第74話 猿
再び進み始めてすぐのことだった。前方で太い枝の折れるような音がする。俺たちはすぐに立ち止まり、周囲の様子に気を配る。
「避けろッ!」
クレイルの発した忠告に従い、即座に古代樹の陰に走り込む。さっきまで立っていた場所に降ってきた何かが地面に激突し盛大に弾け、衝撃によって舞い散った破片やら土やらが周囲に降り注ぐ音が相次ぐ。
「うおおっ、なんだっ?!」
浮いた木の根と地面の隙間から前方を窺う。燈の届かない木々の高い場所で何かが動いた。枝にぶら下がり、こちらを見下ろしているのは猿のようなモンスターだった。
「無事か、お前らァ」
「な、なんとか……」
近くの樹の陰に退避したクレイルが寄ってくる。
「アイツ、古代樹の枝をぶん投げてきよった」
「あれは……多分バーバリアだ。レベル3。でかくて身軽、怪力の持ち主。バベルの資料には遠くから物を投げてくるって書いてあった」
「カッ。あのガタイで小心者か」
バーバリアは人間を凌駕する大きな体格を持ちながらとても身軽に木々を渡るらしい。この森の中はあいつの庭のようなものだ。そして、知能が高く慎重であるが故にそうそう近寄っては来ない。臆病とも言えるか。
「いきなりご挨拶ですね」
マリアンヌが上からふわりと降りてきてすぐ側に着地した。
「モンスターの縄張りに踏み込んでしまったようです。迷宮の影響で攻撃的になっているのもあるでしょうが」
「向こうはまだ様子を見てるな。じきに攻撃してくるか」
「幸いここは障害物も多い。物を投げられてもそう当たりはせん。縄張りごと焼き払ったろか」
「火遊びしか能がないんですか。これだから炎術士は……」
マリアンヌが侮蔑の眼差しでクレイルを見つめる。
「ちっ、ほんならお前がなんとかしてみろや」
もう森は暗い。下手に迂回するのは危険だ。時間もかかるし直線ルートを外れて里にたどり着けるかも不安だ。
「二人とも、言い合ってる場合じゃないだろ。かなり暗くなってきてるし、もう強行突破しかない」
「そんな単純な」
「クレイル、バーバリアが投げてくる枝を防ぐことはできるか?」
「俺にかかりゃな。ただ両手で連投されたらさすがに撃墜は間に合わんやろな」
「それなら大丈夫。俺の攻撃は二人の波導より速度だけなら上だ。俺があの猿を牽制してクレイルを援護するよ。クレイルが投擲物を撃ち落としてくれれば、きっと縄張りを走り抜けられる」
「なるほどな。やってみるか」
「…………」
クレイルが心強い笑みを浮かべ同意してくれる。マリアンヌも渋々といった態度で承諾する。クレイルならきっとうまくやってくれる。
俺たちはクレイルを先頭に一列になって樹の陰から飛び出した。俺が続き、マリアンヌはその後ろ。
バーバリアに向かって走り出した直後、早速猿は手に持っていた大枝を太い腕を振り回し、腕力を頼りに投げつけてきた。既に詠唱を始めていたクレイルが杖を掲げ、火球を放つ。
「オラァ! 『火焔』ッ!」
燃え盛る火球は飛んできた太い枝にぶち当たり、空中で赤い華を咲かせ爆散する。火花と枝の破片が辺りに降り注ぐ。驚いた猿はすぐに手近な枝をへし折ろうと腕を伸ばした。
「させるかッ!」
燻る爆炎越しに王冠を猿に向けて撃つ。炎のおかげで視界は良好、おまけにクレイルの術が煙幕になったのか、バーバリアの注意は逸れていた。光は猿の肩辺りに命中した。
「くっ……!」
一発撃つたびにずしりと体が重くなる。
枝を折ろうとしていた猿は食らった光撃に驚愕し、短く低く叫ぶように吠えると腕を引っ込めて別の古代樹へ飛び移った。
杖の重たい引き金を力を込めて引き、樹の合間を飛び移っていくバーバリアを狙い撃つ。
威力はこの際いらない。目的は牽制。枝を取る時間を与えないのが重要だ。
モンスターは一旦樹の裏へ回り、すぐに枝を手にして戻ってくる。そして俺たちに向かってそれを投げつけてきた。
「火焔」
しかし俺が稼いだ時間の間に詠唱を終えたクレイルの波導が枝を完璧に撃ち落とす。俺たちはそれを繰り返して走り、バーバリアの縄張りを突き進んだ。
「はぁ、はぁ」
まだいける。里まではもう少しだ。王冠を撃つたびに体が重くなる。
根性見せろ、俺。この程度で折れてたまるかよ。煉気の消耗を歯を食いしばって耐え抜く。
「チッ、まーだ追いかけてきよる。もう縄張りは抜けたやろ」
「怒りで目がくらんでいるんでしょう。どうあっても私たちを殺すつもりです」
「面倒な奴っちゃなァ、『火焔』! お前ら、一旦そこの木陰に隠れんぞ」
後方に術を放って枝を撃ち落としたクレイルの指示に従い俺たちは身を隠す。俺は地面に腕をついて呼吸を荒げた。
「よぉ、俺が一人で相手したるわ。降りて来いよビビリ野郎」
クレイルが木陰から堂々と姿を現し、樹上のバーバリアを挑発しながら術を放つ。
すぐ頭上まで迫っていた猿は、俺の王冠の攻撃を受け続けたために既に頭に血が上っていたらしい。
無防備な様子のクレイルが油断していると見て、両の拳を組み合わせ樹上から彼に向かって飛び降りてきた。
自らの豪腕を振り上げ、静かに地面に佇むクレイルの頭上に向かって致死の拳を振り下ろした。
大きな衝突音と共に地面が揺らぐ。ただその場に立っていただけのクレイルは、バーバリアの拳を確かに受け、圧殺されたかと思われた。
「心火より鍛えし紅蓮の刃、『火剣』」
地面にめり込んだ拳を上げようとした猿は、突如前のめりにその場に倒れ込む。背中から炎の太刀を浴び、全身から激しく炎を吹きあげながら絶命する。
バーバリアの背後から圧殺されたはずのクレイルが揺らめく炎越しに歩いてくる。
「カッカッカッ。所詮は猿。炎の波導を燃やすだけの術と思うなよ」
猿が潰したのはクレイルが「陽炎」という術によって生み出した分身だった。原理はよくわからないが、高熱によって幻を生み出し、自分の姿を別の場所に投影する火の波導術らしい。
ともかくこれで厄介なバーバリアはなんとか倒せた。あともう少し、この重たい体を引きずって、オキ族の里まで——。
「水刃」
隣で古代樹に身を隠していたマリアンヌが突然術を使って俺のすぐ後ろを水の波導で薙ぎ払った。
「おわっ!」
水圧の刃で切断され、何か黒い塊が転倒しながら転がって木の根にぶつかる。ノーフェイスだった。クレイルと猿に気を取られ、近づいて来たのに気づけなかったようだ。
「針鼠」
二つに切断されても地面に転がりながら蠢く化け物は、マリアンヌの術で頭部を棘刺しにされてようやくその動きを止めた。
「ありがとう。助かったよ」
「別に……。私はさっき何もしていませんでしたから。もっと周りに注意してください」
そう言って彼女はついと俺から目を逸らした。
「おう、こっちは片付いた。先急ごうや」
障害のなくなった暗い森の先へ、俺たちは立ち上がるとすぐさま走り出した。
§
進む先に二つの夜光灯の翠色の明かりが見え始めた。きっとあれが里の入り口だ。
翠の静かな光を放つ石灯篭まで来るとついに森を抜けた。その先は開けた空間になっていて、夜空と月が見える。目の前は崖で、アラウダ高地を下まで貫通する大穴が広がっている。
巨大な穴の真ん中に浮遊岩盤が浮かんでおり、木々の間から人の暮らす灯りが漏れ見える。ガリラス=オキの里だ。里の入り口までは吊り橋が架かっていた。
古代樹の森越しに、夜闇の中翠色に発光する迷宮が見える。ここまで来ると本当にでかい。見上げれば視界を覆い、まるでこっちに倒れ込んでくるような錯覚を起こすほど。外周だって相当な距離がありそうだ。
夜の中にあってもフィル鉱石で構成される外壁がうっすらと翠色の光を帯び、まるで脈動するかのように光を放っている。
「ようやく、つ、着いた……」
俺は息を切らせながら、里の入り口へ向かう二人の後を追って吊り橋を渡り始めた。