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長めです。

 それから数日して、父親は米と小麦の詰まった袋をたくさん積んだ車を馬に引かせて帰って来た。背が高く、腹回りも太い。巨体を揺らして歩く父親は有無を言わせぬ眼光するどい男だった。

 帰宅して早々の夕食の場で、おれは父親から東の言葉で聞かれたことに答えたり、ターリブに叩き込まれた詩をいくつか諳んじてなんとかお目こぼしいただいた。姉婿たちのまえでやらされるから、ひやひやだ。もっとも、部屋の隅で見守るターリブのほうがよほど生きた心地がしなかったろうが。

「きちんと学んでいたようだな。東の言葉も少しは上達している。言葉をよく学べ。海千山千の東の連中と渡り合うには、言葉が分からなければ話にならんからな。ターリブ、あと少しとなったが、引き続き頼む。次の勤め先もいくつか探して来た。あとでわたしのところへ来てくれ」

 ターリブは額を床につけて父親へ一礼した。

 平伏するターリブを見て父はうなずくと、右手を上げて皆に食事を始めるよう促した。おれは大きく息をついて、腰を下ろして強く握っていた拳を開いた。焼いた羊の肉や、揚げた魚の皿が回って来る。じぶんの前には、果物やナッツ、野菜の盛り付け、豆のスープといくつもの料理が並んでいる。父さんが帰ってきたから、いつもより料理の品数が多い。

 姉たちは姉たちで、女だけで食事をしている。ときおりにぎやかな笑い声が聞こえる。その宴の席に、母さんの姿はない。体調が優れず、床から出られない……でも、それはいつものことだった。おれを生んでからだと聞いた。難産が原因で、体を壊したのだと。

 真珠が取れたら、母さんに贈りたい。首飾りか指輪にしてもらえたらいい。

「そういえば、最近よい働き手が入りました。東の親子です。ふたりで働いていますが、子どもは泳ぎが達者です」

 一番上の姉婿のアリが父に報告した。

おれの手が止まる。道でぶつかった、あの女の子のことだろうか。でも女の子が船で働かせてもらえるだろうか。父親の足が不自由みたいだったから、頼み込んで特別に船に乗ることをゆるされたんだろうか。

義兄のアリは漁の船を指揮し時には漁師たちと一緒に帆を操り、網を引き揚げる。腕の太さはおれの腰回りほどあり、たくましい体をしている。

「素潜りの腕も確かです。重しをもたずに深くまで潜るので驚きましたよ。漁より真珠採りに向いているでしょう」

 真珠採り、とい聞いて思わず背筋が伸びる。いや、でもおれよりも潜れると決まったわけじゃない。なんせ、あの子は女だ。

「真珠貝は、東の者に触らさせたくない。目端の利く連中に貝の場所を教えるのは特に」

 父親は難色をしめした。

「ですが、素晴らしい潜り手です。今まで手の届かなかった深さにある貝も獲れると思います。それに、新しい群生もきっと見つけられるはずです」

 アリはなおも続けたが、父親は首を縦にはふらなかった。

 アリに色々と尋ねたくなったが、聞いたら聞いたで、どこで知り合ったかとかターリブから逃げ回ったことだとか、やぶへびだ。その場は、ぐっとこらえるしかなかった。それに、話題はすぐに別へと移ってしまった。どだい大人の会話に子どもの自分が加わることなど、出来るはずがなかった。

 大人たちが話に興じ、いつまでも終らない宴から抜け出して、おれは海へ行った。夕暮れの浜には、とうに漁を終えた船が並んでいた。外で涼んでいる者たちの姿を横目に、おれは小さい岬を越えて崖の磯場までまっすぐに歩いていった。

 切り立った崖の下には、磯が広がっている。引き潮の時には、大きな岩棚が潮だまりをいくつも作って広がっているが、潮が満ちてきている今は波の下になっていた。岩棚が切れたその下の段に、大きな真珠貝を見つけてしばらく経つ。一人で潜ったときに見つけたのだ。見つけたときから誰にも告げずにいた。いつもつるんで遊ぶ連中にも、家の者たちにも。

 岩棚の海は、誰の持ち物でもなかった。それでも、ふだんから遊ぶところではない。波が荒く、岩で手足を切りそうなので大人たちからは、行かないようにと子どもらは釘を刺されていたのだ。

 父が帰ってくるまでの数日、家から一歩も外へ出してもらえなかった。貝はまだあるだろうか。波が足を洗うくらいまでいって海をのぞいた。傾きかけた弱い陽ざしでは、海の中はよく見えなかった。

 なおも海面を見つめていると、右の岩場で人影が動いた。

 人の気配に振り向いたとたん、大きな波に足元をすくわれておれは尻もちをついた。人影は、子どもだった。

 あの子だ。身につけているものは、膝までのズボンと首にかけた縄で編んだ袋だけだった。思わず目が釘付けになる。平らな胸は、ほどかれた髪でかくれていた。おれの視線に気づいたのか、女の子はおれをひと睨みした。

「こっ、ここで漁をするなよ」

 苦し紛れの言いがかりを放つと、その子は半分開いている目をさらにゆがめた。

「おまえ、うそつき」

 奇妙な抑揚だったが、はっきりとおれたちの言葉を話した。波の音にも負けないほど、まっすぐな声だった。

「ここ、いい、おやかたいった」

 それは本当のことだった。うそを見破られ、とたんに胸が苦しくなった。女の子は言うだけ言うと、岩棚に置いてあった別の網を手にしてもう一度おれに冷たい視線を送った。網の中に食用の貝がいくつか入っているのが見えた。

「……っ」

 嘘つきとなじられたことと、もしかして目星をつけた真珠貝を先に取られかもしれないという焦りとがおれを海に向かわせた。

 崖の下から石を拾ってくると、おれは例の真珠貝のある深みへと飛び込んだ。一抱えもある石の重みは、おれを海中へと押し込んでいく。

 一気に沈むと、目当ての岩棚のところに子供の頭ほどの大きさの真珠貝が残っていた。石を離し、ゆらめく海藻をかきわけて貝へと手を伸ばす。ぎりぎりで指がかかる。それをとっかかりにして全部の指をかけると、渾身の力で岩棚をなんどか蹴った。貝は岩にへばりついていてなかなか剥がれない。だんだん息が苦しくなって来た。貝の頑固さに焦る。が、ついに貝は岩から剥がれて、おれの腕の中におさまった。やった、と思うより息が苦しくて、海面を目指して足を動かした。

 波間に顔をだしてわずかに息を吸ったのもつかの間、おれは強い力に押された。

 岩棚の入り組んだ形は、潮の流れを複雑にする。大人でも抗えないほどの強さで人を沖へと押しやる。

 まずい!

 おれは全身の力を使って泳いだ。貝で右手がふさがっているから泳ぎづらい。でも、貝を捨てることは出来ない。全力で泳いでも泳いでも岸へは近づけない。むしろ遠ざかる。腕も足もだるくなっていく。なんどか水を飲み、塩辛さに喉が焼けた。鼻から入った水でむせると、体が沈みそうになる。とたんに、足がつかない怖さに頭の中を支配される。

 誰か! もう声さえあげられない。刻一刻と近づく日没と忍び寄る夜のとばり。岸からおれの姿など見えない……はっきりと分かったとき、おれの体はふるえた。

 死がすぐ隣ある。もう岸には戻れない。

 そう感じたとたん、視野が一気に狭くなったように感じた。泳ぐ力を失った体が仄暗い水の中へ体が少しずつ沈み始めた。それでも貝だけは離すまいと、右手で胸に抱いた。と、左手を誰かが握っておれの体を引っ張り上げた。

「××っ」

 引き上げられると、そこにはあの女の子がいた。驚くより早く、女の子はおれから貝を奪い取った。

「なっ、かえせっ」

 もがくおれの腹をけり、女の子は貝を首から下げた網の袋の中にしまうと、おれの髪をつかんだ。

 なおも泳ごうとするおれを睨むと、するどい一声をあげた。

「うごく、な」

 女の子は髪ごとおれを引き寄せて、流れに逆らわず体を伸ばした。同じようにしろと言っているようで、おれもおとなしくならった。

女の子はおれの髪から手を離し、そのまま手をつないで黙って海に浮かんだ。沖へと流されていく怖さがあるが、二人だということに少しずつ心が落ち着きを取り戻す。ゆっくりと暮れていく空に一番星が輝く。どれほどの時が経ったのか。もう流される感覚がなくなった。

 女の子は、おれの手を引っ張り、体を縦に戻した。

「もどる」

 浮かんでいる間に、手足にはもう一度ゆっくりと泳げるくらいの力が戻ってきていた。はるか先に見える小さな明かり、たぶん煮炊きをしている家々の炎が光っている。

 手を離して泳ぎだした女の子のあとについていく。貝は女の子の袋の中にある。おれは両手両足を使って難なく泳げた。時間をかけて、おれたちは船がならぶ浜へと泳ぎ着いた。海の底に足がつくと全身から力が抜けていく。浜へと上がる一歩一歩がひどく重く感じられる。

 それは彼女も同じだったらしい。波打ち際にくるころには、両手をついて四つん這いになってしまった。ふたり並んでしばらく浜に寝そべってた。足の先を波が洗う。藍色の夜空に乳白色の星の川が現れる。

「ありがとう」

 おれは体を起こして彼女へ礼を言った。言われたほうは分かったのか分からなかったのか、なにも言わずに網の袋から真珠貝を取り出すと、おれに押しつけた。

 長い髪をかきあげ、背中へと流すと彼女の胸が想像よりもはるかに平らで、むしろ筋肉がついているのが見えた。思わず見返すと、眉間にしわを寄せて言った。

「おれ、おとこ」

「え?」

「おんな、ちがう」

 二度目の、え、は口を開け閉めしただけになった。

 遠くで炎がゆらぎ、おれの名前を呼んでいるのが聞こえた。いつまでも帰らないから、家の者たちが探しにきたんだろう。

 女の子……ではない、彼があごを声がするほうにくいっと動かすと、背を向けて歩き出した。

「ちょっ、名前教えて。おれは、ゾラン」

「ウェイ」

 ぶっきらぼうに言うと、あとは振り返らずに行ってしまった。

「ウェイ、ありがとう!」

 迎えに来た者たちとすれ違うウェイの背中に、おれは何度も声をかけた。


 帰宅して、父親から雷を落とされたのは言うまでもない。

「つまらん貝ごときで、おまえは命を失くす気か」

 母は心配のあまり熱を出してしまい、家の者たちが右往左往していた。父からの説教の後で母を見舞うと、薬湯を飲んで横になったところだった。

「心配させて、ごめん」

 母は血色の悪い手でおれの頬を撫でた。歳よりも老けていると下働きの女たちは陰口をたたくけど、おれはそんなことは気にしていなかった。三番目の姉とおれとでは十の開きがある。母さんは、おれを産むために無理をしたんだ。少しでも長生きして欲しい。それだけがおれの願いだ。

「無茶しないで」

 めったに外へ出ない母の肌は白く、手足は細い。

「真珠、母さんにあげたかったんだ。でも貝の大きさのわりに、真珠は小さかったんだ。小さすぎて飾りにならないよ」

 ぼやくおれに、母はため息をついた。

「わたしには、おまえ以上の宝なんてないんだよ」

 言われて、おれは生きて帰ったことが奇跡だったとようやくわかった。夜の海で、沖に流されて力つきてもなんら不思議じゃなかったんだ。ウェイが助けに来てくれなかったら。

 寝台にもたれて、母親にしばらく頭を撫でられていた。

「女の子だと思ったら、男だったんだ。おれを助けてくれた子」

 そう、と母は小さく相づちをうった。あの子も父親のとなりで、こうしているのかも知れない。やっぱり怒られたかな。

「すごい、泳ぎがうまかった」

 つないだ手のぬくもりを思い出す。ふたりで海に浮かんで星空を見た。藍色の空、ウェイの右の横顔はやはり整っていた。

「その子には、お父様からお礼をしてもらわなくちゃね」

「うん」

 友だちになりたい。一緒に泳いだり、あそんだりしたい。それから、ウェイのことをもっと知りたい。泳ぎ疲れたからだがフワフワする。重くなるまぶたに逆らえず、おれは母のそばで眠りに落ちた。



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