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海に潜って顔を出すと、風がずいぶん冷たく感じた。船にあがると、日向にいても鳥肌が立った。
「さむっ」
両腕をだいてさする。おなじく海からあがったウェイの唇も紫色になっていた。
「そろそろ終わりかな」
ウェイがぽつんとつぶやいた。いいかげん、ウェイにおれがもうじき町の学校へ行くことを言わなきゃいけない。でも言おうすると、喉になにかが詰まったようになってしまう。
「ウェイ、今夜はおれの家にくるだろう」
ようやく口にしたのは、別のことだった。ウェイは毛布に体をつつんで、うなずいた。前髪がゆれて雫が落ちる。
「ここんとこ、しょっちゅうだけどな」
おれの言葉に、ウェイは歯を見せて笑った。
ウェイが加わったことで、真珠は例年よりもたくさん採れた。うちの父親は、真珠を東の職人へ渡して首飾りや耳飾りへと作り替えさせた。納められた装飾品は、魚の干物や塩なんかと一緒に内陸で売られた。
手先の細やかな東の職人の飾りは、飛ぶように売れた。あがりの何割かを手にできる東の職人も大喜び。
東の連中には気をつけろといっていたくせに、親父は東の者たちと深く繋がるようになっていった。
「ウェイのお父さんも、くるんだろ」
「よばれているからね」
そう答えるウェイはどこか誇らしげだった。おれは、ウェイの父さんを目で追った。無口で、黙々と手を動かすウェイの父さんは、歌を歌う。歌、というのかなんだか不思議な節回しの。
「あめになる」
薄青く晴れ渡る空を見上げて、ウェイがいった。つられておれも空をみる。雨雲など、切れ端もないのに。ウェイは天気を読むのがうまい。おれはアリに天気のことを知らせた。言っているそばから、遠雷が聞こえた。雨になると水が濁って、潜っても水の中が見えづらくなるので仕事にならない。
アリは港に戻るよう、水夫に指示した。
夜、暗くなる前に宴が始まった。
大人たちは仕事の話が終わるか終わらないうちから食べたり飲んだりする。あとは歌や踊りも交えて長い時間を過ごす。
「旦那様は、東の連中には油断するなとかおっしゃっていませんでしたか?」
ターリブがぼそっとつぶやく。そう言うターリブも、黒髪をなびかせる東の舞姫たちに目を奪われて鼻の下を長くしているから、呆れる。
躍りの合間に、静かな時間が訪れる。そんな時、ウェイの父さんの歌が始まる。
何かの伴奏があるわけでもない。歌というより、物語のように感じる。そんな曲を、ウェイの父さんは幾つも歌った。
始めこそ、切れ切れながらも東の言葉を理解しながら聞こうと耳を澄ます。けれどそのうちどうでもよくなる。
まるで海の底に沈んで、膝を抱いて水に揺られている心地がする。目の前を名前の知らない優美な魚が長い背びれをそよがせて行き過ぎる。潮の薫りまで感じる。どこか物悲しくなってきて、泣きたくなる。母さんのそばにいって、頭を撫でてほしくなるんだ。
ウェイの父さんは、船の上では、必要なことを二言三言――それもごく小さな声で――ささやくようにしかしゃべらない。だから初めて聞いたときには、あまりに意外な一面に義兄のアリもおれも驚いた。
「ウェイも、歌える?」
おれが尋ねると、ウェイは首を横に振る。父さんは特別なんだ、と答えるだけだ。
大人たちの騒ぎをよそに、おれたちは中庭へ出た。星をながめながら夜風に吹かれた。持ち出した向日葵の種や蜂蜜を練り込んだ菓子を食べた。
「ゾラン、お母さんは」
「今日はあまり具合がよくないみたいだ」
ほんとは今日だけでなく、ここしばらく体調が思わしくない。ウェイが初めて家に来た時みたいに元気で寝床から起き出せるなら、また会って貰えるんだけど。
初めて母さんに引き合わせた時、ウェイは恥ずかし気にうつむいていた。海で助けてくれた礼を母さんから言われると、頬を微かに赤く染めた。
もしかしたらウェイは、おれの母さんに会いたくて家に来るのかも知れない。ウェイはもう何も聞かずに、黙っていた。
ふだんなら暑くて着ないけど、今は白いシャツを身につけている。あたらしい白いズボンはくるぶしまである。夜はかなり涼しくなった。ときおり風のなかに冷たいものが混じる時があって、夏の終わりを告げていた。
ウェイも、おれの家に招かれたときには、東特有の飾りのついた膝丈の上衣を着て来る。ふだんよりこざっぱりした服装だ。長めの前髪を左側に垂らし、黒々とした髪は櫛で梳かれて形のよい髷を頭の後ろに作っている。
「はじめてゾランとあったところ」
「うん?」
沖に流されてウェイに助けられたところのことだろうか。
「あそこに、もっとある」
ウェイの目が静かに輝いたように見えた。
「真珠貝のこと? でも、あそこの海はあぶないだろう」
うん、とウェイはうなずいた。
「だから、そっとしておけばいい」
それに、とウェイは静かに続けた。
「おれの母さん、うみにいる」
「ん?」
「うみにいる。おれ、うみにもぐると、母さんいるのがわかる」
いる、と言い切るウェイの口調に瞬間おれの腕が粟立つ。
「だから、うみのそばにいたい。おれも、爸爸も」
にっと笑うウェイに、おれはなんとか笑い返した。ウェイは何かの精霊のように浮世離れして見えた。
おれは、ざらつく二の腕にそっとふれた。たぶんウェイは言葉を知らないだけなんだ。いる、なんて妙な表現になったのは。
おれだってウェイからしたら、きっと的外れな言葉を使っているだろう。でも、ウェイがまるで何かに導かれるように深く深く海へ潜っていく様を思い出す。
ウェイはさっき話したことなどもう忘れたとでもいうように、向日葵の種に夢中だ。整った右側は人の顔で、長い前髪で隠された左側は精霊の顔なのかもしれない。そんな馬鹿なことを考えてしまった。
「もうすぐ、しんじゅはおわり。こんどは魚、とる」
「そうだな」
ウェイはこれから先のことを楽しそうに話した。それから、種を食べる手を止めておれを見た。
「まえに、ゾラン言った。想一直有这里(ずっとここに居て)。うれしかった。おれも父さんも、ずっとここにいたい」
おれの胸がきゅっとなる。嬉しさと、ウェイにまだ打ち明けられずにいる秘密を抱えることに苦しくなる。早く言わないと、何も告げずに家を出てしまうことになりかねない。
「ウ、ウェイ。あの……」
言いかけたとき、いきなり背中を叩かれておれは前につんのめった。
「ゾランさん、明日からは船に乗らないでくださいね。もうすぐ町の学校へ行くのに、勉強に割く時間が短すぎます」
声に振り返ると、ターリブがいた。
「がっこう?」
ぽかんと口を開けるウェイに、ターリブは挨拶をした。
「これは、これは初めまして。ゾランさんから色々と伺っていますよ、ウェイさん。あなたのおかげで、ゾランさんは東の言葉が上達したんですよ」
青くなるおれの前でターリブのおしゃべりは止まらない。ウェイから笑顔が消えた。
「ターリブ……」
「ねえ、ゾランさん。旦那様もそうですけど、東の者とは付き合いかたによっては、役に立つんですねえ」
「ターリブ!」
おれの怒声に、ターリブは目を丸くして口を閉ざした。
ウェイは唇を固く結んで立ち上がると、おれを無視して父親のところへと歩いて行ってしまった。おれはウェイの後を追った。
「ウェイ、ごめん。話すのが遅れて」
ウェイは無言のまま食事をしていた父親を促して、玄関へとむかった。
「時々は戻れるから。そしたらまた一緒に」
玄関から外へと出たウェイは父親と腕を組んで振り返った。
「おまえ、やっぱりうそつき」
追いかけようとしたおれの足がすくんだ。海で会ったときの言葉をそのまま言われてしまった。
「ほら、いえのひとがよんでる。もどれよ、ゾランさん。おやくにたてて、うれしいです」
顎で家の中をぐいと示すと、あとは振り返らずに暗闇の中へと消えていった。