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 かすかに響く弦の音のほうへ行くと、ルーが月琴を抱えて土壁にもたれていた。三日前から世話になっている宿屋の中庭には大きな葡萄棚があるが、そちらの下には宿屋の老夫婦がいて静かにお茶を飲んでいた。ルーは遠慮したのか庭の隅にいた。

「ルー、サーデグは? 一緒じゃないのか」

 ルーは眉をしかめて首を横にふった。肩に届くほど伸びたつややかな髪が揺れる。

「おかえりなさい。ゾランこそ知らないの?」

 昨夜の仕事上がりに、おれ一人帰らなかったことを暗に非難されているような気がした。ルーの鼻が、小さく動く。おれは、一夜を共にした女の残り香を嗅ぎ当てられそうで内心焦った。

「お……おまえたち、最近何かあったのか? まえはずっとベッタリだったくせに」

 とりあえず、話題を変えよう。おれは腰に拳をあててとりつくろった。するとルーは唇を尖らせて顔を背けた。

 おれたちと連れだって一年が過ぎた。背丈と髪は伸びたが、服装はいまも男児用のままで、おれと同じような恰好だ。ひざ下までのズボンと、簡素なシャツに刺しゅう入りのベスト。ルーは痩せた体もあって、小柄な男の子に見える。

「どうした、むくれて」

 おれはルーの隣に腰をおろして、ルーの頭に手を乗せた。陽ざしをあびて、ルーの髪は乾草の匂いがした。

「ゾラン……」

「なんだ?」

「あたし、サーデグの前で歌わないほうがいいのかな」

 月琴で顔を隠すようにして、ルーが苦しげに呟いた。声はすでに涙声だ。

「そんなわけないだろう、どうした。ルーだって歌うのが大好きじゃないか」

「だってサーデグ、時々ため息をつくから。きっと、あたしがへただから、イヤになるんだ」

 言い終わるなり、ルーは大粒の涙を流して声をあげて泣いた。月琴を抱きかかえたままで泣きだしたルーに驚いたのか、老夫婦がおれたちを見た。まるでおれが泣かしたようじゃないか。思わず顔の前で手を振り彼らの言葉で「ちがう」と短く弁解する羽目になった。

 泣き続けるルーの肩を抱いてしばらく一緒に座っていた。ルーはひとしきり泣くと落ち着いてきたのか、泣き声は小さなしゃくりあげへと変わっていった。

 その機会を見計らっていたのだろう。老夫婦がルーを手招きした。泣きはらして赤い目をしたルーの手を引いておれたちはお茶に呼ばれた。卓の上にはお茶やあげ菓子、葡萄やイチジクが並べてあった。

 老女はお茶をルーにすすめてくれた。そしてルーが一口飲むと、満足したようでまた老夫とのおしゃべりに戻った。

 おれも出された茶を口に含む。葡萄棚のつくる日陰は過ごしやすく、ルーも涙と一緒に額の汗をぬぐった。

「ルー、サーデグはお前の歌を下手だなんて言わないだろう。いつでも一緒に歌っているじゃないか」

 おかげで、宿屋の食堂で二人が歌うととても上がりがいい。

「うん、でも……あたしがもっとじょうずなら……サーデグの足をひっぱらずにすむのにって思う」

 ルーは月琴の弦を弾いた。硬質な音が中庭に響いた。四方の壁に反響する。

「サーデグは怒らない。いつだってほめてくれる。いつも、おじょうずです、さすがは……って言う。『さすがは』の次にサーデグが言いたい言葉も知ってる」

 ルーは唇をかんでうつむいた。おれも分かるよ、続きの言葉が。

 さすが、姫の血を引くお方です。

 たぶんじゃなく、そう言いそうになるんだろう。

 ――どうしてもわたしは比べてしまうのです。ルーと姫さまの歌声を。ルーはとてもよい資質を持っています。姫さまとルー、どちらが秀でているとか比べるのは意味のないことです。それは、蘭と薔薇のどちらが美しいかと考えるくらい無意味です。それでも、ルーにはあの方の血が流れているのだと思うと、心が乱れます。伸びやかな澄んだ声にも細やかな抑揚をすでに身につけていることにも、姫の面影を見てしまうのです。

 以前、サーデグはおれにそう打ち明けた。サーデグはサーデグで胸に抱えるものがある。

「ルーは、サーデグにもっと教えて欲しいと思っているのか。駄目なところも言って欲しいか?」

 ルーは頷いた。固い決意を秘めた眼差しで。

「もっとじょうずになりたい……サーデグが大切にしているお方にはかなわないかもしれないけど」

 ルーだって、とっくに気づいているのだ。姫と自分が比べられていることを。

「サーデグがルーのお師匠さまに、か。申し分ないだろうな」

 これ以上の相応しいことはないだろう。歌にうといおれにでも分かる。

「ゾランには、お師匠さまはいた?」

「そうだな、いたよ。戦い方や体の使い方を教えてくれた師匠が。体術の師匠は、おれの半分くらいの背背丈なのに、やたら強くて。おもしろいくらいぽんぽん投げられたなあ」

 へー……とルーはおれの顔を見あげた。

 茶碗を置いておれはルーの月琴の音に耳を傾けた。土壁にぶつかり跳ね返った音は、水の中で聞く音を思い出させた。

「でも、最初の師匠は……奴かな。真珠とりの。十三歳のおれに真珠とりを教えてくれた」

「しんじゅ? お母さまの首飾りにもあったよ。しんじゅはどこで取れるの」

「海の底だ。真珠は貝の中で作られるんだ。海は湖や池とは違う。波が打ち寄せてくるし、水が塩っ辛いんだ」

 海を見たことのないルーは、想像ができないのなだろう。しきりと首をひねる。

「おれが生まれた場所は海のすぐそばだったんだ」

 村というには大きく、町というには小さい。おれが生まれ育ったところは、海に面した集落だった。

 十三のおれが熱中していたことといえば……。


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