第90話 Marianne,sweet memories
水路に沈み込だマリアンヌはなかなか浮かび上がってはこなかった。
彼女はエレナと二体の水龍の連携攻撃によって傷を受け続け、もはや体を動かすことも不可能かと思われた。
水面に佇む色褪せたエレナ・コールヘイゲンは、冷徹さの浮かぶ瞳で静かに水底を見下ろす。
彼女は均衡型の波導術士であり、マリアンヌほどに鋭敏な感知力を持っているわけではない。しかしまだ彼女が生きていることくらいは感じとることができた。
水龍はマリアンヌを追い、水中へと潜っていった。勝負のカタがつくのはまもなくであろう。
「聖なる水の輝き、その内に我を守り給え。『水晶壁』」
水晶のようにきらめく多角球体がエレナの周囲に張り巡らされる。水障壁の上位術、より強固な水の結界が彼女の身を守る。
生半可な水の波導で水障壁を打ち破ることは不可能である。
エレナは妹への追撃を水龍に任せ、確実に彼女を殺すための保険として自らの守りを強化することを選ぶ。水晶壁に乗り水面から浮かび上がった。
「霧……」
エレナは周囲に霧が立ち込め始めているのに気がついた。彼女はそれがマリアンヌの使った術、白霧であることを見抜いた。どうやら妹はまだ諦めていないらしい、と彼女は思う。
白霧は視界を奪う厄介な術であるが、エレナは水晶壁の中に全方位を守るようにして閉じこもっている。風の波導で霧を吹き晴らすことはできなかった。
水晶壁により身を守る限り、マリアンヌの波導がエレナに届くことはない。霧で視界を奪うことで、彼女が視界確保のため障壁を解除するその隙を狙うつもりであると、エレナは考える。
彼女は妹の策略を見越した上で、その方針を変えようとはしない。マリアンヌほどではないが、エレナとてフィルの感知力は高い方である。濃い霧の中だとしても妹の気配を見失うことはない。
「そう……。まだ立ち向かうつもり。どこからでも来なさい」
水中、自らの左右両脇の離れた地点にエレナはマリアンヌの気配を察知する。彼女へ向かって急接近する二つのよく似た気配を感じ取った。
濃い霧の立ち込める水路の水面を突き破り、空中に同時に飛び出してきたのはどちらもマリアンヌの気配であった。
「そんな子供騙しは通用しない。ウンディーネ!」
マリアンヌを追い、水中から飛び出した水龍が強烈な水の放射によって霧中をこちらへ向かってくるマリアンヌの気配を薙ぎ払う。
水龍の攻撃を胴に受けた片方のマリアンヌは、水泡が弾けるように形を失い弾け飛んだ。
マリアンヌの気配の正体は、水を操り分身を作り出す術、水影による偶像であった。目視であればはっきりとわかる透き通った水の偶像をカモフラージュするため、白霧でエレナの視界を奪ったのだった。
水の分身を打ち砕かれても尚、残るマリアンヌは単身水晶壁に守られたエレナへ飛びかかっていく。エレナは二体の水龍を彼女の本体へと差し向ける。
♢
水中を水噴射で急上昇しながら水面の光を目指す。
お姉さまの気配ははっきりと感じる。それにこの強い波導の感覚、きっと彼女は水障壁か水晶壁で守りを固めている。
残された煉気を消費し、水面に向かって上昇する。なるべく早く、悟られず、できる限り自然に。
お姉さまもある程度の感知力を持つ術士だ。不自然な波導の流れを見せればすぐさま私の意図を看破されてしまうだろう。
水影で作り出した水の偶像が、白霧に紛れて水面に飛び出していく。その後を水龍が自動追尾する。
水龍は疑似波導生命だ。術者の目の届かない場所でも自立行動をとるが、逆に言えば目の届かない場所では単純な命令しか実行できないということ。
お姉さまの目が届かない限りは、私へのターゲットを逸らすだけなら一定量の煉気を付与した水影の偶像でも十分であるはず。
これが偽のお姉さまを打ち倒す最後のチャンス。失敗は許されない。直前まで全神経を集中させて波導の分量をコントロール。
そこからはとにかく速度を意識し、私は波導で生み出した鋼鉄製の長槍と共に水中から飛び出した。
「まさかっ!!」
宙に浮かんできらめく水晶壁の球体内部、彼女の目が驚愕に見開かれ、真下の水中から勢いよく飛び出してきた私を見る。
彼女はちょうど二手に分かれて飛びかからせた二体の水影を水龍の攻撃でそれぞれ撃破した瞬間だった。
私の煉気はもうほとんど残っていない。二つの分身に分け与えることで、私自身の気配を限りなく弱めるためだ。
お姉さまに対する気持ちの一切を振り切り、水上へ飛び出した勢いのままに杖で長槍をお姉さまにむけて放つ。
「突き貫け! 『鋼槍』ッ!!」
最大速度で放たれた鋼槍が水晶壁に突き刺さる。この場では私が水の波導しか使えないと踏んで、強固な水の障壁によって守りを固めたつもりだろうけど、地の波導なら水の術への相性は悪くない。
おまけに水晶壁は、障壁系の術の中でもあまり堅固とはいえない。同じ水に対してであればとても強い術だけど。
そして球体状の防御術は、見方によっては自らの動きを封じる枷にもなる。どこにも逃げ場はない。
水晶壁に食い込んだ鋼鉄の槍は、球体障壁を粉々に粉砕した。そしてその中に立っていたエレナお姉さまの腹部に突き刺さり、その細い体を刺し貫く。
「あああああッ……!!」
崩れ去る水晶壁の破片の中、水路へと落下するお姉さまの体を水面に波導を流し込んで没しないように受け止めた。その体を水上に横たえる。
「二つの気配、両方とも多量の煉気を注ぎ込んだ水影の偶像、だったのね……。必要最低限の煉気だけを残し、限りなく気配を断つために……」
「あの鋼槍は、水中に浮かんでいた岩礁から作りました。あなたはきっと、この場で私は水の波導しか使えないと考えるから」
彼女の体に開いた大きな穴から血が溢れる。お姉さまの姿をした彼女は苦しそうに呻く。背中に腕を回し、その軽くて細い体を支えて顔を覗き込む。
「波導の偽装は、完璧だった。素晴らしい戦略だわ。成長したね、マリア……」
「ありがとうございます……お姉さま」
彼女はあくまで、私の心の中にあるお姉さまの姿が投影された存在でしかない。本物のお姉さまは、既に私の及びもしない術を扱える。きっと、これが現実だったらとても敵いはしない。
「ようやくわかった……。あなたも私の一部なんだ。私の心の中にある、お姉さまに対する醜い嫉妬の心と……、様々な感情や思い。それが形をとって現れたのが、あなた」
「ふふ、ようやく、わかってくれたんだね……」
「私の知ってる術しか使ってこなかったし、実際に戦えばお姉さまはもっと強いよ」
いつの間にか、お姉さまの姿をとった彼女の顔に貼り付いていた氷の微笑は溶けていた。憑き物が落ちたように、どことなく安らかな顔で横たわっている。
「マリア。ここはあなたの心が映し出される場所。そして世界の真実に最も近い場所。あなたはもう一人の自分である私に打ち勝った。その強さと覚悟……、ちゃんと見届けたよ」
「……うん」
「あなたのやってきたことは無駄なんかじゃない。心と直感に従って進み続けるの。それはいつかきっと大きな力となって、あなたが未来へ歩むための糧になる。その覚悟を忘れないで。それとね、命を投げ出すようなことをしちゃだめだよ。お姉さまを、それにお父様だって悲しませることになる。あなたは自分で見つけるの。この世界に生きる意味を。……あの人にそう教えて貰ったでしょ」
「うん。……ありがとう」
お姉さまの姿をしたもう一人の私が微笑む。何処からか鐘の鳴る音が聞こえたかと思うと、色の褪せた世界に空から光が差し込んでくる。
風景が色づく。運河も、白いプリヴェーラの街並みも、空も雲も何もかもが明るく色鮮やかに照らし出されていく。私は呆気に取られてその変化を眺めていた。
「あなたに、スカイリアの祝福がありますように」
その優しい笑顔は光に包まれて見えなくなった。辺りを覆い尽くす真っ白な光の中、私は二人の人の姿を見た。
一人はお父様。すぐ側にいるのは、エレナお姉さまにそっくりな女の人。ということは、あれは亡きお母様の姿? 二人はお父様の抱えている何かに優しい視線を注いでいる。それは赤ん坊のようだった。
お母様が優しさに満ちた笑顔で慈しむように赤ん坊に語りかけている。お父様は、少し照れたように、でもとても嬉しそうに笑っている。
お父様があんな風に笑うのを、私は初めて見た。
私には分かる。あの赤ん坊は私だ。この音のない淡い記憶の断片は、元々私の中に眠っていたもの……。頬を熱い涙が伝った。
「幸せ、だったんだ……。こんなにも。私はずっと、家族の愛情に包まれて……。お父様、お母様、お姉さま。ありがとう……」
涙を拭う事もせず、その記憶を心に刻み込む。
これから先、決して忘れずに生きて行く。元の世界で。
やがて全ては眩い光に飲み込まれ、ついに何も見えなくなった。