第86話 Marianne,crisis of fortune
母は私を産んで間も無く、病を患い亡くなった。
元々体の弱い人で、父と結ばれてからは厄介な病気にかかりほとんどの時間をベッドの上で過ごしていたと聞いている。
水の大結晶から溢れ出た清浄な水の恩恵を受けるプリヴェーラの都で、高名な治癒術師の治療を受けていても、母の身体を蝕む原因不明の病魔を退ける事はついに叶わなかった。
当然私には母の記憶がない。屋敷の居間に飾られた肖像画、額縁の中で優しげに、儚く微笑む美しい銀髪の女性が私にとってのお母様のすべてだった。
コールヘイゲンのお屋敷で使用人として奉公していた、イーリャという女性が母の代わりに幼い私の面倒を見てくれた。
よく、私の手を引いてお屋敷の近くにあった浮遊庭園に連れて行ってもらったことを覚えている。
私たちは木陰のベンチに並んで座り、イーリャの作ったお弁当を二人で食べた。卵料理がしょっぱいと文句を言って、彼女を困らせてしまったことを覚えている。
イーリャは実の母のように私の面倒を見てくれたけど、私が五つになった頃に別れを告げることなく突然屋敷を去ってしまった。
私は泣いて、姉や他の使用人達にイーリャのことを聞いて回ったけど、誰もはっきりしたことは教えてくれなかった。
大きくなって少しは自分で想像ができるようになったけど、その理由をあえて確かめようとすることはしなかった。
私には十歳年上の姉がいる。イーリャがいなくなる前から、私はお姉さまの中に母を見ていたのかもしれない。何しろお姉様は肖像画のお母様に瓜二つだったから。
しかしお姉さまは街の術士協会に入るととても忙しくなり、一緒にいられる時間は減って、私は一人で過ごすことが多くなっていった。
エレナお姉さまは私の憧れ。
優しくて思いやりがあり、才能に溢れていてとても美しい。屋敷の使用人たちも口を揃えてお姉様はコールヘイゲンを継ぐ者に相応しい方だと言う。お姉さまはお父様の自慢の娘でもあった。
自分もお姉さまのようになりたい。そう思うのは自然なことだった。私もお姉さまのようなすごい術士になって、みんなに認められたい。幼い頃の私はずっとそう考えていた。
術士の家の子は六歳になると波導の適正を確かめるための儀式を受けるのが通例だった。だから私も、もちろんその日を心待ちにしていた。
◇◇◇
ふと気がつくと私はコールヘイゲンの屋敷の廊下に立っていた。見慣れた自宅の風景、だけどはっきりと違うところがある。
なんだか色褪せていた。まるで古くなって色落ちした写し絵のように。
頭が妙にぼんやりとしていた。さっきまで何をしていたのか思い出そうとしたけれど、記憶を探って手を伸ばしてもそれは、砂のように指の間からこぼれ落ちて消えていってしまう。
たかが一刻、一日前の記憶がまるで何年も昔のことのように遠ざかっていた。その記憶に対する違和感自体も、次第に薄れていくような気がした。
廊下に敷かれた絨毯を踏みしめる静かな足音が聞こえる。やや俯いて、床に目を落としていた私は顔を上げた。
廊下を歩いて来たのは私自身だった。正確には昔の、多分五、六歳くらいの私。まだ背丈も小さく、与えられた小ぎれいな丈の短いドレスを着せられている。
小さなマリアンヌはつむじを見下ろす私の前を横切って廊下を歩いていく。頬は強張り、とても緊張しているのが窺える。
彼女は少し進んだ先、屋敷の使用人の一人が待っているところで止まる。そこで体の向きを変え、大きな扉に向き合った。
「入りなさい。マリアンヌ」
暫くの後、扉の向こうから落ち着いているけどよく響く父の声がした。内側から扉が開かれ、彼女は部屋へと足を踏み入れる。私も小さな私に続いて中に入った。
そこは屋敷の食堂だ。天井が高く広い造りで、いつも置かれている長い食卓は取りのけられ、かなり広々と感じる。左右に肘掛椅子が並べられ、腰掛けた様々な人々が幼い私に注目する。
やっぱり、私は皆に見えていない。昔の私はもちろんのこと、使用人や来客の誰も、私に注目する人はいなかった。これは……夢?
小さなマリアンヌの進む先、食堂の奥では、複雑な刺繍が施された白くて長いローブを着込んだ老婆が中央に置かれた椅子に座っている。その近くにはお父様と、まだ今の私より少し年上の若いお姉さまの姿も見える。
私はこの光景を知っている。この日は私の六歳の誕生日で、色見の儀に臨んだ日。正面中央の肘掛椅子に深く腰掛けるのはプリヴェーラの筆頭星詠みである高名な白波導術師のカルラ様。
色見の儀とは、星詠みに波導の適性を鑑定してもらう儀式だ。エアルは六歳くらいになると波導の特性が安定するようになる。
術士の家系に生まれた者は、六つになると色見の儀を受け、術士としての修練を始める者が多い。
これは私の過去の記憶だろうか? でもなにか変。私は今その記憶の中を自由に動き回る事が出来るし、当時の私が見てないものまで見る事ができている。
屋敷の造形や部屋の造りは分かるけど、お父様やお姉さま、客人達の細かい表情までが再現されている。あの時の私はがちがちに緊張していた筈だし、そんな細かいところまで鮮明に覚えていると思えない。
この空間にそんな違和感を覚えつつも、色見の儀は滞りなく進行していく。
「前へ」
奥に待つカルラ様が幼い私に声をかける。
「はい」
小さなマリアンヌはか細い声で応え、ぎこちなく部屋の奥まで歩み出る。私も色褪せた自分自身に付いていく。老婆は椅子からゆっくりと立ち上がり、錫杖を突きながら幼い私に歩み寄った。
「これより色見の儀を執り行う」
カルラ様のしわがれていながら、威厳ある声が部屋に響く。
「膝をつき、目を閉じよ。心を落ち着けるのですマリアンヌよ」
「はい」
カルラ様は跪いた小さな私の頭に、皺の刻まれた枯れ木のような手を載せる。集まった人々も中央の二人に注目する。私もその光景を見守った。
色見を終えたカルラ様が手を離し、マリアンヌを立たせる。一歩下がり、両手を開きながら部屋に集まった者にしかと聞こえるよう声を上げた。
「アレクの娘、マリアンヌ・コールヘイゲンは、大いなる水と大地より加護を授かった。神より賜りしその才を、今後一族のため、スカイフォールの平安のため行使するであろう」
来客達が幼いマリアンヌに祝福の拍手を送る。エレナお姉さまが真っ先に私の元へやってきて褒めてくれる。我が事のように喜んでくれるお姉さまに私は、頬を上気させてようやく嬉しそうな顔を見せた。
この儀式で、私は水と地の波導適正を持って生まれた感知型の二色使いであることが判明する。
昔の私は何をあんなに浮かれているのだろう。得意になるようなことなど、何もないというのに。
小さなマリアンヌとお姉さま、周りを取り囲む親戚ごしにお父様とカルラ様が話しているのが見えた。色見の詳細な結果を聞いているんだろう。
お父様は……、いつもと変わらない、少し気難しげな表情。
私はなんとなく、いたたまれなくなって食堂を後にしようとした。その際、扉の脇に控えていた使用人の話声が耳に入る。
「水と地の二色使いか。マリアンヌ様もしっかりとコールヘイゲンの血を継がれているな。しかし、さすがにエレナ様ほどの才はなしか……」
思わず足早になって賑やかなざわめきのこだまする食堂から遠ざかる。床の絨毯を見つめながら歩く。
顔を上げると、辺りの風景は瞬時に変わっていた。今度は屋敷の一室、私が勉学に励んでいた学習室だ。
書棚の前に置かれた机に向かって、小さなマリアンヌは一心不乱に羽ペンを動かしている。
部屋の中央に立っていた私は振り返る。向かいの壁際には大きな机。机に座って何か書き付けているのはエカテリーナ先生。私の教師だった人。私は一年前までこうやって先生から授業を受けていた。
エカテリーナ先生が立ち上がる。幼い私はぴくりと反応する。彼女は背の高くてシルエットの細い、いかにも厳格そうな、眼鏡をかけた女性だ。
先生のことはずっと苦手だった。やはり周囲の景色と同じく色の褪せた彼女は、つかつかとマリアンヌの机に近づいてくる。
「マリアンヌ、試験の採点が終わりました」
「はい」
「100点中94点です。ちゃんと復習はしたのですか?」
「はい……」
彼女は厳しい先生だった。以前はお姉さまの教師も務めていたので、私は度々お姉様と比較されることになる。
「エレナは一度教えた事はしっかりと復習し、自分のものにしていましたよ。貴女もお姉様を見習ってもっとしっかりと勉学に励むのです」
「はい……先生」
俯きがちに小さくなった幼い私は情けない声で返事をする。
幼い私は真剣にエカテリーナ先生の言葉を聞き、お姉さまに少しでも近づこうと頑張った。自分も一生懸命勉強していずれはお姉さまのように。
波導術士の名門コールヘイゲン家の名に恥じない人物になる。本気でそう思っていた。
エレナお姉さまはとても優秀で才能に恵まれていた。勉学も波導術の修練も早々に修めると、十歳の若さでガルガンティア波導術士協会へと鳴り物入りで入会した。
お姉さまは三色使いで、水、地、風の加護を受けていた。三種の属性に適性を持つトレブルは稀有な才能とされている。
それ比べ私は、覚えが悪く適性に関してもただの二色使い。普通に頑張ってもお姉さまのようにはなれない。そのことに気付くのにそう時間はかからなかった。
部屋の風景がぼやけていく。霧に包まれるように視界が覆われた後、私は再び食堂に立っていた。
今度は糊のきいた真っ白なテーブルクロスが掛かった長い食卓がどっかりと横たわっている。窓の外は暗く、天井から下がった大きなフィル灯の明かりが煌々と部屋を照らしていた。
食堂にはお父様、お姉さま、小さなマリアンヌと給仕がいて夕食の最中の様子。長い食卓の上座にお父様が座り、下座の両端に幼い私とお姉さまが座る。私は幼い私の左後ろに位置取った。食事は静かに進行した。
「エレナ」
「はい」
「協会の仕事はどうだ」
「かねてより多数の被害報告が上がっていた、運河に発生したシーラスの群れの対処に当たっております」
「そうか。気を抜くなよ」
お父様は口数の少ない方だ。普段は軍部でのお仕事が忙しく、たまに夕食を屋敷で摂られる際に数言話す程度。
そして話題は専らお姉さまのお仕事についてだった。私に話しかけてくれた記憶は覚えている限りほとんどない。
目の前に座るマリアンヌは皿に目を落として黙々と夕食をフォークで口に運んでいる。私にはその心の内が手に取るように分かった。彼女は幼き日の私自身なのだから。
私は小さなマリアンヌから目を背けるように、改めて部屋の中を見渡す。
夢を見てる……のかな。最近の記憶に関すること以外は、やけに意識がはっきりしてる。
実際にやる時が来るとは思わなかったけど、私は指で頬をつねってみる。
「痛っ」
痛みはいやに現実的な感覚を私自身に伝えてくる。本当に夢なのか分からなくなってきた。でも現実でこんな状況はありえない。
人々に感じるフィルの感覚はいつもとほとんど変わりないけど、少し朦朧として、全体的により強い印象がある。
強い光を感じて目を閉じた。その一瞬で私はまたも別の場所に移動する。
そこは屋敷の中庭にある修練場だった。目の前に立つマリアンヌは訓練生用ローブを着込んで波導訓練の真っ最中だ。
エカテリーナ先生の見守る中、構えた杖先にふよふよと水玉が浮かんでいる。これは水の波導訓練の一環だ。
マリアンヌの顔は真剣そのもの。額に汗を滲ませ、全神経を傾けて術に集中しているらしい。
「あっ」
けれど水玉はあえなく破裂して崩壊し、ボタボタと地面の土に染み込んでいった。
「マリアンヌ、頭の中でしっかりと思い描き、想像するのです。今日は60秒維持できるまで終わりませんよ。もっと自分を持ちなさい。貴女も誇り高きコールヘイゲンの血を継ぐ者なのですから。こんな事では家名に泥を塗ることになります。さあ、もう一度水の感覚を確かめていらっしゃい」
「はい、先生……」
二人は修錬場へ入っていく。私はこの後も厳しい訓練が、煉気が空になりへとへとになるまで続くことを知っている。
いつか見た光景、かつてそこにあった景色とやりとり。しかもその一つ一つが私の心を抉るものばかり。夢だったらいい加減に醒めてほしい。
私はどうしてこんな場所に迷い込んでしまったの。ここは一体どこなの?
「ここはあなたの世界よ、マリア」
耳に届いた鈴の音のように美しい声。私は強い水の気配を感じ取って振り返った。
そこには私をまっすぐに見つめる一対の薄青の瞳、お母様似の長く美しい銀髪を頭の後ろで結ったお姉様が杖を手に静かに立っていた。