールがその商会の幹部だと知らないが。
「いよいよ……プレ・デビュタントですね」
イケメン騎士が、決算書などの資料を片付けながら、どことなく寂しげに言った。
「ええ……今年16歳を迎える令息令嬢が一同に会するらしいわね」
さながら育てた畜産牛の品評会兼競売だ。
原作のヒロインと皇太子はこの時に出会っている。
でも悪役イゴールは貧民出身騎士だったために、この会には出席できなかった。
だからすでに惹かれあっている二人の間に、入ることができなかった。
「……」
ユミは望んでも手に入らない愛に焦がれて、闇落ちしたイゴールを思いつつ美少年を見つめた。
「……?お嬢様、どうしました?」
イゴール少年はせつなげにユミに見つめられて、頬を染めながらはにかんだ。
「イゴール……求めても得られない場合は、あきらめることも必要よ……」
言いながら、ユミはなんだか自分自身に言い聞かせてるような気がした。
(私が求めても得られないものって、なんだろう……)
色々あった気がしたのに思い出せない。
諦め続け、いつの間にか忙殺された「何か」がユミの脳裏を一瞬よぎった。
「お嬢様……?」
「とにかく、世界を滅ぼしたりとかはしちゃダメだからね?」
ユミは考えを中断してイゴールに言い聞かせた。
「お嬢様、またそれ言ってる!僕はそんなことしないよ」
イゴールは爽やかな笑顔で肩をすくめて言った。
6歳で引き取ってからずっと、耳にタコが出来るほど言って聞かせて来たのだ。
「だって私、殺されたくないもの」
「僕、お嬢様だけは殺さないよ……」
そう言ったイゴールの紫の瞳は、どこか仄暗さを宿していた。
~更に6年後~
ユミ22歳、イゴールは16歳になっていた。
その後ユミは18歳で成人するなり、子爵令息クロードと婚約させられていた。
16歳で顔合わせして以降、クロードは伯爵の執務を学びに伯爵家に出入りしていた。
本当は子爵家次男なのに、ヒロインにはエステバン伯爵家の名前を名乗りながら。
「やあ、クリオネ令嬢」
陰湿な声が、ユミの耳を通して全身を縛り付ける。
「……クロードさま。今日も執務の引き継ぎ作業ですか」
ユミは中庭の渡り廊下で出会ったクロード子爵令息に、固い表情で声をかけた。
「ああ、ボクが伯爵家を継ぐのも時間の問題だね」
じっとりとした目でユミを頭の先から脚の先まで見つめて、クロードが言った。
ぞわぞわ……
ユミは怖気が立つ気がした。
(こんなのと結婚してあんなことやこんなことするのか……)
クロードもまた、ハダカデバネズミみたいな見た目をしているのだ。
一応、この世界ではイケメンということになっている。
(本当にこんなのと結婚しなきゃいけないの?そもそも私は結婚したいの?)
当初はそういうもんだし、前世でしてないし、してみるかと思っていたが。
ユミの脳裏をワンオペ育児をした慌ただしい記憶が一瞬よぎった。
すり~……
だが突然の気色悪い接触に、ユミは思考が停止した。
「クリオネ令嬢……そろそろボクたちも22歳だし、結婚しないか?」
「……!」
耳からアメーバみたいなどろどろしたものが入って来るような嫌悪感にユミは顔をこわばらせた。
執務の引き継ぎも順調だし、そろそろ'次期伯爵'の地位をくれよ。
そうユミの耳には聞こえた。
自分の利益を優先するガマガエル父の思考に沿って、ユミはこう進言していたのだ。
'領地経営などの力量を見定めてから籍を入れないと財産を食いつぶされますよ'と。
ガマガエル父は財産を使いこまれることを懸念して、まだ結婚をさせていなかったのだ。
伯爵位についてはどうでもいいが、この男の好き勝手に物事が進むのが耐えられない。
振り払おうとグイグイしてはみるものの、クロードは密着して離れなかった。
「な?いいだろぉ?」
ニチャァ……と気色悪い笑みを浮かべながら、クロードは覆いかぶさるようにユミの腰を抱いた。
ユミの身長も160cmくらいに伸びたのだが、やはり男女の力の差が明白だった。
その時。
バシッ!
「ぐあっっ!」
突然、クロードの恰幅のいい身体が弾かれたように中庭めがけて吹っ飛んだ。
「……!?」
ユミは何が起きたのか分からず、目を白黒させて無様に転げるクロードを見た。
「すみませ~ん、魔法弾の練習してたら間違って飛んじゃって~」
耳に馴染んだ美声が聞こえた。
イゴールだ。
粘菌に汚染された脳内がスッキリ爽やかに塗りかえられていくようだ。
「き、きさまっ!ちょっと腕が立つからってブサイクな騎士ふぜいのくせに!」
クロードは立ち上がりながら、ユミを背に庇うイゴールに怒鳴った。
チビだった美少年は195cmの屈強な美丈夫となり壁のように立ちはだかっていた。
(安心感と安定感がハンパない……)
ユミはすぐそばに筋肉質で体温の高いイゴールのぬくもりを感じてホッとした。
イゴールはその後、12歳で力量を認められて見習いからちゃんとした騎士になった。
しかも、16歳の今は最年少かつ帝国唯一の魔剣士のソードマスターになっていた。
歴代も含めて右に出るものがいないような最強の騎士である。
皇室に引き抜かれてもおかしくない腕前だった。
だが、そうならなかったのは外見のせいである。
だから時折隣国との衝突に駆り出されたり、スポットでいいように利用されていた。
兜を被って顔を隠してしまえばいいからだ。
「高貴なボクに向かってよくも野蛮な……ヒッ」
スッ――
尚もまくしたてるクロードだけに見えるよう、イゴールは表情を凍てつかせた。
ヒヤリ、周囲の空気が下がるような感覚をユミも覚えた。
「医局までお送りしますね、クロード坊ちゃま」
グイ、とイゴールはクロードを無視して腕を掴むと、その耳元で何やら囁いた。
すると、クロードは急に大人しくなってすごすごと連行されていった。
「イゴール……」
ユミは立ち去る広い後背筋を見つめながら、自分のふがいなさに自己嫌悪を感じた。
胸を満たす熱い何かに戸惑いながら。
(以前は私が誰と結婚しようと、そばに置ければいいと思っていたけど……)
イゴール以外に触れられるのを考えるだけで身体の芯まで凍るようだ。
(でも16歳だよ??6歳差だよ??)
結婚できるのは、男児は18歳からである。
ちなみに女児は16歳から結婚できる。
プレ・デビュタントの品評会で審査をクリアし競り落としたら即納品できるというわけだ。
ユミが入ってるクリオネ令嬢はまあまあの美貌ということになっている。
それでも即納品とならず、おつとめ品まっしぐらなのは'婿養子'条件のためだ。
エステバン伯爵家が大富豪ならば婿になりたい者が殺到しただろう。
だが実際は領地も資産も大したことが無い、大したことない家門だった。
ガマガエル父が放漫財政していなければ、まだマシのはずなのだが。
おまけに、クロードがほぼ内定していたため、他に誰も名乗り出無かったのである。
(しかもあんな美形とだよ????)
会話するのも恐れ多いような燦然と輝く美貌の男とあんなことやこんなこと……。
考えるだけでユミはカッと身体の芯が熱くなるのを感じた。
嫌では無いけど嫌。
(こんなデブスな裸を見られたくない……恥ずかしくて死んじゃう!)
ただでさえ最近、ユミはイゴールと目を合わせることが出来なくなっていた。
年を追うごとに麗しい美少年から、色気の滲む美青年に成長するイゴールを。
しかも、年々そのミステリアスな紫の瞳に謎の熱がこもってる気がするのだ。
まさに目からレーザー。
じりじりと焦されているような錯覚にユミはいつも尻の座りが悪くなった。
だからユミは以前と違い、イゴールを見かけても声をかけずに避けるようにしていた。
廊下でも庭でも練武場でもどこかで見かけたら声をかけていたのに。
イゴールは気配に敏感なのでユミの視線にすぐ気付く。
すぐにユミを見て声をかけようとするのだが、ユミはそれに気付かないフリをしていた。
だって、イゴールの眉目秀麗な顔を見る度に、自分がヒキガエルになった気がするのだ。
豪華絢爛な何かの前で、とんでもない醜態を晒しているような、いたたまれない気持ち。
ユミはその感覚が怖かった。
自分が自分で無くなるようで。
先ほどの接近も、随分と久々だった。
イゴールの声、体温が、あんな近くに来たのは。
カッ
ユミは熱くなった頬の熱を冷ますようにかぶりを振って、そそくさと自室へ戻った。
その姿を、イゴールは遠くから昏い紫の瞳でじっと見つめていた。
翌日、ユミが自室でエスカルゴ商会の報告書を読んでいるとメイドが来た。
「お嬢様、エスカルゴ'男爵'からの使いが来ているそうです」
「そう、今行くわ」
商会から何か連絡があるらしい、と気付いたユミは席を立った。
商会のことは秘密なので、数が多い男爵家に偽装してそう呼んでいるのだ。
トコトコトコ……
勝手知ったる廊下を歩いていると、突然視界が揺れた。
ガチャ!グイ!バタン!
まさに電光石火。
ほぼ一瞬の出来事で、ユミの見ていた景色は廊下じゃなく居室に切り替わっていた。
「えっ?え……?」
ユミは遅れて、急に右腕を掴まれてゲストルームに引きずり込まれたことを認識した。
そして、がっしりした身体に背後からすっぽり抱きすくめられているということも。
取りあえず、ニオイであのハダカデバネズミ男クロードじゃないことだけは分かった。
いつもキツイ臭いのコロンか何かをプンプンさせているからだ。
何か事情があるのかもしれない、とユミが思った時。
「どうして僕を避けるんですか……お嬢様」
耳がとろけるような美声がユミの脳内を襲ってきた。
「……イゴール?どうしたの?」
一気に高鳴る胸に自分自身動揺しながら、ユミは務めて平静を装いながら尋ねた。
従者であるイゴールが、主君である令嬢にするには、かなり行き過ぎた行為である。
だがユミはイゴールにあこがれのバックハグをされて内心歓喜に沸いていた。
「お嬢様に……目を反らされる度、見なかったフリ気付かなかったフリをされる度に、僕がどんな気持ちでいたか、わかりますか?」
イゴールの16歳とは思えない艶やかな美声が、震えていた。
「……怒ってるの?」
バックン、バックン
ユミは心臓が口から飛び出してきそうな感覚に、はふはふしながら何とか言った。
「ええ……そうですね、怒ってます」
ザッ――
ユミは背後にいる'原作で世界を破滅させた超人'のその言葉に、血の気が引いた。
(なんで――私どっかで育て方間違った!?)
育児には手ごたえとやりがいを感じていたのだが。
やはり三つ子の魂百までで、6歳で保護したんじゃ手遅れだったのか。
イゴールが脅威的な強さと腹黒い知力を持つ強敵なのをユミは知っている。
その人物が自分に対して怒っているのだから軽く受け流すことなどできはしない。
だが、抱き締めていた腕の力は、なぜか少しゆるんだ。
「僕を拾ったなら、最後まで面倒を見て下さい」
「見てるわ……見てるじゃない。何か不自由でも?」
言いながら、ユミは元の世界で稼ぎ頭の父に言われたことと自分の発言がリンクした。
――生活費を稼いでるのは誰だ?誰のおかげで生活できると思ってる?
0歳を世話しながらの家事をしていたユミが不満を漏らした時、父に言われた言葉だ。
確かにそれは事実なのだが、そうじゃないのだ。
ユミはうまく言い返せないまま、やりこめられて終わった。
あの時ユミが父に求めたのはなんだったか……。
(私は何を間違えてるの?)
ユミは確かにイゴールの生活の世話を見ているが、最近は無視してしまっていた。
(だってイゴールを見ると、ドキドキしちゃうから……)
あの時の父もひっ迫した家庭内の問題から目を反らして逃げていた。
ユミはその時父にどうしてほしかったのか。
「向き合ってほしいです……お嬢様」
「――!」
ユミは背後から降り注ぐ声に、はっと目を見開いた。
(私は……自分の気持ちに向き合うことから逃げていたのね)
くる……
ユミはイゴールの長い腕の中で、おずおずと身体を回転させた。
騎士服ごしからでも屈強さが分かる、たくましい胸筋が目の前にある。
「僕を見て……お嬢様」
ユミは恐る恐る、イゴールを見上げた。
いつもは完璧な美貌を誇る端正な相貌が、へにょりと歪んでせつなげにユミを見下ろしていた。
「……!」
ユミの瞳がみるみる大きく見開かれた。
久々に直視するにはレアすぎて、網膜に焼き付けておかねばと反射的にそうなった。
「あいつが好きなの?」
「あいつって?」
「クロード……あのいけすかないハダカデバネズミだよ」
「好きとか嫌いじゃなくて……」
(結婚しろ、と言われているから仕方なく――)
だが、今のユミは自分があのハダカデバネズミと結婚してる姿を想像できなかった。
「あいつを殺せば、僕だけを見てくれる?」
イゴールの紫の瞳に狂気がゆらめく。
「私は……どうすればいいの?」
こんなに年も身分も外見のレベルもかけ離れたあなたをこんなに好きになって。
「僕を、捨てないでください」
イゴールの言葉に、幼かった日の自分が重なる。
家事育児をして価値を証明しないと捨てられてしまう――そう思っていた自分。
「捨てたりなんかしないわ」
「いないもののように扱うのは、見捨てることも同然です」
「そんな……ただ……ただ、私は……私でいたいの」
そのために、どうすればいいのか、わからなかっただけで。
その気持ちをうまく言語化できずに、ユミは口をぱくぱくさせた。
自分が自分でなくなる感じとは、どう伝えればいいのか。
だが、その'元の自分'は、変えたらいけないものなのか。
そういう葛藤もあり、それが上手く言語化できないのだ。
「僕のことが怖いですか?」
イゴールは先ほどユミが明確に自分に怯えていたことに気付いていた。
こんな異常行動をとれば、そして異性と密室に二人きりになれば、当たり前だとも。
それでも、目を見てしまえば、触れ合ってしまえば、もう止められなかった。
「怖いわけでは……」
ユミは思考を巡らすように視線を反らして言った。
(確かにさっきはちょっと怖かったんだけど)
先ほどのは一過性のものであり、普段から怖いわけではないのだ。
「目をそらさないで、お嬢様。僕の目を見て」
耳をしびれさせるような、なまめかしい色気たっぷりの声がユミの脳を揺らした。
「なんで?何か魔法かけてる?」
ユミは執拗に目を見るよう言ってくるイゴールを訝しんで訊いた。
イゴールは魔法も駆使するソードマスターなのだ。
「かけてもいい……?魔法」
「どんな?」
「お嬢様が僕を愛してくれる魔法」
イゴールは微笑みながら言った。
だが、その笑みはどこか哀愁が漂っていて、壊れてるような気がした。
(イゴールの愛と引き換えならいい……いやでも、年も身分も外見も差が……)
あの頑固な、自分の利益しか頭に無いガマガエル父が、黙ってるとは思えない。
貧民出身のブサイクな騎士になんて絶対伯爵家を継がせたくないと言うだろう。
イゴールの愛をユミは確信したが、すぐに懸念事項たちが立ちはだかった。
「……」
ド――ン……
遠くで、花火の上がるような、遠雷のような音がした。
「何の音かしら?雷?」
ユミはイゴールの美しい瞳を見詰めたまま、尋ねた。
「さあね……今日は皇宮で独身の令嬢令息だけ集まるパーティをしてるみたいだけど」
「――!」
その言葉に、ユミは今日が何の日か思い出した。
ヒロインと主人公が想いを伝え合って結ばれる日。
しかし、花火の演出も雷の演出も無かったはずだ。
記憶を辿るユミの瞳が揺れる。
ギャォ――……
次いで聞こえたのは、明らかに何やら大きめの生き物の咆哮だった。
「は――」
ユミは急に、目の前のイゴールが自分の知らないイゴールになったような気がした。
「つい先日……国境の紛争に駆り出された時に、面白い物を見つけてね……」
そう言うイゴールの瞳には光りがなく、濁っていた。
「面白いものって、あなた、まさか……」
ダダダッ
ユミはすぐさま外に飛び出して行き、皇宮の方向を見た。
その'まさか'な光景が広がっていた。
赤いドラゴンが1匹、悠々と皇宮の上を旋回して火を吹いていたのだ。
「あ……あれはっ――!」
それは、原作で黒幕イゴールが主人公にぶつけるために解き放った邪竜だった。
主人公とその仲間たちが全員ボロボロになって、なんとか倒せたような強敵だ。
(そんな……!邪竜はもっと後半で出てくる中ボスなのに……!)
そもそもイゴールが主人公に殺意を抱かなければ登場しないはずだったのだが。
その時、イゴールがユミのそばにスッと立った。
「お嬢様が、僕だけを見て、僕だけに微笑み、僕のことで常に頭がいっぱいならいいのに……」
仄暗い笑みを浮かべた端麗な顔が、せつなげにユミを見下ろしながら言った。
「僕がブサイクだからダメなのかな?」
「――!」
その瞬間、ユミは気付いた。
(ヒロインに向くはずだった執着が、そのまんま私に……!?)
つまりイゴールは元々、生来そういう愛の形を持った人物だったのだ。
虐待環境から救おうが、ヒロインに会わせないようにしようが関係無い。
婚約者がいようと、年齢差があろうと、身分差があろうと、外見差があろうと、失恋しようがしなかろうが、関係ない。
惚れた女にヤンデレ猪突猛進。
「あれを、どうするつもりなの!?」
ユミはすでにどえらいことになってる皇宮を指さして言った。
「ふふ……特等席で見せてあげるよ。お嬢様だけ特別にね」
そう言うと、イゴールはユミを抱きあげた。
「きゃっ!」
「イゴール、良かったそこにいたか!皇宮から召集だ!」
その時イケメン騎士イランが、イゴールの兜を持って駆け付けた。
「ええ、今行きますよ。困った時しか呼ばれない皇宮に」
「イゴール、お前……お嬢様をどうする気だ?」
失笑交じりに言うイゴールに、狂気を見たイラン卿は顔を強張らせた。
「僕のそばが一番安全なので、一緒に皇宮へ連れて行きます」
「確かにお前は強いし、皇宮なら魔道具シールドがあるが……」
ちら、とイラン卿が皇宮の上空を見た。
どうも、あの邪竜は皇宮に用があるように見える。
「皇宮が陥落したら、どのみちこっちの方も火の海にしますよ、あいつは」
しれっと、イゴールはそう言って踵を返した。
そうしてイラン卿の懸念も振り切り、ユミを連れて皇宮へ向かった。
04.転
シュン――
目の前が白く瞬くと、一瞬でそこは皇宮だった。
イゴールは瞬間移動魔法も使えるのだ。
その頃には、皇宮に魔道具で張られたシールドが壊れて邪竜が暴れていた。
主人公とその仲間たちも瀕死の重傷状態。
それもそのはず。
(本来、討伐の準備をして立ち向かう敵だもん……)
不意打ちでいきなり向こうから攻めてくるというのがまず、すでに不利なのである。
半壊して青空が見えるようになったパーティ会場の一角に着くと、イゴールはユミを下ろした。
ここは建物は壊れているが、皇宮魔術師たちがバリアを張っているのだ。
「おお!ようやく来たか、いますぐあの忌々しい化け物を退治しろ!」
皇帝陛下がイゴールに駆け付けて、命令した。
「……」
だが、イゴールは無言で憔悴しきった貴族たちを悠々と見回した。
満身創痍の主人公と、ヒロインと、仲間たちと、皇宮騎士団たち。
それ以外は独身の令息令嬢が身を寄せ合ってぶるぶる震えていた。
「おい、イゴール……!」
横でイラン卿がハラハラとイゴールを小突いて言った。
「僕以外に戦える人っていないんですか~?」
イゴールはさらさらの銀髪をかき上げながら、間延びした声で言った。
「貴様……!帝国民なのであれば、わしの命令には従え!」
「どうしてですか?」
「どうしてって……帝国のものは全てわしのものだからだ!」
「僕は皇帝陛下のものじゃありませんけど」
しれっ、とイゴールは絶対零度の無表情で言った。
「なっ……」
これにはさしもの皇帝陛下も口をつぐんだ。
(自分は誰の物でも無いって、言っていいんだ――)
ユミはイゴールの隣でやりとりに耳を傾けながら、目から鱗が落ちたような気がした。
「じゃあ、誰のものだというのだ!」
「こちらにいらっしゃる、クリオネお嬢様のもので~す」
イゴールはユミを手で示して言った。
「はっ!エステバン伯爵令嬢か。帝国の所有物じゃないか」
ユミを見て、皇帝陛下は鼻で笑って言った。
「そもそも女は男の所有物だ。さあ、令嬢!お前の所有物だという騎士に命じろ!」
「……」
(私は誰かの所有物なの……?)
ユミは考え込んだ。
「おい、デボン子爵令息!お前の婚約者だろう、ちゃんとしつけておけ!」
皇帝陛下が居合わせたクロードを叱責した。
「は、はい――。おい、クリオネ、早くしないとただじゃおかないぞ!」
皇帝陛下に声をかけられたことも滅多にないクロードは、慌てて虚勢を張った。
「なんで独身限定パーティに来てるの??」
ユミは間髪入れずにクロードにツッコんだ。
「うっ――」
これにはクロードも言葉に詰まった。
ヒロインに横恋慕して、口説きに来ていたからである。
まだ手に入れていない伯爵位ごときをかさにきて。
「これをやるから、お前の騎士にアレを討伐させろ!ボクが叱られるだろ!」
そう言ってクロードが乱暴にユミに握らせたのは、シンプルなデザインの指輪だった。
赤い宝石がはまっていて、美しいが、ユミはそれが何かすぐ悟った。
(なるほど、イゴールはこれで邪竜を皇宮におびき寄せたんだ……)
原作でも登場人物のひとりが安易に邪竜のコレクションを盗んで、粘着されていた。
強欲な邪竜は、自分の宝物を奪った者を決して許さず追跡して殺すのである。
ヒグマみたいに。
そしてクロードがこれを持って皇宮に来た理由もすぐ悟った。
ヒロインに求婚するためだ。
「どうして私があんたなんかを気遣ってやらなきゃならないの?」
ユミは手の中の指輪を見つめながら尋ねた。
ふつふつと、腹の底から熱いものが込み上げる。
クロードはユミを気遣ったことなど一度も無いのに。
なぜユミばかりが気遣ってやらなければならないのか。
父は一度もユミに'家事育児をしてくれてありがとう'などと言っていないのに、
なぜユミばかりが'働いて生活費を稼いでくれてありがとう'と言わなければならないのか。
「それはお前がボクの婚約者で、ボクのモノになるからで――……」
ガキ――ン!
その時、大きな音と共に衝撃で足元が揺れた。
「ぐああああ!」
邪竜の魔法と斬撃に、皇宮魔術師が吹き飛ばされ、バリアが欠損した。
「まずい!次はもうもたないぞ!」
他の魔術師の血相を変えた声に、一同は一瞬で血の気が引いた。
だがユミはそれどころではない!
「私は……私は」
結婚して子どもを産んで、家庭を築いて、家事育児するのが女の幸せだろうか?
ユミの中でアラサーになるまで長年積もり積もった、言語化されずにいた感情が渦巻く。
(育児?嫌だ――)
ユミは母親が妊娠で苦しんだ姿を覚えているし、その挙句に出産で死んだのを見た。
その悲しみも癒えぬまま始まった0歳児の世話をしながらの家事というデスマーチ。
(絶対、結婚も妊娠も出産も育児も、したくない!)
ユミはついに自分の本当の気持ちに辿りついた。
住み込みで家事代行業をしつつ保育士を同時にするダブルワークを想像してほしい。
しかも夜勤も一人でやり、無給の無休という超ブラックなデスマーチを長期間。
大人だけの時の家事より、乳幼児がいると汚れものがたくさん出て家事の負荷も倍増する。
そして0歳児は目を離すと死ぬことがある上に家事をありとあらゆる方法で邪魔する。
後追い期の弟にすがりつかれてギャン泣きされながら幾度となくユミは'今あんたのごはんを用意してるのよ!'と怒鳴ったことがある。
しかも代打がいないという背水の陣状態で、体調不良でも家事育児は待ってくれない。
そんな環境は誰でも音を上げるはずである。
赤ちゃんのカワイさだけで乗りきれない過負荷がそこにはある。
だがそれが現代日本社会の家事育児の「現実」なのだ。
ユミは'人権'を失い、無給の無休で24時間酷使される便利道具にさせられたのだ。
'ヒト'ではなく'モノ'に。
カッ――
邪竜の放った魔法攻撃が、バリアをほぼ破壊した。
「うわぁぁああ!」
辺りは阿鼻叫喚になった。
それでもユミはやめなかった。
「私は――私は、便利道具じゃない。私は私のものよ!」
ユミはクロードに向かって叫んだ。
「なっ――」
「あんたなんか婚約破棄よ!見た目も大嫌い!二度と顔も見たくないわ!」
トン……
その時、ユミの横から伸びた長い屈強な腕がクロードの肩のあたりを軽く押した。
シュボッ
邪竜の吐いた炎の中に、一瞬でクロードは消えて行った。
ゴオオオオオオ!
だが、ユミと皇帝陛下の周囲は、何か壁のようなもので護られていた。
ユミは熱すら感じなかった。
イゴールの張った魔法障壁が一帯を護り、目の前が火の海なのが嘘のようだ。
大きなスクリーンで映像を見せられてるような非現実感。
「お嬢様が……あいつを好きでなくて、良かった」
ユミの耳元に響く声は、目の前の地獄絵図とは正反対に穏やかで柔和だった。
仮に好きだったとしても、恋敵なら殺したけど。
イゴールはそう思ったが、言わなかった。
「た、頼む……何でも望みを叶えるから……邪竜を討伐してくれェェい……」
皇帝陛下は腰を抜かして小便を漏らしながら、震える声で言った。
「イゴール、邪竜を討伐してあげて」
ユミはさすがに憐れになって言った。
「ええ~?聞こえないなぁ……ここにいる全員に証人になってほしいのに」
キロ……と紫の瞳が、生き残った貴族たちを見渡した。
形の整った耳に手を当てる仕草すら色気マシマシだ。
「邪竜を倒したら何でも願いを聞くっ!わしとここにいる全ての者が証人だっ!」
皇帝陛下は決死の覚悟で腹の底から声を張り上げた。
「ええ、いいですよ。その約束、反故にしたら代償を払ってもらいますからね」
イゴールはそう言うと、ようやく剣を抜いた。
途端に、周囲の空気が変わったのが分かった。
シュゴォォォォ!
正体不明の光がイゴールを包み込み、強力なエネルギーが大気を大地を揺らした。
(すごい……あんなイゴール初めて見た……)
ユミは高揚感に、胸が高鳴るのを禁じえなかった。
ギャオオオオオ!
邪竜が強敵の出現を察知して、俄然やる気を出して雄叫びを上げた。
ついでにその深淵のような口の奥からは、炎が湧きだしていた。
さながら地獄の釜である。
だがその炎が吐き出されることはなかった。
ビ――――!
イゴールの手から強烈な魔法攻撃が邪竜の口に向かって放たれたからだ。
どごぉぉぉん!
暴発した自らの攻撃で邪竜はダメージをくらい、全身から煙を噴いた。
だが、すぐに回復する。
「ダメだ、邪竜は……すぐに回復してしまう……」
主人公がヒロインの膝枕で、血を吐きながらうめいた。
「ぐはぁっ……」
突如、身を寄せ合って非難していた人々が、バタバタと倒れて行く。
そう、邪竜は生きとし生ける者の命を吸い取ってしまうから邪竜なのだ。
負傷したので、近場の生命力に手を出しているわけである。
普段ははげ山のドラゴンレアでコレクションに囲まれて大人しく過ごしている。
たまに生命力を吸いにはげ山から出ることもあるが、100年に一度くらいだ。
しかも地球をぐるっと一周すると、満腹になる。
吸われる側も、生命力を吸われる負荷も分散されるので大したこと無いのである。
つまり、そっとしとけばいいモノをイゴールはわざわざ起こして誘導したのだ。
寝た子を起こすような真似をして、人口密集地に。
すべては目的を達成するために――。
(イゴールはやっぱりイゴールだったか……)
目的のためなら手段を選ばない悪役、イゴール。
ズバッ、ガキン!キィン!コォォォォ……キ――ン!
ユミは壮絶な空中戦を眺めながら、自分がイゴールのイゴール具合を見誤っていたことを認めた。
早すぎるし光の点滅にしか見えないし、もう何がどうなってるのか分からない。
なお、ユミだけはイゴールの加護魔法で護られていて生命力を吸われていない。
(もう色々腹をくくるしかない)
ユミはイゴールの壮絶な戦いを見ながら一人覚悟を決めた。
ズバッ!バシュ!ドバァッ!
ギャァァァァ――!
ついに邪竜はイゴールの斬撃によってバラバラになって皇宮の園庭に落ちた。
ドガァ――ン!
イゴールはカウンター攻撃で魔法を食らい、攻撃に成功したものの吹っ飛ばされた。
「やった!ついにやったぞ!」
人々は邪竜から放出された生命力を再吸収して、にわかに活気づいた。
皇宮の建物の中までぶっ飛んだイゴールには目もくれず。
そうやって、いいように権力者に利用されてきたイゴールが、なぜかユミは自身と重なった。
女だから当然と、無休で無給の家事育児を押し付けられてきた過去の自分と。
イゴールは幾度となく命がけで戦って帰還しても労をねぎらわれることもなく、その後も当たり前のようにタダ働きさせられていた。
ユミはその姿が自分や母に重なった。
命がけで妊娠出産しても褒められることもなく、直後から無給の無休でコキ使われ「それが当たり前」と扱われてきた世の母親たちのように。
「いや……邪竜はすぐに復活する……」
尚も呻く主人公。
血吐いてるわりに結構しゃべる。
だが、その言葉通り、邪竜は肉塊の状態から再び元の形に戻った。
「そ、そんな……」
人々は元の姿に戻りつつある邪竜を、愕然と見つめた。
パラパラ……
小休止とばかりに、イゴールが突っ込んでいった建物から静かにがれきが舞う。
ユミのところからは、あおむけに倒れたイゴールの足の先だけが見えていた。
「イゴール……!」
ユミは心を揺さぶられた。
イゴールに死んでほしくない。
どんだけヤンデレで歪んでてもいい。
生きてユミのそばにいてほしい。
どう言う形でもいいから――。
びゅぅぅ……ユミのボブショートの髪が粉塵を含んだ風に舞う。
邪竜が再び首をもたげ、もうダメだ、と誰もが諦めたその時――
ガラ……
おもむろにイゴールががれきの中で立ち上がった。
その手には何かが握られていた。
シュッ――
姿が消えたと思ったら、イゴールはユミのそばに立っていた。
瞬間移動魔法である。
「イゴール……良かった、無事だったのね!」
死んだかもしれない、と思ったユミは心底安堵して言った。
「いつだって……僕の身を案じてくれるのは、あなただけですね」
ふ……とイゴールは温かい笑みを浮かべながら言った。
「え……?」
そうだっけ?と思いながらユミはイゴールの手の中の物を見た。
「それなに?」
赤いソフトボール大の宝玉だった。
「邪竜のコアです。これを奪われると邪竜は肉体を再生できなくなるんです」
紫の瞳が、スッと庭園の方を見た。
見ると、庭園の落ちた邪竜は、うまく元の姿に戻れず蠢いていた。
「コア……?」
ユミはぽかん、と訊き返した。
(そうだ、原作でも主人公たちが満身創痍になって破壊した心臓部だわ)
「そ、それを破壊するの?衝撃波でえらいことになるんじゃ――」
ユミは慌ててまくしたてた。
原作では周囲が破壊の衝撃で焦土になっていたからである。
「いえ、傷つけません」
そう言うと、イゴールはおもむろに空中に魔法で光る箱状のものを出現させた。
「ここにコアをこう入れると……遮断されて生命力を吸えなくなります」
皮膚呼吸でも周囲の生命力を吸ってしまう邪竜がいた山は、草一つ生えない荒れ地になっていた。
「そうなると……?」
「邪竜は'死ねない'ので、胃が縮んで、空気中の少しの生命力だけで生きれるようになります」
シラミの退治方法と同じ、兵糧攻めである。
断食中みたいな省エネ構造になるらしい。
イゴールはそのまま光の箱の中に入れたコアをぎゅぎゅぎゅっと圧縮し出した。
ブワァァア……
謎のエネルギー派が周囲に風のようなものを起こす。
「……!」
その中心にいる、銀髪紫瞳の最強魔剣士に、人々は畏怖を感じた。
イゴールの手の中で、みるみるうちに閉じ込められたコアは豆粒みたいに小さくなった。
「お嬢様、指輪を出してください」
「あ……はい」
ユミは邪竜のコレクションだった赤い宝石のついた指輪をつまんで差し出した。
すると、イゴールはそこに圧縮した邪竜のコアを閉じ込めたのだ。
強力強靭な魔法を自在に操れるイゴールだからできる離れ業である。
「はぁ……すごい……」
ユミは思わず、感嘆を漏らした。
ポッ、と誇らしげにイゴールが頬を染めたが、気付かなかった。
そっ、とイゴールは光が収まった赤い宝石のついた石を、両手でつまんだ。
大きな手の指先につままれた、邪竜入り指輪。
それをどうするのかユミが見ていると、スッとイゴールはユミの前で跪いた。
高身長なので、跪いても結構圧迫感があるのだが。
「大容量のインベントリに再構築しました。エスカルゴ商会の運搬でご活用下さい」
イゴールはまるでプロポーズをするみたいに、指輪を差し出して言った。
複雑な魔法が必要なインベントリをこの短時間で作ってみせたのだ。
ドラゴンのコアを素材にして。
そして、愛する主君が、ただの指輪なら受け取らない可能性を見越していた。
希少で便利なインベントリなら、絶対に受け取ると、確信していたのである。
腹黒策士イゴール包囲網。
「イゴール、こんなことできたんだ……」
ユミはまたも感心して言った。
イゴールは大がかりで派手な攻撃魔法を使うシーンしか原作にない。
インベントリのような繊細な魔道具を作れるとは思わなかったのだ。
「ええ、時々作って小遣い稼ぎしてました」
しれっと、イゴールは言った。
帝国のために戦っても報奨金ひとつ貰えなかったイゴールは、そうやってへそくりを作っていたらしい。
「エスカルゴ商会……!?」
イゴールとの会話に、周囲がざわめいた。
今やすっかり大きくなった商会は、帝国を牛耳るほどの巨大企業になっていたのだ。
「エステバン伯爵令嬢、エスカルゴ商会とツテがあるのかね!?」
皇帝が尿の水たまりの中で腰を抜かしたまま、尋ねた。
「皇帝陛下、この方がエスカルゴ商会の本当の商会長なんですよ」
ニコッ、イゴールが盛大にバラした。
「そして僕はナンバー3の幹部です」
しれっと、自分のことも売りこんだ。
「なっ、なっ、……女の分際で商会の運営を……!?」
皇帝陛下はナチュラルにユミをディスってきた。
チリッ、と空気がぴりつくような感じが一瞬した。
「あ、皇帝陛下、邪竜討伐の報酬を今いただいてもいいですか?」
そういうとクロードは両手を開いて、一同にもアピールした。
今から皇帝陛下に願いを聞き届けてもらう約束を果たさせるぞ、と。
「う、うぐ……望みを言え」
皇帝陛下は貴族たちの前で約束した手前、今更断ることなどできなかった。
それに、どうやっても敵わなそうな強大な力の前に、首を縦に振るしか無かった。
「僕の要求は――」
一体どんな要求をするのか、皇帝陛下も貴族たちも固唾を飲んで見守った。
'皇帝の座を譲れ'か、'国庫のカネを半分よこせ'か、'公爵位をよこせ'か――。
様々な思惑が交錯した。
ユミもまた、固唾を飲んで銀髪をたなびかせる美丈夫を凝視した。
「クリオネお嬢様が伯爵位を継ぐことです」
「な……!」
皇帝陛下以下一同は、予想だにしない要求に瞠目した。
女ごときのために、一世一代のチャンスを棒に振ったも同然だったからだ。
「女性が爵位を継げるように、法律を改正してください」
イゴールは柔和に微笑みながら、望みを告げた。
「女に財産を相続させるだと……!?」
「娘が爵位を継ぎたいと言ったら、息子はどうなるの……!?」
「女が執務など行ったら、放漫財政ですぐに没落するぞ……!?」
人々は口ぐちに懸念を口にした。
だが。
「く……わかった、約束を果たそう」
皇帝陛下は呻くように要求を飲んだ。
皇帝にしてみれば、皇位を譲れ、と言われるよりマシだったからだ。
脅威的強さを見せつけたイゴールを敵に回したくなかったこともある。
願いを聞き入れることで、飼い馴らすことができると考えたのである。
ざわ……!
人々はその決定に騒然とした。
「イゴール……良かったの?」
爵位や財産、もしくはユミとの結婚を要求することもできたはずなのに。
なんならユミの知る腹黒イゴールなら、公爵位を得てドラゴンレアの財産を自分のものにし、カネと地位にモノを言わせて惚れた女を囲いこんだはずだ。
ユミは立ち上がった美丈夫を見上げて訊いた。
「僕に、ユミさんを愛させてください」
その顔は、憑き物が落ちたようだった。
「……!なぜその名を」
「実は、ユミさんを洗脳して僕だけのものにしようと試みたことがあるんです」
しれっと告白された罪に、ユミは目を丸くした。
やっぱりイゴールはイゴールだった。
地位だ名誉だの回りくどいことはせずに、最短距離でコミットしにきていたらしい。
「でも、なぜか上手くいかなくて。真名が必要なんで、記憶を覗いたんです」
クリオネ令嬢の名前は肉体の名前であり、魂の名前では無かったから失敗したらしい。
こうしてイゴールはユミの前世の記憶と原作知識を知ったのだった。
どんな呪縛に苦しんでいるかも。
「どうして、洗脳しなかったの?私を」
「……ちょっと違うなって、思ったから……」
ユミのイゴール育ては無駄ではなかったらしい。
「どう違ったの?」
「僕は……お嬢様のありのままの幸せな姿でいてほしいんです」
「ありのまま?」
「自分を犠牲にしたり押し殺したり、望んでるわけでもないことをせずに。
やりたいことだけやって、なりたい自分になってください。
そのために邪魔なものは僕がすべて排除しますから」
そのミステリアスな紫の瞳には、揺るがない決意が宿っていた。
イゴールの美声がユミの脳を溶かす。
なんという甘言だろう。
おかしな精神魔法よりもよっぽど危険だ。
「私……私は……」
ガラガラ……、がれきの一部が崩れる音が遠くで聞こえる。
「言って下さい」
粉塵をはらんだ風がユミの髪を揺らす。
「私は、私の所有者が私でありたい。私は私のものなの。誰の物でも無く――」
「……ええ」
「私はもう自分の人生を諦めたくない。
私は私のままでいたいの。
妻だとか母親だとかって枠に抑圧されてハメられた私じゃなくて、本来の私で。
子どもを産むための道具だとか、
家事育児を押し付けていい便利道具として利用されたくないの」
女だからって家庭内の全ての仕事を押し付けられて、楽々こなせるわけではない。
女の身体は月の半分くらいは体調不良だからだ。
なのに、家事育児は常に湧いて出て、一時も気が休まらない。
ユミは幾度となく高熱を出したまま家庭を回してきた。
ユミがやらないと回らないからだ。
汚れたものも、ユミがやらないといつまでもそのまんま。
散らかったものも、洗った洗濯物も、干したらずっとそのまんま。
ユミしかやらないから。
誰もやらないから。
ユミがやるもんだと決めつけて押し付けているから。
妊娠のしんどさも、出産の苦しみも、育児しながらの家事の大変さも、赤子の世話の真の大変さも――。
世の中のほとんどの人が知らない。
一緒に暮らす夫や父親とかすらも知らない。
家事育児を他人事として捕えて無関心だからだ。
なんならユミが自分の時間と労力を犠牲にして育てた、弟すらも知らない。
彼らは誰もが、自分の親が「何」を犠牲にしたのか、分かっていないのだ。
自由、健康、睡眠時間、自分らしくいること、片付いてて常に綺麗な生活空間、好きな時にトイレに行ける権利、眠い時に眠れる権利、体調が悪い時に休める権利……。
女たちは出産と同時に'人権'を失い、母という名の'モノ'にされたのである。
「そんな人たちのために、私はもう'自分'を殺したくないの」
はたから聞くと支離滅裂だが、それでもユミは心の内を吐露した。
「ええ、それでいいです。僕が支えますから」
「イゴール……」
ユミは込み上げる熱い感情が目から溢れるのを感じて、顔を上げた。
その先には、純粋な愛に満ちた目でユミを見下ろすイゴールがいた。
「今までよくがんばりましたね。がんばってくれて、ありがとうございます」
そのおかげで過労死したあなたと出会えたのだから。
「……!」
ぶわっ
ユミの瞳から、堰を切ったように心の澱が大粒の涙としてあふれて頬を伝った。
今まで望んでも誰も与えてくれなかった、それらの言葉を聞いた瞬間に。
イゴールは武骨な手で、そっとユミの頬をぬぐった。
先ほどまで荒ぶる鬼神のごとき闘いを繰り広げていた者とは同一人物とは思えないような繊細さで。
イゴールの思惑とは別で、ユミはその言葉がずっと欲しかった自分に気付いた。
労られたかった、努力を認められたかった、褒められたかった、感謝されたかった。
ユミがワンオペ育児と家事で犠牲にした「何か」たちが、報われていくような気がした。
「自由な時間」「健康」「睡眠時間」「眠気を堪えて作業した尽力」「無給の無休」「労力」「我慢、忍耐」「自分の時間」「やりたかったこと」「なりたかったもの」。
それらが渦を巻いてユミからスッと抜けて行った。
長年見て見ぬふりをして溜まりに溜まった澱のようなものたちが。
「……?」
傍から見てる人々は、あきらかに頑張ったのはイゴールの方なのに、ときょとんとした。
「じゃ、帰りましょうか」
イゴールは憑き物が取れたように爽やかにユミに言いながら、抱きあげた。
「……うん」
ユミはもう抵抗しなかった。
ユミの前世と今世と全部合わせて、唯一無二の理解者にして初めての'味方'だから。
「あっ、みなさん、ドラゴンの死体の血か肉を摂取するとケガが治りますよ」
イゴールは振り向きざまに、一同にそう告げてスタスタ帰路についた。
不老不死にはならないが、生命力の塊なので回復薬になるのだ。
わぁっ、と貴族たちが我先にと庭園に落ちたドラゴンの死体へ群がった。
その醜悪な光景を、イゴールはユミに見せまいとばかりに、瞬間移動魔法で帰宅した。
05.結
翌日。
ユミはイゴールと'はげ山'に来ていた。
邪竜の呪いがかかっている、とイゴールが皇帝を脅してユミに下賜させたからだ。
辺り一面、草一本生えていない灰色の荒野が広がっていた。
邪竜が自然と生命力を吸ってしまうエリアだからだ。
「あんな無茶な真似をして……邪竜が世界を滅ぼしたらどうするつもりだったの?」
ユミは溜め息交じりに、自分をお姫様だっこするイゴールをなじった。
「お嬢様の記憶から邪竜の存在を知った時、すぐに始末の付け方も目処がたったから」
さらさらの銀髪を荒野の風が揺らす。
「こうすれば始末できるな~、って?」
ひとしきり景色を眺めた後、イゴールはユミを抱いたまま移動し始めた。
ユミは揺られながら、尋ねた。
「うん、お嬢様が昔、僕から移ったシラミを退治した時と同じにすればいいな、って」
イゴールは足場の悪い中、ヒト一人抱えてるとは思えない確かな足取りで移動した。
「あれをドラゴンにやろうってのが、まず普通じゃないわよ……」
発想もすごいが、できる者も恐らくイゴールだけだろう。
「でも、イゴールが世界を邪竜から救った救世主になって、良かったわ」
イゴールは今や帝国の誰もが知る偉大なるドラゴンスレイヤーとなっていた。
実は自作自演だったのだが……それは永遠にふたりだけの秘密である。
「救世主なのはお嬢様さ」
イゴールは洞窟を魔法で照らしながら移動して、言った。
「私?私には大した力は無いわよ……全部イゴールのおかげ」
イゴールみたいに腕っぷしも強くないし、育てた商会だってイケメン騎士名義だ。
親にも婚約者にも逆らえず、結局イゴールに助けられた。
「ははっ、だからすごいんじゃないか。それでも僕を何度も救ったところが」
イゴールの紫の瞳にこれまでの日々が浮かぶ。
ユミが貧民街に迎えに来た日のことや、身を呈して暴力から庇ってくれた時のこと。
自分を虐待していた母さえ、支援して貧困から救いだしたことも。
イゴールは母を許せないが、同時にそれでも母親として愛していた。
貧困や苦悩により、あのようになったことを今では理解している。
一生顔を合わせるつもりはないが、どこでどうしてるかは定期的に確認していた。
やがて、ふたりは拓けた空間に出た。
イゴールが明るくする魔法の玉をいくつも出して、ぐんぐん上昇させた。
明かりで、天井が結構高いことがわかった。
辺りがみるみる明るくなり、その全景が明らかになっていく。
「うわ――……」
ユミはその壮大な光景に思わず言葉を失った。
宝の山が目の前にそびえ立っていたからだ。
「これがドラゴンレアだよ。邪竜のコレクションが詰まった、巣」
そう言うとイゴールは、ユミを抱いたままふわりと宙に浮かび上がった。
すると、ユミは'宝の山'は誤解だったことに気付いた。
'宝の山脈'か'宝の湖'が適切なほど、見渡す限りの金銀財宝が眼下に広がっていたのだ。
「ところで、どうやってクロードに邪竜の指輪を持たせたの?」
ユミは広大な洞窟内に果てしなく広がる大量の黄金を眺めながらイゴールに尋ねた。
イゴールがユミの記憶を読んで、原作の情報を入手していたことはもう知っているが。
「あいつはギャンブルで借金があったんだよ、お嬢様」
イゴールは宝の山には目もくれず、ユミを見つめながら言った。
(ああ、だからイゴールはクロードを黙らせることが出来たんだ……)
弱みを知っていたから。
ユミはいつかの渡り廊下で助けられた時のことを思い出し、ひとり納得した。
「それで、僕がカネに困ってるクロードに融資してあげたってわけ。
邪竜の財宝を少々拝借して……ね」
銀髪紫眼の美貌を誇る美青年が、不敵な笑みを浮かべて囁いた。
腹黒い知将、イゴール。
その借金も、実はイゴールがイカサマをしてクロードに背負わせたのだった。
クロードもまさか、窮地を救ってくれたと思った宝飾品に邪竜がくっついてくるとは思いもしなかっただろう。
「そう……。この財宝って、本当に呪いがかかってるの?」
ユミは利用価値が無いならどうしようか考えながら訊いた。
イゴールは、宝の山と山の間にある、邪竜がとぐろを巻いていたらしい位置に舞い降りた。
ユミはそこで下ろされて、伯爵邸を出て初めて地に足をつけた。
ずっとイゴールが抱きあげていたからである。
地というより黄金だが、邪竜の体重で踏みならされていて平らで、安定感がある。
「あんなのデタラメだよ。これぜーんぶ、お嬢様のものだよ!」
イゴールは紫の瞳をきらきらさせながら、ユミの前で両手を広げて言った。
その背景はどこもかしこも金銀財宝で、イゴールの美貌とよくマッチしている。
「イゴールのものでしょ」
ユミはブサイクな自分より、この豪華絢爛な光景はイゴールに合っていると思った。
「お嬢様に下賜するように皇帝陛下に言ったから、お嬢様のものだよ」
イゴールは紫の瞳でユミをじっと見つめて言った。
「じゃ、ふたりのものね」
「あの夜のビスケットみたいに?」
「……布で包むには、ちょっと多過ぎるビスケットね……」
ユミは微笑みながら答えた。
*****
2年後。
ユミは父から伯爵位を買い取って、帝国初の女伯爵となった。
当初は、没落してカネに困った父から買い叩くつもりだった。
エスカルゴ商会のカネで、男の名前の、存在しない人物を作って。
だが金銀財宝が大量に手に入ったので、没落させるという手間を省けた。
そしてやはり、女でも大手を振るって爵位が継げるようになったのが大きかった。
そのためユミは予定よりかなり早く、サクッと伯爵になったのだった。
父は、ホクホクで伯爵位を譲った。
領地経営などわずらわしい責任から解放され、大量の財産が手に入ったからだ。
そして、ユミは父と母を領地にあるそれぞれ別の邸宅に隠居させた。
母には充分な生活費を毎月送っているので、暮らしには困らないだろう。
コンコン――
音の方を見ると、白タキシードが眩しい美男子が立っていた。
18歳になったイゴールだ。
「お嬢様……すごく綺麗だ」
満開の大輪の華だってイゴールほどじゃなかろうというような笑顔で彼は言った。
「……ありがとう」
ユミはウェディングドレスをまとって立っていた。
太ってるし顔もユミ基準ではブサイクなので、自分では全く綺麗だとは思えない。
でも、愛する人が気に入ってるならもうそれでいいかとユミは受け入れていた。
どのみち自分の顔は自分では見えない。
それにユミの価値はもう外見ではない。
不利な状況でも諦めず前向きに物事を進める'力'なのを自分自身よく分かっていたからだ。
イゴールが、それに気付かせてくれた。
「これからも'お嬢様'って呼ぶの?」
ユミは気になっていたことを尋ねた。
「名前で……呼んでいいの?僕なんかが……」
いつも自信満々で飄々としているイゴールが、美しい相貌を翳らせて訊いた。
「呼んで……'ユミ'って、――呼ばれたい」
ユミは真正面に立つのも恐れ多いような美貌の男に、決死の覚悟で言った。
自信が無かった頃のユミにはできなかったことだった。
「ゆ……」
紫の瞳が揺れる。
「ユミ……」
美麗な顔が羞恥と背徳感と不安感と緊張感に紅潮する。
「……!うれしい」
ユミは心からの笑顔でそう言った。
「――……!」
イゴールの紫の瞳がみるみる見開かれた。
ぎゅっ
「イゴール……」
ユミはいきなり抱き締めてきた美丈夫の、脇腹寄りの背を軽く叩いた。
「僕も……うれしい」
その顔は見えないが、声が震えていた。
「僕なんかが……ユミと結婚できるなんて……」
「もう、僕なんかって、言わないで。私も言わないようにするから」
ユミがそう言うと、のそりと大きな身体がユミから離れて居住まいを直した。
見下ろすイゴールの紫の瞳は涙でうるみ、本物の宝石のようだった。
「僕と一生、一緒にいてくれる?ユミ」
「ええ」
ヤンデレだからちょっと怖いなと思いつつも、ユミはそう答えた。
もう覚悟を決めていたからだ。
イゴールと一蓮托生という、覚悟を。
盛大な結婚式と披露宴が開かれ、ユミとイゴールはめでたく結ばれた。
その後、ユミは潤沢な資金で義務教育施設や養護院を多数作った。
優秀な者を早期発見する仕組みを構築したのだ。
突出してない数多の者には、13歳から入れる技能専門学校を各種用意した。
官僚向きか研究者向きか技術者向きか、大体の傾向はその頃までに分かるからだ。
無理に全員に官僚になることを前提にした教育を施す必要は無いのである。
適材適所、それぞれ人は何になるかの設計図を持って生まれてくるのだから。
だから'何になりたいか'を前提にした教育を自分で選んで受けれるシステムにした。
そのため、この世界の子どもたちは意欲的に授業に取り組んだ。
ただ闇雲に'何に役立つんだかよく分からない勉強'を強いられるわけではないからだ。
そして、学歴で賃金差は発生せず、純粋な当人の能力によって賃金差がつくようにした。
頭脳明晰な者や特別な才能のある者だけが通える巨大アカデミーも作った。
寮完備で衣食住を無償提供し、生活の心配一切せずやりたいことに打ち込める環境を作った。
もちろんすべて、身分も出身も性別も年齢も関係なく恩恵に預かれる。
独特の、カネにはならないけどやりたい研究がある人のための仕組みも作った。
'突き詰めたい'という欲求が人一倍強いなら、それはそれで才能なのである。
それに一見無駄に見える研究であっても、なんかの時に役に立ったりするからだ。
だからユミは性ホルモンの波を穏やかにする研究にも投資した。
それは、誰にも見向きもされなかった研究だった。
そのおかげで、女性は存分に自分の能力を発揮できるようになった。
もう帝国には、月の半分を体調不良の身に鞭打ってタダ働きする女性はいなかった。
避妊と性感染症予防の魔道具も開発され、悪意を持った男が近寄れないようにした。
これにより女性たちは委縮することなく、抑圧されることなく、更に能力を発揮した。
誰だって、いい成績を取ったとか達成感を得た時に痴漢などされて意欲をくじかれたくないからだ。
努力が無駄にならない世界、それをユミは実現した。
その'努力'には、妊娠出産育児も当然入る……日本社会と違って。
そのためにユミは権力を得て国の法律や執政にも口を出すようになった。
多方面から手を出し口を出し、顔もカネも出し、帝国における女性の地位向上に一役買った。
イゴールはその隣で常に紫の瞳を光らせてユミを護り、サポートした。
もしかしたら、ユミが知らないだけで、水面下で手を汚したかもしれない。
イケメン騎士イランは、生涯エスカルゴ商会の代表者としてユミを支えた。
彼はユミが幸せならそれで良かった。
'自分はエスカルゴ商会と結婚した'とキャリアウーマンみたいなことを言って生涯独身を貫いた。
その代わり、立場上頻繁にユミと行動を共にしてイゴールをやきもきさせたのはまた別のお話。
また、個々人の単純な技能だけが重視されるシステムにした弊害もあった。
能力を中々発揮できないような生来の問題を抱えた人々も当然いるからだ。
だからユミは生活保護システムも作って社会実装した。
ユミは生活保護は現物支給論者だ。
読み書き計算ややりくりをする能力の無い者に現金だけ支給しても無駄遣いしてしまう。
当時小学生でワンオペ育児経験をしたユミのように。
主婦がやるやりくりだって、あれも一種の才能であり労力はタダではないのである。
だからそういった者には、衣食住の世話をした。
やりくりを考えて献立を決めて買い出しに行かなくても、食事にありつける。
食堂に行けば4つくらいのメニューから選んで、出てきたものを食べればいい。
そして簡単な仕事、短時間の仕事にありつける。
給料が低くても、住む場所もあり、着る物もあり、共同シャワールームやトイレもある。
ユミは'最低限度の生活そのもの'を公費で提供したのだ。
だから底辺まで落ちても人々はそこまで悲壮感を持っていなかった。
一カ所に集めさせられるという点では自由度が制限されるが、まとめる利点もあった。
技能研修などのカリキュラムも多種多様用意してあったからだ。
這いあがるチャンスをユミは多く用意したのだった。
目が見えない者には目が見えなくてもできる仕事を。
耳が聞こえない者には耳が聞こえなくてもできる仕事を。
それでも無気力になって何もやりたくないなら、それでもいい。
出された物を食べ、与えられた服を着て、与えられた部屋で寝ればいい。
寝たきりで何もできない人や重度の障害に生来もしくは途中でなった者だっている。
そういう人はそれはそれで、いいのだ。
ユミはそういう人たちは学校などに併設した施設に少人数配置し負荷分散した。
そして学生には短時間、世話の仕事を発注し、もちろん受注し働いたら時間分の給与を公費で支払った。
そういう仕組みをつくることに税金を使ったのである。
重度の障害がある人にだって存在意義がある、とユミは考えている。
ヒトは誰しも、頑健であろうともひとりでは生きていけない。
彼らの世話を通して人と人がつながり、孤独感が癒され、世話に関わった人は安心感を抱く。
'もしも事故などで自分がこうなっても、誰かが世話してくれるんだな'という安堵を。
だからこの世に無駄な人など誰ひとりとして、存在しない。
便利道具として無給の無休でコキ使っていい者も、存在しない。
ただしユミは性犯罪にはことさら厳しく取り扱った。
一度でも事件を起こせばレッドカードで去勢。
怪しいと疑いをかけられた場合は、女子どもに近寄れなくする魔道具をつけさせた。
そんなわけで治安もとても良くなった。
産業革命も起こしたが、それが性別分業を引き起こし女性の地位や権利を剥奪してしまうのを防いだ。
工場一体型宿舎という、村がそのまま一つの建物になったようなのを各地に建てたのだ。
保育園も学校も安全な遊び場もあり、常に誰か大人が有償で身守っている。
これにより、家庭と職場の分離を防いで、家族を分断しないようにした。
子どもは親の背中を見て育つことができ、安全な場所でのびのび過ごした。
親は子どもが安全という安心感をもちながら稼ぎを得て'自分のまま'でいられた。
家事育児を無給の無休で押し付けられる便利道具――「モノ」ではなく。
家事育児は労働のうちとされ、シフト制で仕事の合間に宿舎のすべての住民が携わる。
家事育児をタダ働きで無くしたのだ。
これにより父も母もライフワークバランスを取って仕事と家庭を両立した。
ユミは、ほぼすべての商会や商団を傘下に入れて経団連を作った。
そのため未成年のいる家庭の労働時間は9時―15時と統一された。
育児に対して賃金が出るため、普通に働いてる者と格差は生まれなかった。
ただし人口が増え過ぎると自然環境に良くないため、子は1家庭2名までとした。
支援が受けれるのが2名までなのを周知徹底したことで、多くの家庭は2名で留めた。
避妊の魔法が功を奏し、うっかりデキた子は産んでもらって養子に出した。
これにより子どもに目が行き届くようになり、優秀な人材がどんどん誕生した。
読み書き計算などの識字率は、性別問わず後に99%まで上昇した。
内政が充実したことにより、帝国は栄華を極めた。
そして立役者となったユミは銅像が造られ、首都の中央に保護魔法付きで飾られた。
はげ山はその後草が生えるようになり、開拓の手間が無かったため工場地帯にした。
宿舎一体型工場が多く建ち並び、多いに栄えた。
水道を荒れ地に引いて来る公共事業は多くの貧民に仕事と衣食住を提供した。
鉄道会社を設立して、線路を敷設する事業も同様に。
ついでにテーマパークも建造し、周辺の地価はうなぎ上りになった。
広大な荒れた平地だったので、アカデミーや専門学校も建て放題だった。
ヒトの集まる所に商売も集まるので、大いににぎわった。
なにせ帝国一の金持ちの肝いりの地域だったから。
もちろんエスカルゴ商会が大儲けした。
数々のユミが手掛けた事業により帝国は経済が活性化して貧民が全体の1%まで減った。
国が本気で税金を国民のために効率よく使おうと思えば、社会問題はすべて解決することをユミは異世界で証明した。
ユミを苦しめたものは、「国」の怠慢だったのである。
「へぁ――!へぁぁ――!」
赤ん坊が力の限り振り絞るようにして泣き声を上げている。
「おーよしよし~」
ユミは勝手知ったるように添い乳で黙らせた。
母親だからって赤子の泣き声が不快じゃないわけじゃない。
普通に苦痛だ。
うっくん、じゅっ、うっくん
生後3カ月ともなると、赤子の方もすっかり慣れた様子で乳を飲む。
最初は激痛授乳だったユミ側も、もう痛くない。
ユミはその後、環境が整うにつれ自然と子どもが欲しくなり、産んだ。
最強の魔剣士がそばにいるという安心感から、妊娠出産という命がけの挑戦をする勇気を得たのだ。
誰でも、命がけで挑戦した後に、褒められるでもなく無給の無休でコキ使われ「モノ」のように扱われたら絶望するだろう。
日本社会が'母親'たちにしたのはそういうことだ。
しかも産後の女性は精神的に不安定になり睡眠不足と体調不良に悩む。
ユミは支援をする中でそのことに気付いた。
そのため、イゴールと力を合わせて医薬品や魔道具などで対策してから産んだ。
だが、産後に赤ちゃんと二人きりという状況にならないよう負荷分散すれば大丈夫だった。
負荷分散に変わる孤独対策は無いということが異世界で証明されたのだった。
「おむつ替えるね~」
イゴールが、赤子の小さな背をさすってげっぷをさせると、おむつカバーを外した。
赤子はおっぱいを飲みながら色々出すのだ。
「あっ、まだ早いんじゃない?」
「あ」
しゃ――……
案の定、虹の橋が出来た。
「きゃぁはははっ」
男児あるある、おむつ外した直後を狙って放尿、だ。
イゴールとクリオネを足して2で割ったようなフツメン顔の赤子はご機嫌だが。
「いいよ、お洗濯に出すからね」
イゴールは優しく言うと、手早く汚れものを片付けて、おむつ替えをした。
ユミは授乳するのと自分のことをやるだけ。
それ以外全てのことをイゴールと乳母と使用人が負荷分散している。
おかげで孤独感も閉塞感もなく、すごく気が楽だ。
汚されても誰かがやってくれるという安心感があることが。
食事も作ってもらえるし、片付けてもらえる。
これは物凄いありがたさなのだ。
夜間対応は4時間のみ。
日中の細切れ育児も合わせると、24時間中育児をするのは9時間だけだ。
一般的な労働時間程度にすれば、ママへもニコニコ、赤子もニコニコ。
一番最適な'子ども支援'は、ママが笑顔で過ごせる'環境'なのだ。
そのためには、ママが滅私奉公の無休無給労働をするのは良くないのである。
ユミはこういった育児の負荷分散システムも帝国中に広めた。
税金を正しく市井に回せば、いくらでも余裕なのである。
3歳未満の家庭には4人の、公費で雇われ研修を受けた近所住みのサポーターが着く。
ママは夜間対応のあと合間で授乳だけしてあとは昼までぐっすり眠れる。
常にママ以外にもう一人いるため、常に一人で赤子の様子を見なくていい。
家事担当と育児担当で交互にやり、バトンタッチしたあとひとりでゆっくり休める。
生後6ヶ月には人見知りが始まる。
そのため、それまでに濃密なお世話をする者が最低4人は必要だ。
常時2名、休憩まわすのに+1名、休日回すのに+1名で計4名。
コレが最低ラインである。
顔見知り前に刷り込んだ、ママ並みに信頼できる者ならば、1歳以降も託しやすい。
泣きわめいてママと今生の別れみたいなことになりにくい。
現代日本は、ママだけに負荷も責任も背負わせるから、その後の負荷分散もうまくいかないのだ。
赤子の世話なんて簡単、そう思っている者が日本社会には大量にいる。
少子化により幼い頃から弟妹の世話に関わった者が少ないせいだ。
だからユミは義務教育施設には託児所を併設した。
買い物の間とかひとりになりたい時などに気軽に無料で預けるか、サポーターと一緒に利用できる。
児童に保育の知識を履修させて、幼少期から短時間で年下の子どもの世話をさせた。
もちろん有償で、おこづかいが出る。
働ける上限時間が厳しく決まっているため、大した稼ぎにはならない。
だが、社会のために必要なことをして賃金を得る経験をした子どもたちは自信や目標のある大人に育っていった。
ユミが目指したのは、'国民総保育士化計画'である。
ユミは元の世界、日本の社会の失敗を活かした。
少子化問題も、ワンオペ育児・密室育児問題も、介護問題も、ヤングケアラー問題も、各種虐待問題も、離婚率上昇問題も、すべて問題の根幹は一緒だ。
ひとりの人間に厄介事を押し付けて、見て見ぬふりをすること。
まるで癌細胞が発生する時のように。
押し付けた結果、健康な独身にとって快適ではあるものの、総ソロ世帯社会になった。
そして'孤独'と'不寛容化'が人々を蝕んだのだ。
'妻・母親'が社会を見限って背を向けたからだ。
彼女たちの献身への感謝を忘れ、当たり前のように扱った結果'見えなくなった'。
社会は'妻・母親'を見失ったのである。
彼女たちを物言わぬモノ扱いして、声に耳を傾けなかったから。
彼女たちが犠牲にしたものを大したことがないかのように扱ったから。
ユミはこの世界を、日本と同じようなディストピアにしたくなかった。
他者に暴力をふるってしまう系の老人や障害者については、屈強な騎士団にデイケアセンターを併設した。
殴られそうになっても避けれるし、多少ならノーダメージだからだ。
そしてマッチョたちは困難を抱える人たちに優しかった。
優しくできるのも、負荷分散されているからである。
自分ひとりが背負わなくていい、というだけで寛容になれるのだ。
こうして帝国はユミの思い描いた理想郷へと進化していった。
ユミはその後大往生して100歳で眠るように旅立った。
子や孫やひ孫、そしてイゴールに看取られながら。
イゴールはその一カ月後に、引き継ぎなどの身辺整理を済ましてユミの後を追った。
超越者であるイゴールは若々しく、まだあと500年くらいは生きられそうだった。
多くの人に惜しまれたが、イゴールは幸せだった。
大好きなユミの元に行けるから。
ユミとイゴールの遺体は保存魔法をかけられ、綺麗なまま未来永劫、伯爵家に安置された。
おしまい
R18もあります。ムーンライトノベルズの方も見てね!