第88話 誰かの言葉
私を追って水面を華麗に移動するエレナお姉さまが言い放つ。
「何故お父様があなたに対して冷たいのか。わかっているでしょう」
「……あなたさえ生まれなければ、お母様が亡くなることもなかった」
胸に杭を打ち込まれたかのような鋭い痛みを感じる。どこか遠くで建物の崩れる音が聞こえた気がした。
……そうだった。私なんかに生きている意味などなかったんだ。私さえいなければコールヘイゲンの家は完璧だった。
東部軍の雄として讃えられるお父様、一族の才能をしっかりと受け継いだ美しいお姉さま、そして慈愛に満ちた優しいお母様。
本当は分かっていたのに。けど醜い私は認めたくなくて。現実を直視するのが怖くて逃げた。
人よりたくさん努力すれば、みんなに実力を認めてもらえればきっと。そんな風に。
でもそんなことに意味なんてなかった。そう最初から、私さえいなければ。私さえ、いなければ————っ。
「ようやくわかってくれた? それがあなたの望みよ」
私は街の大水路の真ん中にいた。水の上で立ち止まる。背後のお姉さまも距離を置いて動きを止めた。
足元で水面が跳ねる。落ちたのは私の涙だった。足元に映る私の顔は、すでに涙で濡れていた。ひどい顔だった。
「ううううっ……」
「可哀想なマリア。私があなたの望みを叶え、辛い苦しみを終わりにしてあげる」
水路の先に見える色あせた街並みの端が崩落を始めていた。ガラガラと音を立てて街や水路が崩れ、消えていく。その先は何もない白い闇だった。
始まった崩壊など素知らぬ顔でお姉さまが水面を歩きこちらへやってくる。
その顔はまるで、いつもの優しさを感じさせるお姉さまの表情に見えた。
……私はいらない子だった。これから先、生き続けたってなにも変わらない。調査の成果を上げて街に戻っても、私の罪をお父様は決して許してはくださらない。私が生まれたせいで、病弱なお母様は。
「ごめんなさい。う、ううっ……、ごめんなさい……」
口をついて出たのは謝罪の言葉だった。
水面に映る醜い泣き顔に、私は空虚な謝罪の言葉を吐き出し続ける。
背後にお姉さまが立つのがわかった。両の目からはとめどなく涙の雫が滴り落ちる。
死ぬってどんな感じだろう。痛いのかな。苦しいのかな……。怖いよ————。
でも、それは私が受けるべき罰だった。生まれてきたこと自体が罪だから。ぎゅっと目を閉じる。
目を閉じても、普通は透過した光によって完全な暗闇にはならない。けれど私の目の前は真なる暗闇だった。どこにもいけない。どうにもならない。
ここが私の終点なんだ。
その暗闇の果てに僅かな光を見た気がした。目を閉じているのに光が見えるなんて、おかしい。
……ううん、気のせいじゃない。それでもほんの小さな、村から遠く離れた一軒家に灯る窓明りのように頼りない光。どこからか、聞こえるはずのない声が微かに聞こえる。
「さようなら、かわいそうなマリア。安らかに眠りなさい」
背後に立つお姉さまがそう言い放つ。彼女の波導の気配が膨れ上がり、牙を剥くのを感じた。
そんなことはない。少なくとも俺は、マリアンヌに生きていてほしい
「……?!」
どこかで聞いた、誰かの声。思い出せないけど、以前確かに聞いた言葉。遠い光は暗闇の中で、終焉を迎える私の世界に抵抗するかのように弱々しく揺らめく。
ほとんど無意識のうち、私は水面を蹴って飛んでいた。空中で一回転。世界が逆さまになった時、お姉さまの寒冷地の空に浮かぶ月のような冷たい瞳と目が合う。そのまま離れた水面に着水し、彼女に向き合った。
「どうして逃げるの? もう抵抗は止めたんでしょう」
なぜ自分の体は咄嗟に動いたのか。
色褪せた物音の無い、どこまでも静かな世界。今は遠く崩壊の足音がこちらへと近づきつつあるのに、さざ波すら立たない水面に立ち私はお姉さまと対峙する。
私は自分の罪を受け入れようと思ったはずなのに。身体は、いや……心は、理性とは別にそう望んではいないということ? 私には未練があるの? この後に及んでまだ死にたくないって思ってるの?
「最期の最期で怖くなったの」
違う。
「結局、自分の命の尊さに勝るものはないということね。ありふれた結末だわ」
そうじゃない。
胸に手を当て、再び目を閉じる。確かに聞いた。あの人の声を。
「その人は、足掻いて足掻いて、いつか自分で本当に納得できる、自分の生きる意味を見つけたいと言ってました」
「……?」
自分でも驚いたことに、口元に微かに笑みが浮かぶ。
「その人、すごく変な人なんです。迷宮なんて危険な場所に、たいした力もなく入って。弱いくせに他人の心配ばっかりしてるんです」
前を見る。水面に立つ彼女の姿を。
「もう一歩も進めない。そう思いました……。それでも。それでも誰かが自分のことを想っていてくれるなら、生きることを投げ出しちゃいけない。そう、言われました」
つい最近、私に向かってそう言ったのは誰だったか。記憶は霞がかかったように曖昧で、どうしてもその誰かを思い出すことができない。
それでも、胸の奥に残るこの微かな温もり。これはきっと、その誰かが私に残した想い。
「正直言って、私にそんな人がいるかどうかなんてわかりません。でも感じるんです。思い違いかもしれない。そう信じたいだけかもしれない……。それでも、私は最後まで足掻いてみようと思います」
彼女に向けてまっすぐ杖を構える。
「ようやくやる気になったようね。でなければ面白くないわ。でも、あなたは私に勝てるのかしら? 姉であるこの私に」
「あなたはエレナお姉さまなんかじゃない」
そう言い切ると、元から静かな世界が一瞬静寂で満たされたような気がした。雲の動き、風の流れもその動きを潜めるように止み、時間すら止まったように感じる。崩壊の足音はもう聞こえない。
「全力で行きます」
「そう……、わかったわ。じゃあ始めましょう、水の宴を。あなたの全力を見せなさい、マリア」
私とお姉さまとの狭間で波導の気配が急激に高まり、ぶつかり合う。
本当の闘いが始まった。