第6話 風の少女
「逃げ道が……ない」
「まだ、あっちに逃げられるじゃない」
なんとか体を起こして少女を見上げる。隣に立つ彼女は埠頭の先を見上げてそう言った。その視線の先には無数の浮遊遺跡群の影が浮かんでいる。
「そう、だな……」
そうだ。彼女だけなら、まだ逃げられる。右足を引きずり、痛みに顔を歪めて立ち上がる。
殴打した部分に手をやり、具合を確かめる。落ちたときに強かに打ったらしい腰骨が激しく痛む。足はがくがくして少し感覚がない。
止血する暇もなくズボンは真っ赤に染まり、見た目にもかなりまずい感じだ。
俺は目を閉じ、そして開く。ここまで……か。
「俺がちょっとでも……時間を稼ぐから。君は早く行って」
「どうして!? 一緒に……!」
彼女は困惑したように声を上げる。
「無理だよ。俺、飛べないから。……これ以上は、どこにも行けない」
この世界にはごく稀に、まったく飛ぶことのできない人間、つまり「空の加護」によりもたらされる飛力を持たない者が存在する。
そんな世界の祝福を受け取り損ねた出来損ないは、侮蔑を込めて「ドドーリア」と呼ばれ忌み嫌われる。俺のことだ。
「それに……この怪我じゃ一緒に逃げても、君の足手まといにしか、ならない……よ」
もう自分でわかってしまっている。これ以上逃げる力が残っていないことに。すぐにでも奴は遺跡を破壊してここまで追いついてくるだろう。
俺にできることは、空輪機を引き起こして怪物に突っ込むことくらいだろうか。
「俺は、道を違えてた。でも君のこと、助けられるなら……、きっとそれは意味のあること、だったんだ」
もう、少女を助けようと暴力の渦中へ飛び込んだ自分の行動は否定しない。そうだ、これでいい。俺の犠牲で彼女が救われるなら、多分俺の選択に間違いはないのだ。……頼むから、そう思わせてくれ。
そうやって自分に言い聞かせて、俺自身を納得させようとする。
「よくわからないかもしれないけど……、俺は君に生きて欲しい。だから頼むよ、あいつがこっちへ来る前に、俺を置いて逃げてくれ」
彼女の目を正面から覗き込み懇願する。少女は俺の言葉を聞いて困惑と悲しみをその顔に浮かべ、表情を曇らせる。
何を思っているのか、しかしすぐに口を引き結んでしかと俺を見返した。
「だめだよ、そんなの……。お願い。私と一緒に来て」
俺は項垂れた。できることならそうしたいさ。彼女を追い立てようと、俺は再び顔を上げる。
辺りは空の境界を除いて濃紺の夜の闇に沈みつつある。最後に残された陽の光の中、彼女はその燃え立つような光の残滓を背に立っていた。
少女は俺に白い手のひらを差し伸べる。
彼女に俺を見捨てるつもりはないのか。俺の後ろ向きな覚悟など意に介さない、強い意思を感じたような気がした。
背後で派手な衝撃音が轟き、怪物が遺跡の壁を崩してついにこちら側へ抜け出てきた。
「大丈夫」
気がつくと、俺は意識もせずに彼女の差し出す手を取ってしまっていた。抗い難い、何かとても強い力が俺の背中を押したかのように。
「私に合わせて」
少女の言葉には不思議な力がある。彼女が俺の隣に並ぶ。左手は彼女の右手に握られたままだ。
さっきもそうだったけど、この子に触れられていると何か暖かいものが体に流れ込んでくるように感じる。痛みはやわらぎ、意識ははっきりとしてくる。
二人並んで空に浮かぶ遺跡群を見上げる。それ以外に視界に入るものは空と雲のみ。高い場所は苦手だ。こんな風に空を覗き込むのは怖いけど、不思議と今は体の震えは起きなかった。この小さな手から伝わる温かさ、安心感が俺を支えてくれているのか。
「――――――行くよ」
少女と共に一歩踏み出す。そこはもう埠頭の端だ。これより先には紺碧と茜色の混じり合う虚空しか存在しない。その踏み出した足で、少女は空を蹴った。
不思議な感覚だった。力強く地面を蹴ったわけでもないのに、少女の体はふわっと下から風を受けるように浮かび上がった。スカートが大きく翻る。
彼女に手を引かれるように、俺の足も地面を離れた。まるで下から吹き上げる風によって持ち上げられるように、いつだってこの重たい身体に付きまとっていた体重が、すっかり消えて無くなってしまったかのようにとても軽い。
俺は少女に手を引かれたまま、ぐんぐんと上昇していく。呆気にとられて彼女を見ると、彼女も俺を振り返ってにっこりと微笑んだ。
耳元でひゅうひゅうと風がなり、ばたばたと服が風を受けてはためく。
埠頭の突端からあっという間に舞い上がると、俺たちはそこら中が崩落した遺跡の残骸の上に降り立った。さらに続けて飛び、上空に見える一際巨大な廃墟遺跡を目指す。
「すっげえ……」
羽が生えたように体が軽い。俺は自分の体質を呪う。
この現象はこの少女が起こしているのか。彼女が飛ぶことができるというのはわかる。だけど、どうして俺までこんなに体が軽いんだ? 普通のエアルの女の子が人一人持ち上げてこんなに高く飛ぶなんて不可能だし、そんな力が彼女にあるとは思えない。並外れた飛力だけでは説明がつかないと感じる。
いくつかの遺跡残骸を飛び移って、一際高く跳躍した俺たちは遺跡から長く突き出たエントランスに降り立った。着地にほとんど衝撃はなく、柔らかい絨毯の上に降りたような感触だ。
振り返り、渡って来た遺跡を見下ろす。予想はしていたけど、やはりあいつからは簡単に逃げられはしないようだ。
雄牛頭の怪物は廃墟街の塀の外で見せた跳躍力でもって遺跡の残骸に飛びつき、追ってきている。
俺達への追撃の手を緩める気配は感じられない。すぐにでもここまで飛び移ってきそうだ。
「だめか……、くそ、どうすればいい……」
遺跡の方を見ると、崩れかけた橋が一直線に遺跡の本殿へと続いている。外観からはなんの施設だったのかはわからないが、この辺りでは一際大きな建造物だ。
周辺にもいくつか、この巨大な本殿と同じ形をした建物の残骸が浮遊しているのが見える。寺院の類かもしれない。
「このままじゃ追いつかれる。進もう!」
少女が頷き返す。彼女の手を取ったまま走り出した。不思議だ。こうして彼女に触れていると傷の痛みが気にならなくなって、走る事さえもできるようになっている。
ところどころが崩れ、崩落した橋は頼りない。額に汗して二人で遺跡に向かって走った。
背後で鳴り響く音に振り返ると、怪物が橋に到達し、六本の脚を忙しなく動かし這いつくばるように橋を破壊しながら突進してくる。
痛みを堪え、死にもの狂いで遺跡のエントランスまで走りきり、内部へと走り込む。
薄暗い遺跡の中は吹き抜けになっていて、崩落した天井付近まで何層もの環状通路が内壁に巡らされていた。
中央にはそれなりの大きさの像が台座に乗せて安置されていたようだが、崩落の犠牲になったのか半分以上崩れて原型はわからない。
内部を素早く見渡す。左右に通路。階段か? どちらへ逃げる。
「上へ!」
怪物は既にエントランスに達している。彼女頼みになるが、張り巡らされた回廊を足がかりに上に逃げよう。
少女が遺跡の床を蹴って浮上しようとしたとき、横目で見ていた怪物がほぼ同時に跳躍するのを見た。
足が床を離れ、浮き上がろうとしたその時――――、撃ち出された砲弾のように怪物の黒い眼窩が目前に迫った。
咄嗟に握っていた少女の手を離す。彼女は俺の重みから解放されて即座に浮かび上がり、驚いた顔で俺を見た。橙色の長い髪が靡いて揺れる。
爆音と激しい振動を巻き起こして怪物は俺たちのいた場所に落下してきた。手を離したお陰で、少女は飛び上がり俺もなんとか横っ飛びに奴を避けることができた。間一髪だ。
起き上がると、振動と細かな瓦礫の落下する音が床を伝わってくる。
床の石材が隆起し、亀裂が入る。遺跡中に響き渡るような轟音を立てて地面が、立っていた床が沈む。そのまま足場を失って、遺跡の床と共に俺は落下した。
「うっ、わああああぁぁーーーー!!!!」
脆くなっていた床が、怪物の衝突の加重に耐えきれず崩落した。前も後ろも、前後左右もわからずただ落ちるに任せるしかなかった。
体を打ち、転がってさらに落ちる。崩落が止まり、自分がまだ生きていることを確かめた時には全身傷だらけになっていた。
「ぐ、あ……」
少女と手を離してから、だるさと傷の痛みが増していた。加えてさらに打撲やら擦り傷やら、まだ生きているのが不思議なくらいだ。
幸いなことに、手足がちぎれ飛んでいたり腹に穴が空いたということはない。
土埃が舞い立つ中、体を仰向ける。微かに天井に空いた穴が見える。それなりに落ちたようだけど、物に当たりながら段々に落ちたことで致命傷は避けられたらしい。すぐ近くに怪物の気配は感じない。
最早靴まで真っ赤に染まった足を見下ろす。シャツの袖を思い切り引っ張って破く。
正確な止血法なんてわからない。だけどこのまま傷を放置することはできない。
できるだけ迅速に、破いた袖を足首と太腿に巻きつける。縛って圧迫する瞬間は針を刺すようで、思わず涙が滲む。
「クソッ、痛えぇ……」
腰も、左手も痛み、全身が痛みできりきりする。それでも行かなければ。
屈んでから立ち上がり、崩落した床の上方を見上げる。断続的に音がして、回廊を飛び移る影が見える。少女が怪物から逃げ回っているようだ。
ふと、すぐそばにある折れた柱のようなものに目が引き寄せられる。崩落に巻き込まれて元の形はわからないが、掘られた複雑な装飾から祭壇のようにも見える。
「これは」
折れた柱の断面上に金属質の物体が載っているのが目に入る。それはここにあるのが場違いに思えるような美しい装飾のある白と銀の金属塊で、緻密な彫り物が施された取っ手に、細く伸びた筒のようなものが載っていた。
それはコンパクトな短杖のように見えた。