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最後に本気を出したのは、いつだったっけ。
身も心も焦がすほど物事に執着したのは、いつだったか。
僕は空を眺めながら、そんなことを想う。
オフィスの喫煙所にて。そこに空を切り取ったかのようにある窓。
その窓から見える空は、何だかとても遠くに見える。
太陽は燦燦と下界を照らしている。まるで何者も寄せ付けないと言わんばかりに。
手を伸ばしても届きそうにない。それ程にあの空は遠い。
「はあ」
と僕はため息を一つ。
今日、僕は上司である須和に叱られた。彼は元々同僚であった。僕は無能で、彼は有能だ。だから上司と部下という差ができてしまった。
さらに言えば、須和は中学生の頃からの付き合いであった。中学生の頃までは、彼とも仲は良かった。それが高校生の頃から険悪になってしまった。恐らく、僕と須和とで共通の気になる女子がいて、僕が早々に手を引いたのが気に食わなかったのだ。
須和は日本人とは思えないほど積極的な人物だった。自分以外の人に対しても、消極的な部分を見るとイライラするらしい。僕は容姿も含めて、あまりに自分に自信がなかった。元から相性が悪かったのだ。
ちらり。喫煙所に張られたポスターを見る。弊社が今季から配信するアニメのポスターだ。僕も須和も、アニメが大好きなオタクだ。そもそも僕たちが中学生の頃に仲が良かったのも、アニメという共通の趣味があったからだ。だから僕たちは、こうしてまた、アニメ会社という同じ舞台に立ってしまった。
そのポスターの横には、また別のポスターが張られてある。まだ企画段階のアニメで、声優募集という旨のポスターだ。
「僕は、本当は」
そのポスターを見ながら、僕は思わず独り言を呟く。自信の無さがもたらした、後悔と、躊躇。
昔は、成りたいものがあった。でもいつの間にか、夢や希望は消え失せていた。ただ漠然と生きるだけの、味気ない人生を歩んでいる。
此処はどこだろう。そして僕は、何なのだろう。
丁度その時。ガチャリと、喫煙所のドアが開いた。
「本当は、何だって?」
男が入ってきて、そう言った。それはとても聞き慣れた、それこそ中学生の頃から聞き慣れた声だった。
須和だ。彼はズカズカと喫煙所の一角を陣取り、タバコに火をつけ、口に咥えた。
今日、須和に叱られたことが脳裏を過る。『てめえの脳内はいつも散らかっているな!』が彼の説教文句だ。意味が掴みにくいが、あれこれ考えすぎ、という意味が込められているのだと思う。
沈黙の時間が続く。僕と須和とは険悪の仲だ。居心地の悪い雰囲気となっている。かといって僕が彼に話しかけることはない。だって僕自身が、話しかけたくなかった。彼が僕を嫌いなように、僕も彼をすっかり嫌ってしまっているのだ。
「なあ相模」
須和が珍しく声を掛けてきた。僕は顔だけを彼に向ける。一体どういうつもりだ。僕と彼とで、プライベートではお互いに話しかけないというのが、暗黙の了解だったはずだ。
「俺、この会社やめるから」
須和が言った。その言葉に、僕はとても驚いた。
「なんで?」
僕は率直に尋ねた。彼はこの会社でも頑張っていた。それなりに地位を勝ち取っている。何より、彼にとって大切なアニメに関わる仕事だ。まあ、アニメに関連する会社なんていくらでもある。弊社よりも条件の良い会社が見つかったのかもしれない。
「ほら、これだよ」
須和は先ほどのポスターを指さす。声優募集の方のポスターだ。僕は全てを察した。
*
その後、ろくに話をしないまま、須和は喫煙所から出て行った。
僕は窓から空を眺める。
彼は本気だ。それが、とても羨ましく感じる。僕は良くも悪くも大人になってしまった。他人より僕が劣っていても、人生はそういうものだと、簡単に納得できてしまう。
思い通りにならないこと。なりたいと思ってもなれないこと。一方で、思い通りに出来てしまう者。なりたいと思ったものに、簡単になってしまう者がいる。それはありふれた、当たり前のことなのだと僕は知っている。
でも。須和が声優を目指すと聞いて、どうも僕は心がざわついている。
帰宅して、食事や風呂などを済ませ、ベッドで横になった。そして目を閉じて思い浮かべるのは、やはり須和のことだった。
僕はこのままで良いのか。本当に、このままで良いのか。
そういえば昔、須和にアドバイスを聞いた覚えがある。中学の頃から積極的な人物だった彼が、どうして臆せず行動できるのかを、僕は聞いたのだ。
『簡単だよ。……してから……るんだ』
彼の答えは、思い出せない。ぼんやりとした思考の中、僕は夢に落ちた。