第97話 終末の頂
壁を登り初めてかなりの時が経った。迷宮の中では一切外の景色が見られないので時間の感覚は曖昧だが、かなりの高さを登ったに違いない。
「クレイルさん、わかりますか」
「おう、ビシビシ感じようになってきたな」
「二人とも、何かあるの?」
「せやったな、ナトリはこれがわからんのか」
「上がっていくにつれて、非常に濃密な風の属性を感じるようになってきました。こんな感覚、初めてです」
「上の方に、何かあるってことなのか」
「多分、風のフィル結晶じゃないでしょうか。プリヴェーラのように、大結晶がある土地は空間に満ちる属性が濃いですからね」
「それもおそらくは普通のモンとは桁違いのブツや。それこそシスティコオラ周辺空域の風の流れに何千年も影響を与え続けるレベルのな」
「そんなに……!」
「はい。永らく迷宮を取り巻く強風の原因はわかってませんでしたが、この気配からすると巨大な風の結晶によるものなんでしょう」
「ここはもう限界高度の上なんだな」
「随分高い場所まで上ってきたもんや」
この世界には限界高度が存在する。スカイフォールの刻印機械は限界高度より外に出ると制御を失うらしい。
つまり、限界高度より上空は人の立ち入ることのできない領域となる。
俺たちは今、世界中に暮らす人々の中でも最も高い高度にいるに違いない。
さらに上昇すること数刻して、マリアンヌが明確に強大な風の気配の発生源を知覚し始めた。翠樹の迷宮の頂上が近いのだ。
やがて頭上の暗闇に小さな光が見え始めた。あれが縦穴の出口か。
「まもなく頂上です」
「垂直に登れば早いもんやな。ここまで来たら俺らで迷宮の天辺に一体何があるんか、確かめたろやないか」
「ああ。もしかしたら、迷宮の異常な活性化の原因がわかるかもしれない。それにフウカだって……」
次第に近づいて来る縦穴の出口を見上げていたマリアンヌが、ばっと反対に下を見下ろす。
「下からノーフェイス! 三体来ます!」
「おーし、ここは俺に任せえ。雑魚なんぞ一発で蹴散らしたるわ」
クレイルが杖を構え、気合を入れて詠唱を開始した。
泡の縁から下を覗き込む。こっちを目指して飛んで来るのはなんと翼の生えたノーフェイスだった。
見たことのないタイプで、尖った嘴のような大口を開いて鋭い牙を見せる。
一体ごとの大きさはさほどない。小さな飛行型ノーフェイスといったところか。
しかし、俺が気を取られたのはむしろクレイルの方だった。杖の周囲に集まる空気の具合がいつもと違う。マリアンヌもそれに気づいたようだ。
「いやさきより堕ちたる始原の劫炎。遍く罪を喰らい滅ぼせ、『劫火焔』!」
「だめっ! その術はっ!!」
泡の精へと距離を詰めてきた三体のノーフェイスに向かって、クレイルの杖から火球が放たれた。しかしそれは、幾度か見た劫火焔のものとは異なっていた。
放たれた火球は、いままでのものと明らかに大きさが違う。まるで小さな太陽のように、周囲に強烈な熱気を撒き散らしながら膨れ上がっている。
明らかに過剰な威力の劫火焔は、三体のノーフェイスを瞬時に飲み込み、俺たちの至近距離で大爆発を巻き起こした。
そうか、迷宮頂上付近は風の属性濃度が濃いから……。
風と炎は相性がいい。油を撒いた草地に火を放つみたいに、炎はその威力が膨れ上がるのか。
俺は爆風によって宙を舞い吹き飛ばされながらそう思った。
激しい体の回転が弱まり、天地が逆さまになる。体が眩しい陽光に包み込まれる。目の前には目に痛いほどの紺碧の蒼穹が広がっていた。
青空、真っ白い雲、そして照らし出される広大な花畑。
吹き飛ばされて高く宙を舞いながら、それは約一週間ぶりに見る外界の景色だった。
鮮やかな風にそよぐ花畑と、どこまでも広がる青空はとても美しかった。
「おああああっ!」
爆風に吹き飛ばされて舞い上がるが、体はすぐに落下を始める。緑色の地面が目の前に迫る。
地面にたたきつけられる寸前、俺の体は地面との間になだれ込んで来た黄色い泡に包み込まれた。
マリアンヌが泡で吹き飛んだ俺を受け止めてくれたらしい。
泡から抜け出し、鮮やかな緑色の草の地面に足を下ろすと、マリアンヌとクレイルがこっちに向かって歩いて来る。
「まったく……、下手をすれば三人とも炎に飲まれて死んでましたよ」
「すまんすまん。思ったより風の属性が強すぎたんで、加減しそこねたわ」
「ありがとうマリア。爆発の瞬間も泡で俺たちを守ってくれただろ?」
「無事でよかった……」
三人とも怪我がないのを確かめると、俺たちは辺りを見渡した。草原と、花畑を強い風が吹き渡っていく。空はどこまでも青く、周囲を巨大な雲が取り巻き流れていく。
そして迷宮の頂点をぐるりと取り囲むように、山脈を擁する広大な浮遊大地が見える。
「ここが……、翠樹の迷宮ベインストルクの頂上」
「塔の天辺に花畑が広がっとるとはな」
「もっと恐ろしいところかと思ったけど、随分と綺麗だ」
クレッカ島の花畑を思い出す。
「とても静かです」
「長閑なとこやな。弁当広げて昼飯にでもすっか?」
「あれを見てください」
マリアンヌの言葉に後ろを振り向く。草原と色とりどり花畑の先に、古い遺跡のような建物が見えている。その遺跡にとり囲まれるように、翠色に輝く巨大なフィル結晶が陽の光を反射してその存在を主張していた。
「この距離であのでかさ、相当やな」
「プリヴェーラの水の大結晶なんて比べ物にならない巨大さです」
「あれがシスティコオラ周辺に強い風を生み出しているんだな」
「行ってみようや」
俺たちは結晶を取り囲む遺跡の残骸へと、花畑の中を歩き始めた。風にそよぐ花が揺れ、鳥の声が聞こえる。
「……っ??」
「くっ、は……っ」
「お……おい! こいつァ……!」
俺ですら感じた。空気の重さが一段階増したような、あまりにも強大なプレッシャー。
何か、とてつもない存在に心臓を鷲掴みにされているみたいだ。じわりと額に汗が浮く。マリアンヌは花の間に膝をつき、胸を押えて座り込んでいた。
さっきまで晴れやかだった空が暗雲に覆われ始めていた。明るかった花畑に影が差す。
「なんやコレ……、なんなんや?!」
「はぁっ、はあっ……、こ、これ……! だめですっ。逃げなきゃ……! あまりにも強大で、禍々しい気配……」
二人の様子が尋常じゃない。特にマリアンヌの感じている感覚は、俺には理解できないものだ。
「?!」
その時俺は我が目を疑った。迷宮の頂点をぐるっと取り巻くように浮いている大地が動いたように見えたのだ。
それは幻などではなく、現実の光景だった。地響きと轟音を立て、浮遊列島が脈動を始める。その全てがゆっくりと動き出した。
「おい……おいおいおいおいッ!」
「う……嘘っ!」
「なんだよ……。なんなんだよ、あれ……!」
遥か彼方、巨大結晶の向こうで浮遊列島の一部が大きく持ち上がる。ばりばりと大地の裂ける稲妻のような音を立て、大地が割れた。
それは大きく開かれた口だった。そして二つの紫色の眼光が灯る。周辺全ての大気を震撼させ、心の底まで揺るがし恐怖を刻み込むような咆哮が空の果てまで響き渡る。
俺たちは抗うこともかなわず、地に膝や腰を落とした。
「あ……、あ」
「モンスターやノーフェイスってレベルじゃねーぞ……!!」
規模が違いすぎる。この迷宮を取り囲む浮遊大地全てがその化け物の体躯。
島ごと飲み込んでしまえそうな巨大な顎門に、底知れない憎悪を湛えた怪しく輝く巨大な双眸。こんなのまるで。
「大いなる、やく、さい……」
マリアンヌが呟く。
「私たちは、もしかしたら、とんでもないことを……」
「馬鹿言え! 俺らはまだ何もしとらん。厄災だァ? あれが、神話に出て来よる、大昔にスカイフォールを壊滅させたとかいう怪物なわけが……!」
大いなる厄災。遥か昔、神の時代に突如現れ世界をことごとく焼き尽くしたと伝えられる伝承にのみ記された存在。エルヒムと七英雄によって討たれたと語られる、あの厄災だっていうのか?
「創作じゃ、なかったのかよ……」
この圧倒的存在を実際に目にしてしまえば、もはや信じざるを得ない。
その姿は神話に出てくる怪物、「暴風龍リヴァイアサン」そのものだった。
「なんで生きてるんだよ……。英雄達によって倒されたんだろ?!」
「『贄の楔』……。迷宮は、遥か昔に厄災を封印した地だったのでは。人を寄せ付けず、ガリラス=オキの一族によって、封印が解かれないように代々守られて……っ!」
大いなる厄災は現実に存在し、そして生きていた。これ以上悪いことなんてあるだろうか。
迷宮は、世界を滅ぼす力を持つ古の怪物を封じ込めるためのものだった。
「迷宮の異常な活性化が始まったのは、厄災復活が近づいていた影響だった……のか」
「どうしようもないぞ。こんなもん、どうしろっちゅうんや」
「こんなものがスカイフォールに解き放たれたら、全て終わりです。世界の、終わりですよ……」




