ファーレンハイト伯爵と三人の妻の遺言
【1通目:クリスティーン】
最愛のあなた。
誰よりも美しく、誠実なわたしの夫。
ヒュー=スコット=ファーレンハイト様。
今あなたに手紙を遺すにあたって、一体何から書いていいのか、わたしは迷っています。
でもまずあなたに申し上げなければならないのは、わたしのような不器量な女を娶ってくれた優しさにでしょう。
本当にありがとうございます。
あなたに結婚を申し込まれた時、これはわたしの願望が見せる夢なんじゃないかと、本気で疑いました。
たくさんの淑女の羨望と嫉妬を受け、足が竦んだのを覚えています。
それほどまでにあなたはわたしには手の届かぬ人で、社交界に燦然と輝く太陽のような方でした。
王宮で開かれた舞踏会、あなたのパートナーを務められるのが夢のようでした。
国王陛下直々に結婚の祝辞を頂けたこと、まさに天に舞い上がるかのような心地でした。
でもどんな喝采や美辞麗句よりも、毎朝毎晩、ベッドの中であなたに贈られる「おはよう」と「おやすみ」が大好きでした。
あなた。
最愛の、あなた。
そんなあなたを一人残して、旅立たねばならないわたしを、どうかお許し下さい。
侍女のメアリも、わたしと同じ急な発熱と嘔吐で先日亡くなりました。
馬番のセバスは、たくさんの血を吐いた挙句、手足が黒く腐って死んでいってしまったそうです。
ああ、もしかしたらわたしの体も、近い内に醜く腐ってしまうのでしょうか?
炭のように黒ずんで、見るも無残な姿になってしまうのでしょうか?
恐ろしい。
あまりにも恐ろしい流行り病。
この国だけでもう何万人もの人が死んでいると、もっぱらの噂です。
そして醜く腐っていくわたしの姿を、絶対にあなただけにはお見せできません。
あなた自身が望んだとしても、絶対に。
だからわたしは、あなたが用意してくれたこの静養地で、一人静かに死んでいくことに致しましょう。
どうか。
どうか悲しまないで、あなた。
どうか。
どうか苦しまないで、あなた。
あなたはとても素晴らしい人。
わたしを亡くしたとしても、必ずまた新しい幸せを見つけることができるでしょう。
必ずまた、別の誰かを愛することができるはずなのです。
それを寂しい……と思わないわけでもないけれど……。
それでも、たとえわずかの間でも、わたしはあなたの妻として暮らせて、とても幸せでした。
もし誰かがわたしを救ったとしたなら、それは、あなた。
愛しています。
永遠に。
だからわたしの愛と共に、あなたが新しい人生の一歩を踏み出せますように。
祈っています。
心から。
たとえ遠く離れても。
たとえ二度と、会えなくても。
――あなただけの”クリスティーン”
◇◆◇
【2通目:アデル】
よぉ、ヒュー。
今あたしは、この手紙を瓦礫の中で書いている。
元々汚ねぇ字だし、走り書きになるけど許してくれよな。
そうそう、何の教養もないあたしに字を教えてくれたのは、あんただったな。
ホント、お偉い貴族様の酔狂には呆れるぜ。
自分の財布をすったスリを捕まえて、自分の屋敷に保護しちまうなんてな。
あの頃のあたしは、やたらあんたに噛みついてたっけ。
比喩じゃなく、物理的な意味でも。
あの時あんたの腕に濃い歯形をつけちまったこと、今は心から反省してる。
だってあんたはあたしを本気で救おうとしてくれた。
こんな生まれも育ちもわからない下町のガキ相手に、真剣に向き合ってくれた。
……ありがとう。
恥ずかしくて面と向かっては言えないけど、これでもあんたには感謝してるんだぜ。
あんたに出会わなければ今頃あたしは道端で野垂れ死ぬか、どこぞの娼館で客相手に腰を振っていただろうさ。
なのにあんたに黙って家を出てきちまって、ゴメン。
たくさんたくさん嘘をついて、ゴメン。
あんたに不満があるわけじゃない。
むしろずっとそばにいたいと思ってる。
けど、今この国は生まれ変わろうとしているんだ。
王族と貴族の支配から解放されて、平民自らが政治に関わる時代へと変わりつつある。
あたしは時代の変わり目で、あたし自身の意志で戦いたい。
仲間達と、新しい世の中を創りたいんだ。
もちろん貴族にだっていい奴はいる。
そんなことはあんたと暮らしてりゃ、いやでもわかるさ。
だから仲間達には、どうかあんたのことは殺さないでくれと頼んである。
あんたももしあたしの仲間に遭遇したら、絶対抵抗せずに大人しく投降してくれ。
あたし?
あたしの方は心配無用だ。
何せあんたに出会うまで、あの掃きだめのような下町で泥水を啜りながら生きてきたんだから。
大丈夫。
あたしは死なない。
絶対生きて、あんたのもとに帰る。
この手紙だって、決意表明みたいなものさ。
いや、願掛け……かな?
この手紙が届けば、きっとまたあんたに会えるはずだ……って。
愛してるぜ、ヒュー。
あんたがあたしを育て、生きる意味を教えてくれた。
だからどうかあたしの帰りを待ちながら、ご自慢のカボチャのポトフを作って待っていてくれ。
帰ったらまた幸せな結婚生活の続きをしようぜ。
それこそ最高のイチャイチャって奴をよ!
今から楽しみだぜ。
――”革命の乙女” アデル
◇◆◇
【3通目:レイチェル】
本日は、晴天なり。
本日は、晴天なり。
されど、敵軍の侵攻は止まることを知らず。
フォーレンハイト伯爵様。
いつものように堅苦しい手紙になること、どうかお許し下さい。
あなたの傍から離れ、もうどのくらいの月日が経つでしょうか?
他国に亡命しようとしたあの日あの時、駅であなたとはぐれてしまった時のことが本気で悔やまれます。
あれは私の人生の中で最も愚かな失敗でした。
作戦上、あなたと離れてしまうことは生存率の大幅な低下を意味します。
そんなこと、予めわかっていたはずなのに。
あなたは無事でしょうか?
鍵十字の魔の手があなたにも迫っていないか、毎日気が気ではありません。
幸いにも私はあなたとはぐれた後、母方の親戚と偶然再会し、今は地下室に匿ってもらっているところです。
ですがここは湿度が高く不衛生。
それだけでも気が落ち込みそうなのに、先週は隣町で空襲がありました。
いよいよこの町にも軍隊が侵攻してくるかもしれません。
だから。
会いたい。
もう一度だけでいい。
あなたに、会いたい。
今はその希望だけを胸に、息を殺すように暮らしています。
いつかあなたと共に見上げた、あの教会の、あのステンドグラスの美しさを思い出しながら。
神よ。
どうか。
どうか早くこの戦争が終わりますように。
そしてどうか。
どうか誰もが明るい陽の下で、穏やかに暮らせる平和な日がやってきますように。
あ。
誰かがこの家にやってきました。
一階の床を踏み鳴らす、軍靴の音が聞こえてきます。
取り急ぎ、本日の報告はここまで。
ではまた明日。
愛しいファーレンハイト様。
追記:
だけどもし。
もし私がこの地で命を落とすとしたなら。
どうかこの先も、あなたが私という女を忘れてしまいませんように。
そして。
どうか。
あなたがもう二度と、私以外の誰かを愛しませんように。
これが私の最初で最後の、わがまま。
私の、心からの遺言、なのです。
――暗き地下室にて。レイチェル=ファーレンハイト
◇◆◇
三通の遺言書は、年代物の宝石箱の中に大切に保管されていた。
それらをベッドの上で黙々と読み耽っているのは――ファーレンハイト伯爵の四番目の妻・ヴァージニア。
ヴァージニアはかけていた眼鏡をいったん枕脇の机に置くと、ふぅぅ……と長いため息をつく。
(彼がこれを大事にしているのは知っていたけれど、まさかこんな内容の手紙だったなんて……)
季節は早春。
雪の積もる枝から花の芽が芽吹き、やがて淡いピンク色の花を咲かせていく暖かな季節の出来事。窓際のテレビからは、桜前線のニュースが流れている。
(でもこの中を確認させてくれとヒューに頼み込んだのは、他でもない私だし……)
さてどうしたものかと、ヴァージニアは三通の遺書をベッドの上に並べる。
一番古い遺言は、年代物の羊皮紙に書かれていた。
これだけでもかなり骨董品としての価値はあるだろう。
クリスティーンの文字は流麗で美しく、生前の優雅さを彷彿とさせた。
対して二通目の遺言は手紙というより殴り書きだ。
字も癖がひどく、この遺言だけ解読するのに時間がかかった。
けれども革命に身を投じた少女の覚悟は気高く、純粋で。
ヴァージニアの心に強く訴えかけてくるものがあった。
三通目の手紙は、便せんだけでなく封筒までちゃんと残っている。
消印は1944年の東ヨーロッパ。終戦の一年前の日付が刻印されている。
きっちりと角ばった文字と、規則正しい行間で書かれた手紙は、筆者が真面目な性格だったことを表している。
ナチスに追われて隠れ住む生活は、彼女にとってどれだけ恐怖だっただろう。
「でも、これで長年の謎が解けたわ……」
三通の遺言書を再び手に取り、ヴァージニアはぎゅっと胸元で抱きしめる。
すると部屋の外からノックがして、一人の青年が足音も立てず入ってきた。
「やぁ、ジニー。君の好物のカボチャのポトフを作ったんだ。食べられそうかい?」
そう穏やかに微笑むのは、彼女の夫・ヒュー=スコット=ファーレンハイト伯爵。
伯爵――と言っても彼が生まれた時代ならともかく、ほぼ身分制度がなくなった現代で、その肩書はあまり役には立たないだろう。
それに特筆すべきは彼の肩書ではない。
誰もが見惚れるルックスだ。
「ええ、ヒュー、今日はとても調子がいいの。一口もらおうかしら」
ベッドの上のヴァージニアは、夫に向かって微笑んだ。
小ざっぱりと整えられたヒューの髪は、淡い金色をしている。
その髪と一対のようにきらめく瞳は、色素の薄い水色。
全身を包むのは生まれながらの気品で、男でありながら優雅という形容詞がとてもよく似合う。
過去、彼に恋い焦がれた女性は、それこそ星の数ほどいるだろう。
(それに比べて私は……)
ヴァージニアは夫の容姿に見惚れながら、再び自分の手元に視線を落とす。
皺だらけの手。
やせ細った指先。
鏡を見るまでもない。
彼と過ごした長い年月は彼女の豊かだった髪を真白に染め、瑞々しかった肌に深い皺を刻んだ。
傍から見れば、ヴァージニアとヒューはまるで祖母と孫だろう。
けれども確かに二人は、夫婦だ。
45年前から、ずっと夫婦なのだ。
「この手紙、読ませてくれてありがとう。あなたがどれだけ長い時間をかけて彼女達を愛してきたのか、わかった気がするわ……」
「ジニー……」
ヒューは、わずかに言葉に詰まった。
最愛の妻・ヴァージニアが末期癌だと診断されたのは半年前のこと。
あらゆる治療を試したが癌は全身に転移してしまい、来週彼女はホスピスに移ることになっている。
そして余命宣告を受けたと同時に、ヴァージニアから「あなたがずっと秘密にしている宝箱の中身を見せてほしい」と頼まれた。
散々迷ったが、死期が迫った妻のたっての願いを無下にできず、金庫の奥深くにしまっていた箱を取り出したのだ。
「それから私、この手紙を読んでようやく納得が行ったの。昔からなぜ不思議な夢を繰り返し見るのか」
「ジニー?」
ヴァージニアはまるでいたずらっ子のように、ヒューの短い髪に手を伸ばした。
つやつやとした感触は、まるで上質のベルベッドのようだ。
「昔はもっと髪が長かったわよね。奇抜なかつらを嫌がって、後ろで一つにまとめて流してた」
「ジニー……!」
遠い昔を懐かしむようなヴァージニアの口調に、ヒューは目を瞠る。
三通の遺言書によって魂に刻まれていた記憶が鮮やかに蘇り、次々と泉のように溢れ出したのだ。
「小さい頃、あなたと大きな宮殿でダンスを踊る夢を見たわ。まるでシンデレラみたい。夢の中でしか会えない王子様が実際目の前に現れた時は、本当にびっくりしたんだから」
「………」
「ある時は革命軍の旗を持って、どこかのお城へと突撃する夢を見たわ。あれはアデルだったのね」
「………」
「狭いコンクリート部屋に閉じ込められ、泣き叫んでいたのは……レイチェル。彼女の最期は悲惨としか言いようのないものだった。だけど絶望の中でも、あなたと過ごした幸せな日々の記憶だけが、唯一の救いだったのよ」
「ジニー」
「どうして今の今まで、忘れていたのかしら」
ヴァージニアはくしゃりと顔を歪ませたヒューに、愛おしさの名残を感じた。
ああ、あなた。
愛しい、あなた。
もう何百年も若い姿のまま過ごし、長い孤独に耐えねばならなかったあなた。
そんなあなたに、今私がかけられる言葉は――ひとつだけ。
「毎回、どの時代でも私を見つけ出してくれてありがとう、ヒュー。それこそ途方もない努力と過程が必要だったでしょうに」
「そんなこと、ちっとも苦じゃないさ。だって君の魂の色は――特別だから」
ヒューはベッド脇で片膝をつき、愛しい妻の手を力の限り握りしめた。
一体いつだったろう?
自分が周りの人間と明らかに違うと気づいたのは。
体の成長が止まり、爪も、髪も、ほとんど伸びなくなって、周りから化け物だと気味悪がられるようになった。
年老いた両親を見送り。
次いで兄弟を、友人を見送り。
そしてとうとう最愛の妻を見送り。
それでもヒューは老いることなく、いつまでも若々しい『ファーレンハイト伯爵』のままだった。
けれど。
終われない。
終わらせたくない。
大切な絆がある。
譲れない想いがある。
決して忘れてはいけない記憶だけが彼の精神を支え続け――
ひたすらに、愚直に――信じ続けた。
もう一度彼女に会えるはずだ……と。
そして、探した。
何度でも、見つけた。
例え“器”が変わっても、いつだって彼女は彼女だった。
だからこそ、どんな個性の持ち主だとしても、愛さずにはいられなかった。
そしてこれからも魂のループは続いていくだろう。
おそらくヴァージニアが死んだ後も。
まるで『ヒューを独りにはしておけない」……という彼女の優しさを、そのまま具現化するように。
「次に会える時は、宇宙旅行ができる時代になっているかもしれないわね」
「そうしたら必ず君を連れていくよ。約束する」
二人は泣き笑いの顔になって、指切りげんまんをした。
次の瞬間、ヒューの口から自然と零れ出たのは、叶えたくても叶えられなかった切なる願い。
「それからジニー、君も一つだけ約束してほしい……」
「なぁに?」
「今回こそどうか、君を看取らせてほしい。やっと平和な時代で巡り逢えたのだから」
「!」
ヒューの言葉は、ヴァージニアの心の奥深くに突き刺さった。
過去、ヒューは妻三人の死に目に立ち会うことができなかった。
それは時代背景が大きく影響しているせいだが、その無念たるや相当なものだったろう。
けれどヴァージニアは45年もの長い間、彼と共に在ることができた。
早世した彼女達に比べたら、ヒューの孤独を少しでも長く、埋められたかもしれない。
「ええ、必ず。今からあなたにのこす四番目の遺言でも、じっくり考えることにするわ」
長い長い時を越え、ヴァージニアは微笑んだ。
彼をますます自分という運命の深みに陥れるだけだとわかっていながら、幸せいっぱいに微笑んだ。
そして彼が用意してくれたカボチャのポトフを口に放り込むと、いつも通りホクホクの熱々で。
また来世でもこの料理を食べられますように……と、純粋な祈りを込めるのだった。