第9話 月明かりの部屋
ユリクセスの集団はもちろんだが、廃墟街で襲ってきた怪物。あんなのがこの平和だと思っていた王都に潜んでいるという事実を身を持って体感した俺は少なくない衝撃を受けた。
幸いにして俺はエイヴスへやってきてから犯罪に巻き込まれた経験はなかった。命に別状はなかったとしても、普段の静かな街の裏側を覗いてしまった気持ちだった。
一般住民に見えない街の水面下には、決して関わってはいけない影に潜む者達が蠢いている。俺はその沼の深みに片足を突っ込んでしまった。まだ命があり、そこからこのフウカという少女を連れ出せたことを今は喜ぼう……。
とはいえ、俺は人間が少なくとも二人物言わぬ死体になった現場を目撃している。このことは明日治安部隊に通報する必要があると思う。
できることならもうこの件に進んで関わりたいとは思わないけども。金輪際、遠回りしてでもあの地区には近づくまい。
夜の少し湿った空気が濡らす石畳を踏みしめながら、俺はふとあることを思い出した。
「フウカ、そういえば俺がさっき使ってた杖を持ってない?」
「牛のお化けに向けて撃ってた、あれ?」
「うん。気を失った時に持ってたと思うんだけど」
「ナトリの持ち物は落ちてなかったと思う」
「そうかあ……」
意識がなくなったときに空に落としてしまったんだろうか? 勿体無いことをしたなあ。あの星骸は結構高く売れたろうに。バラム遺跡で今まで盗掘を逃れて埋没していたのか。
惜しいことしたな。もうないのだから悔やんでも仕方ないが。命が助かっただけでよしとすべきだろう。
フウカは不思議な子だった。エアルにしては珍しい橙色の鮮やかな髪に、薄紅色の瞳。見た目からして変わってる。
でもそれだけじゃなくて、ハッキリ言えないけどよくいる年下の女の子たちとは少し雰囲気が違うような気がする。
俺たちは夜道を照らす街灯の下を辿るように歩き、坂の途中に立つアパートへ帰り着いた。
キッチンと続きの一間だけの狭苦しい部屋にフウカを上げ、彼女を寝台に座らせ俺は小さな食卓の木椅子を引いて腰掛けた。思わずテーブルに突っ伏する。
「はああ……疲れた……、半端じゃなく」
「ここがナトリのお家なんだね」
「うん。お腹空いたよね。ちょっと休んだら何か作るから……」
「本当? ありがと!」
テーブルの上で両腕に埋めた顔をフウカの方へ向ける。彼女はもの珍しそうに狭い部屋の中を見回していた。
彼女も一日中街を歩き回っていたというから疲れが溜まっていたのだろう。フウカは俺が目を閉じて放心している間に寝台の上で横向きになってすやすやと寝息を立てていた。小さな子供みたいだな。
すうすうと静かに寝入るフウカを見ていると、俺は急にそわそわと落ち着かない気分になってきた。この部屋に女の子を入れたことなんてもちろんない。それどころか自分の部屋に女の子を招いた経験も一度もない。
「どうやってもてなしたらいい……?」
わからない。わかるはずがない。取り敢えず、変なものは食わせられないだろう。重たい体を休めるのも早々に、俺は台所に立った。
煮込みスープの匂いに目を覚ましたフウカと狭い食卓を挟んで食事をした。大したメニューではないけれどフウカは文句も言わずに美味しそうに食べてくれた。
食後、彼女に水浴びを勧める。俺もそうだけど、あの化け物との追いかけっこで俺たちはかなり薄汚れた状態になっている。俺なんて服に血が滲んだりして酷い有様だ。まるで野盗に襲われたみたいだった。
風呂場に貯め置いてある水を好きに使ってくれと彼女に乾いた布を渡した。
§
水音が途切れ、微かに衣摺れの音が聞こえる。ガチャリと風呂場の扉の取っ手が鳴り、俺が貸した服を来たフウカが出て来る。
「さっぱりした。えへへ」
彼女は足を開いてぺたりと寝台に座って髪を拭き始める。
俺も着替えと手拭いを抱えてそそくさと風呂場へ入った。無防備な姿で生乾きの髪を寝台の上で乾かすフウカの姿に思わずどきりとした。
今日出会ったばかりの女の子と一体どうしてこんなことになっているのか。流れでウチに誘ってしまったけど自分の無神経さに自分で驚いている。
風呂場に入ったはいいものの、全身傷だらけなので少し体に水をかけただけでめちゃくちゃ染みる。恐る恐る汗と汚れを落としたが、あまりさっぱりできたとは言えなかった。
疲れもあったので俺達は早々に寝ることにした。幸いにして明日は休日だ。職場に返却しなければならない空輪機を部屋まで持ってきてしまっている。休み明けに返そう。修理代でまた給料減額だな……。
フウカを寝台に寝かせ、俺は床でシーツにくるまった。疲れもあり、毛布にくるまって間を置くことなく俺は泥のような深い眠りに落ちた。
夜半にふと目が覚める。
何かいい匂いがする。ん? 目の前に何か……あると思ったらそれはフウカの頭だった。寝台の方を向いて横になった俺は寝る時の姿勢だったが、何故かものすごく近くにフウカの身体があって俺たちは同じ毛布にくるまっていた。
「…………」
目を見開いて、たっぷり三十秒は彼女の顔を凝視してしまった。白くてしっとりとした頬には少し幼さが残り、頬はわずかに紅く上下に揺れている。
柔らかな曲線を描いて閉じられた瞼を長い睫毛が縁取っている。橙色の長くて細い髪がさらりと流れた。
小さく寝息を立てるフウカはありていに言って……、控えめに表現しても、とても魅力的な少女だった。俺は身じろぎ一つしないまま見開いた目を少し動かす。
フウカに着せた俺の部屋着のボタンは上二つが掛けられていない。視線を下げる。細くてまっすぐな鼻梁、桜色の淡い唇、白い首筋、無防備で華奢な鎖骨。その先には少し控えめな――――。
馬鹿。理性の声が俺をどやしつける。
フウカにかからないよう、細く、しかし長く深いため息をついた。彼女を起こさないように静かに起き上がり、纏っていた毛布を横たわるフウカに巻きつける。
明かりをつけずに食卓の椅子を引いて腰掛け、頬づえを付いて暗い部屋の中で寝台の向こうの一つしか無い窓の外を見る。窓から差し込んだ薄青い月の光が床に寝転んだフウカを照らしている。
あたりは静かで全てが寝静まり、物音一つない。音を立てるのも憚られる静寂の世界で確かに生ある存在として彼女はそこに横たわっていた。
俺の心が、選択が、俺をこの瞬間に導いた。もう助からない。今日は本当にそう思った。俺は眠る少女に感謝する。
願わくば、彼女を助けようとしたこの選択が正しいものであるように。いつか、それを後悔する時がやってきたとしても、それでもやはりあの時の自分は間違っていなかったと思えるように。
俺は静かに部屋を照らす月光を眺めた。
月が傾き空が白み始めるまで、月の光を浴びて眠る少女を見守っていた。