第83話 禁域
迷宮に入ってから既に四日が経とうとしていた。階層を上がるほどにノーフェイスの勢いは増し、その数は増え続ける。気を抜くとすぐに俺たちの存在を感知し複数体で襲いかかってくる。
おまけに二日目の夜以降、いまだにしっかり休息をとれる場所を確保できていない。俺たちはほとんど眠ることもできず、迷宮探索を余儀なくされている状況だった。
隠し扉は毎回円形の広場に存在したが、今はその広場も発見できずにいる。俺たちは迷宮をあてどなく彷徨うように歩き回り、運良く天井の穴を見つけてはそこから上階へ登るのを繰り返した。
そして今も、次から次へと通路の奥から湧き出すノーフェイスを撃退しながら暗い通路を三人で駆けている。
「この先広間。敵反応多数!」
「ようやく大部屋か、このまま突っ込むで!」
「おおっ!」
俺たちは半ば追い詰められるように広間へなだれ込んだ。そこに巣食う大量のノーフェイスを片っ端から掃討していく。
しかし奴らの数は減る気配がない。広間に開いた通路から、次々と新手が応援に駆けつけているのだ。倒しても倒してもキリがない。
「まずいぞ。倒す端からどんどん増援かよ……っ」
「扉を探すどころやないな。どっから湧きよるんや!」
部屋に入ったせいで逆に追い詰められてしまった形だ。奴らの数は増え続ける。戦い続きの俺たちは動きが鈍り、気力型のクレイルですら煉気を消耗し始めていた。
「やむを得ん。ちびすけ! まとめて焼き払う。水の壁頼む!」
クレイルはそう言うと詠唱に入った。隣にいるクレイルから、今までとは桁違いの炎の気配が溢れ出す。
「天より堕ちたる蒼の凶星、青穹を血で染め上げろ——『熾槍穹』……ッ!」
クレイルが突き上げた杖の先に、仄暗く、青い炎が灯った。
……なんだこの重圧感は。今までの術とは明らかに雰囲気が違う。クレイルの生み出した青い炎は急速に膨れ上がりながら浮かび上がっていく。
「……ッ! なに、この術?! ——清浄なる水の守り、『水障壁』!」
マリアンヌの杖が青く輝き、俺たちの周囲に水が生み出されていく。それはドーム状の壁を形成し、俺たちをすっぽりと包み込んだ。
マリアンヌもクレイルの術の不穏な雰囲気を察しているのか、真剣な表情でクレイルが作り出した蒼炎の火球を睨んでいる。
広間の空中に浮かんだ熾槍穹は、周囲に無数の火球をばらまき始めた。堕ちた炎は地面に当たって爆裂し、炎上する。
炎が無限に降り注ぎ、ノーフェイス達が青い炎の海の中に飲み込まれていく。臨界点まで膨れ上がった蒼炎が弾け、全てを巻き上げる火焔の衝撃波となって部屋中全てにまで広がる。
「ぐっ!!」
「っ……ううっ!」
隣のマリアンヌが膝をついた。額に汗粒が光っている。この水の障壁内にあっても感じる圧倒的熱量。きっと障壁の維持だけで急速に煉気を削られる勢いなんだ。
熾槍穹の本体である炎の塊が消え去ると、広間にはもう俺たち以外に動くものはなかった。感知範囲にいるノーフェイスは術によって焼き尽くされたらしい。地面に燃え残り広間を照らす蒼炎は、見た目だけなら涼しげだが明らかに普通の火よりも高温なようだった。
「部屋を出よう……。ここにいると脱水症状で死にそうだ」
「そうですね……」
「……クレイル!」
クレイルが構えていた杖を地面に突き片膝で蹲る。顔を覗き込むと、彼にしてはあまり余裕のない苦しげな表情を覗かせていた。
「今の状態で、さすがにこの術は堪えんなァ……。カカッ」
「こんなの、普通の術士なら万全でも一度放つだけでストーレス反応を引き起こしますよ。何なんですか、この得体の知れない力は。急に煉気の性質が変化した……」
煉気が底を尽く寸前のクレイルに肩を貸し、俺たちは青い炎に包まれる部屋を後にし通路へ飛び込んだ。
「はぁ、はあ……」
「悪ぃなナトリ」
先ほどの術によって煉気をほとんど使い切ったクレイルに肩を貸しながら通路を進む。別の通路から新たに合流してくるノーフェイスの頭を王冠で撃ち抜く。
通路の前方から来るノーフェイスはマリアンヌが水の波導で退けてくれる。
「早く!」
「くっ……」
クレイルを引きずって通路を進みながらノーフェイスを捌く。
「マリアンヌ! 敵の数は……!」
「後ろから多数!」
歯を食いしばって足に力を込める。体力的にもそろそろ限界が近い。どこか、安全な場所はないのか。さっきの広間でざっと隠し扉を探したが、どの壁も全く開く気配はなかった。
通路を進んでいくと少し広い空間に出る。いままで見たことのない構造で、天井の高い十字型の部屋だ。それぞれの壁に通路が開いている。
部屋を突っ切って奥の道を目指す。だが、尋常ならざる気配を感じて足が止まった。揺らめく風の霊気をまとって、通路の暗闇から這い出てくるのは地を這う巨大ノーフェイス。通路を隠すようにして俺たちの前に立ち塞がった。
「またあいつか……! 右へ!」
「いえ、ダメですっ」
すぐに左右に通路へ、と体の向きを変えようとするが、迷宮はそう甘くはなかった。左右の通路からも同じようにあのデカブツが這い出してくる。
「同時に三体も……、囲まれた!」
「さすがにこいつは、同時に相手すんのは無理や」
一体だけならばまだなんとかなる。けど、三体同時なんて。こいつらに加え、後ろからも小さいノーフェイスが迫ってきているというのに……。
前方の通路にはでかいノーフェイスが立ちふさがっているが、奴らの動きは鈍重だ。増援が来る前なら奴の突進を掻い潜って突破できるかもしれない。
「正面突破して、先の通路に……。あいつ一体だけなら」
「両側からも来る。急いで!」
こちらへ突進を始めたノーフェイスの、前方からやってくる一体を目指して俺たちも進む。左右の二体が集まってくる前に先へ進む。
俺とクレイルは左、マリアンヌは右からノーフェイスを回り込む。奴はこちら側を向いた。
「来るで!」
ノーフェイスが前足を浮かせた。視界の端でそれを捉え、クレイルと俺は横に飛んで回避する。地面を強く蹴って飛び込むように体を投げ出した。
「うおおおおっ!」
風が巻き起こるのを感じる。振り回されたノーフェイスの前足が俺の体の上を横ざまに通過していった。
「がっ!」
思いきり飛んだせいで、必死すぎて受け身まで取れない。床に体を打ち付けて転がる。すぐに体を引き起こし通路に向かって走る。
「後ろや!!」
背筋にぞくりと悪寒が走る。背後に追いついてきたもう一体のノーフェイスが俺に向かって前足を振り下ろしていた。
火球が至近距離で弾ける。俺のすぐ横の地面にノーフェイスの太い足が轟音と共に叩きつけられた。クレイルの放った波導によって攻撃の軌道が逸らされ、前足の直撃を免れた。
「走れッ!」
体勢を立て直し、駆け出す。二体は俺を追って来る。クレイルは三体目のノーフェイスの追撃をいなしていた。火剣を発動させながら、注意を引こうとしている。
「しつっけェなァ! ホンマによ!」
跳ねるように体を回転させながら飛び上がり、ノーフェイスの首を掻っ切る。ローブを翻して着地すると同時に化け物の巨大な首が地面に落下して転がった。
俺は突然転倒した。全く予想もせずに足を引かれて転がったので、体をもろに地面に打ち付けてしまう。
「ぐうっ!」
振り返ると、ノーフェイスの前足が伸びていた。植物の根のような形状に変化し、俺の足首に絡みついている。そんなこともできるのか。
腰から短剣を抜いて足首に絡みつく根の切断を試みる。が、繊維が束になっていてすぐには切れそうもない。
「この! 放せっ!」
腕を切りつけていると、ふいに体が浮いた。ノーフェイスが腕を振り回し、俺はそれに引っ張られて振り回される。視界がぐるりと回転し、床に叩きつけられた。
「が……ハァッ」
繰り返し頭部を打ち付けて前後不覚に陥る。上も下もわからない。鈍痛に思考が麻痺する。
捕らえられたまま仰向けになって床に転がり、首を傾けて前を見る。足下の覚束ない様子のクレイルが苦しげな表情で駆けつけてくる。その向こうにマリアンヌの後ろ姿が見えた。
「マリ、アンヌ」
俺の呻きが届いたのかはわからないが、彼女が振り返った。だがその薄青い瞳には何の感情も映ってはいない。
彼女に表情はなかった。ただただ冷静に現状を観察し、分析している。彼女が時折覗かせた酷く冷酷で、人間らしい温かみの感じられない表情だった。
「……私は、行かなきゃいけない」
マリアンヌは判断を下したのか、俺を一瞥すると前を向き、そのまま一人正面通路の奥の闇へと走って消えていった。俺たちを見捨て、一人で先へ進むつもりなのか。
地響きが起こる。床が震え、振動が伝わってくる。見上げている天井がスライドし、上階へと通じる穴が現れ始めた。迷宮の変動だ。この部屋に上階へ通じる穴があったのか。
この絡みつく根を断ち切って、一刻も早く拘束を脱しなければ。必死で王冠をノーフェイスの頭に突きつけ、引き金を引く。
だが、巨大な頭に存在するコアをなかなか撃ち抜くことができない。
「無事か!」
クレイルが俺とノーフェイス達の間に入り、俺の足に絡む変形した奴の腕を火剣で焼き切ってくれる。
「悪い、クレイル……!」
今の俺たちの状態で、こいつらから逃げ切るのは苦しい。
「見えとるか? 上階への穴や。まだ運に見放されたわけやない。あれが完全に閉まる前に、上に抜ければこいつらからも逃げ切れる」
天井の穴は完全に開き正円形になった。しかし階層の変動に従い徐々に再び閉じていく。
クレイルはよろめきながら俺を脇に抱えた。残る二体の巨大ノーフェイスが俺達を取り囲み、踏みつぶそうと大木のような足を繰り出す。
「『炎気泡』ッ!」
急激な気温の上昇を感じた。それにより生み出された空気の塊を利用して、クレイルは俺を抱えたまま高く飛び上がった。しかし奴らはすぐに腕を根の触手に変化させ、俺たちを追うように伸ばす。
ノーフェイスの腕は穴に向かって飛んだ俺たちを容赦なく補足し、体に絡みつく。
「ちぃっ!」
クレイルが火剣で絡みつく触手を切り裂くが、二体のノーフェイスの追撃を完全に振り切ることはできない。
天井の穴が遠のく。直下で待ち受ける巨大なノーフェイスに向かって落ちる、と思った時、クレイルが杖先を真下に向けた。
「無理矢理にでも登ったらァ! 『焔砲』ッッ!!」
高熱と爆音が弾け、クレイルの杖が強烈な勢いで炎を吐き出す。
落下しかけた俺たちの体は噴射の勢いによって上に押し上げられるように、触手を引きちぎりながら上昇を始めた。
「ウラアアアアアアッ!!!」
クレイルは残った全ての煉気を吐き出す勢いで波導の炎を燃やす。無理矢理に俺たちの体を上へ押し上げるつもりだ。
唐突にふっと炎が消え、噴射音が途切れた。限界だった。クレイルの煉気が底を尽いたのだ。
天井の隙間はもう狭い。あと少しなのに、間に合わない。
「ちっ、煉気切れかよ。……ナトリ、必ずフウカちゃんを見つけ出せ」
「……え?」
クレイルは体を捻って回転をつけ、最後の波導の勢いを使って抱えていた俺を上へと放り投げた。宙に体が浮く。
投げ飛ばされ、ゆっくりと回転する視界の中、煉気を使い果たしてノーフェイスの元へ落ちていくクレイルの姿を見た。
今にも閉じるかと思われた天井の隙間を通り、俺は上の階層の床へと投げ出されて体を打ちつけた。転がり、通路の壁にぶつかって停止する。
そこら中が痛む体を起こして地面を這いずりながら、下の階へ続く穴を探す。
「クレイル……! クレイルっ!!!」
そんな穴はもうどこにもない。既に穴はぴったりと閉じ、ただの床となっていた。迷宮の変動は完全に収まっていた。
「うっ、うあっ、あああああっ……」
拳で地面を叩く音が静寂の支配する通路に反響する。
暗く、冷たい迷宮の中、俺はたった独りで薄闇の中に取り残された。
翠樹の迷宮ベインストルク。踏み込んだが最期、誰一人として帰らない。そこは決して人が踏み入ってははならない禁域だった。