第61話 神の叡智と白き竜
「白皙なる口縄よ。『霜薊』」
凛とした詠唱が空間に行き渡った。
見上げた大蜥蜴の醜い顔は、次の瞬間白い塊に押し流され俺の視界から消えた。
それは倒れた俺の背後から突然伸びて来て頭上を通過し、大蜥蜴を直撃したようだった。
「霜……?」
空中に留まる真っ白な柱は、少し寒くなる時間帯、日の出ていない朝方に草木についているあの霜の塊のようだと思った。
床に片肘を突き、なんとか上体を起こそうとする。
「はぁ、はぁっ……!」
無くなった右手を見下ろすと、既に周囲は溢れ出た自分の血液で赤黒い水溜まりと化している。左手が震え、体を僅かに起こすのがやっとだ。
「生きとるか、小僧」
声のした方を振り向く。そこには小柄なラクーンの老人がいた。彼は空中に浮いており、氷の板のようなものに乗っている。
顔は長く伸びた白い体毛と髭とに覆われ、突き出した鼻と耳しか見えない。小さな体をローブですっぽりと覆い、背中には身の丈より大きな大錫杖を吊るしている。
「あなたはっ……」
「ナトリ君!」
傍に駆け寄って屈み込み、俺の名を呼ぶ人物があった。長い銀髪、白く整った顔、澄んだ湖面のような薄青色の瞳をしたとても美しい女性だ。
「エレナ、さん……」
「動かないで。じっとしていてね。……少しだけ痛むわよ」
そう忠告すると、ベルトに取り付けた銀色の杖を抜いて俺の切り飛ばされた腕の断面に容赦無く当てた。
「ぐうっっっ!!」
「清らかなる水よ。触を禊ぎ、寧静なる恵みを齎せ。『治癒』」
エアリアが青く静謐な輝きを放つ。肩に当てられた杖の冷たい感触は、徐々に右半身を包み込む仄かな暖かさに変わる。湯に浸かったような心地よさが身体に行き渡っていく。
フウカの力に似た癒しの波導。治癒の波導を行使し、エレナは杖を離した。
「ガルガンティア様、お願いします」
「うむ」
ガルガンティアの白い髭面がこちらを向く。細かく硬質な、パキパキという音がすぐ耳元で鳴った。
「?!」
肩口が今度は急速に冷却されていく。冷たい。肩の断面は霜が張り付いたように真っ白く覆われていき、僅かにそこから細かな霜柱が伸びて完全に固まった。
「これでしばらくは死にゃあせん。ちと冷たいがな」
「ありがとうございます会長。ナトリ君、応急処置と傷口を塞ぐだけはしたわ……、あなたを一刻も早く治療院へ運ばないと」
ガルガンティア会長の氷の波導によって流血は完全に止まった。
しかし、身体の芯から来るような寒さと震え、視界の端がぼやけるような感覚と、死をすぐ側に感じる程度にはひどい状態だった。
「ガ、ガルガンティア……様、エレナさん。あり……がとう、ございます」
かちかちと歯の根が合わない状態でなんとか礼を言う。
「ナトリ!」
二人に続いて側に寄ってきたクロウニーとエルマーが俺の体を起こし、クロウニーが腕を取って肩を支え、立たせてくれる。
「そのローブ……、ガルガンティア波導術士協会の方ですか。危ないところを助けていただき感謝します」
「あなた達はナトリ君を連れて早く地上へ。出口付近のモンスターは協会の術士達が蹴散らしているはずよ」
「こんな場所とっととズラかろうぜ……!」
ガルガンティアが背後を振り返る。
「簡単には帰れそうもないのう。エレナよ」
「はい。……清光よ、闇を打ち払え。『燈』」
エレナが翳した杖から明るい波導の光球が発生し、高く浮かび上がっていく。空間の広範囲を薄青く白い光がぼんやりと照らし出す。
出口の方向には大量のウーパスがひしめき、完全に退路を塞いでいた。一体どこから湧いてくるのか、どんどん数が増えているように見える。
俺は悪寒に体を震わせ、荒い息を吐きながらガルガンティアに声をかけた。
「ガル、ガンティア様……っ。あの大蜥蜴は、闇に……姿を溶かすん、です。見えない、とこから襲ってくる、かもしれ、ません」
「確かにな。姿を晦ましたようじゃ。この蜥蜴魚どもの動き、上位種に統率されておる」
「ということは、あれは……」
「汚染の元凶はアグリィラケルタスじゃな」
俺たち五人を包囲するようにモンスター共はじりじりと迫ってくる。包囲網に穴はなく……逃げ場もどこにも無かった。
頬に、何か冷たいものが触れた。身体は既に冷たいが、それとは別の感触だ。
「……?」
……雪、なのか。実際に見たことは無いけど、寒さの厳しい北の大地では空から降ってくるものだと聞く。
でもここは屋内なのに。エレナの放った燈に照らし出された薄明かりの空間に、白い雪の結晶がちらちらと光を反射しながら舞い降りている。妙に幻想的な光景だった。
「天満月、空より欠けたることもなし。優艶き氷華よ、『白椿』」
ガルガンティアが詠うように詠唱を口にする。
俺たちを取り囲む百を超える数のウーパスが揃って口を開けた。酸の攻撃、俺たちに逃げ場はなく、立ちすくむことしかできなかった。
一斉に吐き出された酸液が俺たち目掛けて殺到する。だが、飛んできた水泡は空中で弾け飛びそのまま白く凝固していった。中空で酸液の弾ける音が立て続けに鳴り響き、いくつもの氷の花が宙に咲き乱れていく。
やがて酸液が凝固してできた氷塊は俺たちの周囲を覆い尽くし、氷の花から相互に伸びた霜の柱が絡み合い、真っ白な壁を形成していく。
気づいたときには俺たちは白い氷のドームの中に立っていた。ウーパス達は完全に壁の向こうへ隔絶され、口からは白くなった呼気と共に呟きが漏れる。
「氷の、アイン・ソピアル……」
浮遊船でクレイルから聞いた特別な波導のことだ。フィルの持つ基本七属性である水、火、風、響、地、白、黒のいずれの属性にも属さない固有の波導系統。
スカイフォールでもその使い手は限られ、全ての術士が憧れる力。氷を直接生み出す波導は、ガルガンティアのみに許されたオリジナルの波導だ。
気がつくと老師はドームの天井付近まで浮き上がり、白毛の面で壁の一方をじっと見据えている。
激しい水音が響き、氷のドーム全体が揺れる。何かが溶けて流れ出すような音がし、ガルガンティアの見ている一角に変化が現れた。氷が削られて薄くなっていくようだ。
ウーパス達の集中攻撃、いや、アグリィラケルタスの酸のブレスだった。ドームを溶かして酸液を流し込もうとしている。
浮遊するガルガンティアは背中に吊るした杖を外し、先端を氷壁に突きつける。
「愛しなるかな。白き野に遊べ、『霜桜』」
詠唱の直後、杖が強烈な輝きを放つ。杖の先端から太い氷の棘がめきめきと発生し、増殖するように膨れ上がる。
氷棘は空間を凍てつかせながら氷壁にぶちあたり、白椿の壁を激しく突き破った。
外から氷壁を溶かしていたアグリィラケルタスの酸のブレスと、空間を凍てつかせる棘氷が正面からぶつかり合う。
一瞬氷の波導と酸のブレスは拮抗するように見えたが、ガルガンティアの波導は酸のブレスそのものを凍てつかせ、飲み込むように侵食していった。
凍ったブレスからいくつもの巨大な氷棘が突き出す。吐き出される酸液の濁流を伝い、霜桜はアグリィラケルタス本体まで一気に到達した。
硬質なパキパキという音と共に、その巨体に霜がまとわりつき白く染まっていく。大蜥蜴は抵抗するように、自由を奪われつつある手足を動かそうとするが、ついに冷気の呪縛から逃れること叶わずその巨体は柱にとりついたまま柱ごと氷の牢獄の中に完全に閉じ込められた。
「こ奴らはもれなく厄介な能力を持っておる。気を抜くな」
「これが氷のアイン・ソピアル、『銀嶺』……」
「すっ……げぇ」
あたりには薄っすらと冷気が漂い数度気温が下がったように感じる。周囲の環境にすら影響を及ぼす強大な波導、これが神の叡智と呼ばれるアイン・ソピアルの力か。
唖然とする俺たち三人の耳に、突如暗闇をつんざくような高い鳴き声が届く。
「なんだあっ?!」
「……まだ、何かいるのかっ」
警戒し、身構える。
「安心して。あれは味方よ」
「えっ……?」
巨大な羽音が近づいてくる。氷壁を通して上空を見上げると、周囲を照らす燈の明かりの下を、大きな影が過ぎった。
「竜!?」
一瞬見えたのは雪のように真っ白な竜だ。フラウ・ジャブ様のように体の長い龍ではなく、四つ足の生えた胴体に大きな翼と長い首を持つ。
神話にのみ語られ、高い知能を持つと伝えられる竜の姿とほとんど同じ。
「本物なのか!?」
「残念だけど本物の竜じゃないわ。あれは白寂嶺。会長のペットなの」
「ペット……」
「『銀嶺』によって発生した氷の波導生物。あの子が来れば周囲のモンスターたちを残さず食べてくれるでしょう。もう、安心よ」
「は、はぁ……」
「もう、なんも言えねぇ……」
白寂嶺と呼ばれた氷竜は口から凍てつくホワイトブレスを猛烈な勢いで噴射し、水路内を氷の世界へと変貌させながら飛び回る。
白椿の氷壁が消え、柱の合間を縫って飛ぶ白寂嶺の巨体が白い死の息吹を吹き付けながら逃げ惑うウーパス達を追い込んでいく。
「あなたたちは早くナトリ君を地上へ運んであげて!」
「は、はい! 行こうエルマー。ナトリの顔色がよくない!」
「……急ぐぜ!」
俺は、どうなるのだろう。さっきからずっと体のバランスが変だ。本来あるはずの腕がなくなってるんだから……当たり前か。
疲労と体の負担でさっきから目眩がする。血を流し過ぎた。視界もかなり狭まってきた、いよいよまずい。
「そこに転がっとる小僧の腕も忘れるでない。氷漬けにしておいてやる。湯をかければすぐに溶ける」
「ナトリ君を病院に運んだらすぐにフウカちゃんを呼んで。もしかしたら……」
クロウニーに寄りかかり、エレナの言葉を聞きながら気が遠くなっていくのを感じる。
水路は再び闇の中に沈み初めていた。遠くで聞こえる話し声だけが意識の中で反響する。
体が軽く、楽になってくる感じがして、眠気と心地よさの中で俺はゆっくり意識を手放した。
……
「フウカ」
少し先にフウカの姿があった。橙色の明るい髪に、薄紅の瞳。彼女の姿を見つけて俺は走り寄る。今は無性にフウカの顔が見たかった。
彼女の目の前に立ち、話しかける。
「ごめん、フウカ。旧地下水路に行っててさ。大怪我しちゃったけど、ほらこの通り。もう大丈夫だ。水質汚染の原因も取り除かれたんだよ。お金も結構稼げたし、これで一緒にお祭りに行ける」
俺を見上げるフウカは微かな笑みを浮かべる。
「ごめんねナトリ。私、行かなくちゃ。本当は一緒にいたいけど……、ごめん。ごめんね」
そう言うと、フウカはくるりと向こうを向いて走り出した。
「あっ、待ってフウカ。行くってどこへ?」
フウカは止まらない。追いつこうと足を早めたが全然距離は縮まらない。それどころかフウカはどんどん先まで走っていってしまう。
「フウカ! 待って、俺も、俺も一緒にっ……!」
地面を蹴る感覚がふっと消える。体の自由を失い、俺の体は突然落ち始めた。
まっさらの、他には一切何も存在しない白い闇の世界の中をどこまでも。