落としたのは鉄の斧です
木こりのケムヒャには幼馴染がいた。
その女の子は昔から病弱で、季節の変わり目には必ず風邪を引いた。いつからそうだったのか記憶にもないが、ケムヒャは何かと彼女の世話を焼いていた。
酷い咳をするときには、山に入って薬草を取ってきてあげたり。秋の豊穣祭の日に高熱を出したときには、楽しげな人の声を聞きながら、うなされる彼女に一晩中寄り添ってあげたり。
しかし、そんな日常も長くは続かない。
「……この鉄の斧。私が作ったの。大事にしてね」
明日には成人し、村の小さな教会で結婚式を挙げる約束をしていた、その晩。彼女は流行り病に倒れ、息を引き取ってしまった。
彼女の実家は鍛冶を生業にしており、ケムヒャには内緒で新品の斧を用意してくれていた。なにせ彼の使っている斧はボロボロで、いつ壊れてもおかしくなかったから。
その後、ケムヒャは孤独な十年を過ごした。
村長が嫁をあてがおうとしても、頑として首を縦に振らない。幼馴染にもらった鉄の斧を後生大事に抱え、木を樵るだけの日々。
――女神様、お願いです。ケムヒャを助けてあげてください。いつまでも私の死にとらわれて、前を向けない彼を、どうか。
ある日のことだった。
ケムヒャがいつものように木を樵っていると、不思議なことが起きた。これまで一度もそんなことはなかったのに、大事にしていた鉄の斧がスポッと手から抜け、泉の中にドッポンと落ちてしまったのである。
慌てた彼は、鉄の斧を拾いにいこうと服を脱ぎ、泉に飛び込もうとする。まさに、その時だった。
ボコボコボコ。泉の水が形を変えて、世にも美しい女神の姿を形作った。もちろん、ケムヒャはびっくり仰天。尻もちをつく彼に、女神は問いかける。
『貴方が落としたのは、この金の斧ですか。それともこの銀の斧ですか』
女神の両手には、キラキラと輝く二本の斧が。
しかし、ケムヒャの目にはそのようなもの、これっぽっちも魅力的には映らなかった。
「自分が落としたのは鉄の斧です」
『あなたは正直者ですね。では、褒美にこの金の斧、銀の斧を差し上げましょう』
そう言って、二本の斧を差し出す女神に、ケムヒャは首を横に振った。
「いえ、この斧は頂けません。お願いです。どうかあの鉄の斧を返していただけませんか……十年使い古したあの斧は、皆にとっては無価値でも、自分にとっては何物にも代え難い宝なのです。どうか、どうかお願いです。あの鉄の斧を……」
ケムヒャの言葉に、女神はため息をつく。
『彼女を忘れることは、できませんか』
「はい。自分は不器用な木こりですから。一生に一度、たった一人。傍にいたいと思った彼女を、忘れることなど……できるはずがありません」
『……そうですか』
女神は小さく頷くと、ケムヒャの額に指を置く。
『私は貴方から、彼女の記憶を奪う予定でしたが』
「そんな……どうか……」
『安心なさい。それは取りやめにします。しかし……貴方がいつまでも前を向かないと、冥界の彼女が安らかに眠れないのです。ですから――』
そうして、女神は金の斧、銀の斧、鉄の斧の三本を泉のほとりにそっと置く。
『金銀の斧を売り、良い生活をしなさい。鉄の斧を大切にするのは良いですが……貴方に想いを向ける娘もいるでしょう。受け入れてあげなさい』
「……彼女はそれで、安心して眠れますか」
『えぇ、きっと』
そうして、女神は柔らかく微笑む。
『大丈夫。人間の寿命などあっという間ですよ。彼女には、すぐに冥界で会えるでしょうから……土産話がたくさんできるよう、人生を楽しみなさい』
ボコボコボコ。女神の体は音を立て、泉の水へと戻っていった。あとに残ったのは、静かに涙を流すケムヒャ、ただ一人であった。