第4話 悪夢
夕闇の空沿いに空輪機を走らせていると廃墟街が見えてきた。
今は使われなくなり、崩落の危険と老朽化が進んでいる地区だ。夕日を浴びて崩れた廃墟街は寂しい風景でありながらつい目を引かれる。
間橋から配達局に戻る時は近道にここを通るからもう馴染みの光景だった。
再開発の目処も立っていないようだし、ガラの悪い連中が住み着くという噂もあるからあまり近づくべきではないんだけれど。
一瞬建物の合間、動く何かが視界に映った。この辺りは普段から人気がない。子供でも迷い込んだのか。
気になった俺は速度を落として空輪機を停めると、降りて人影を見た場所へ戻った。
ただ人影を見かけただけなら俺は通り過ぎただろう。
一瞬目に映ったのが明るい橙色に見えたことが気になった。
人影を見た箇所に目星をつけ、崩れた塀の内側を覗き込む。さらに廃墟街へと踏み入る。
瓦礫の隙間を抜けていくと話し声が聞こえてきた。建物の影から少し顔を出して様子を探る。
いた。やっぱりあの子だ。もう一人は昼間の騒ぎを仲裁しに現れた若い男のように見える。
「……こんな寂しいところで何をやってる?」
あの二人は知り合いだったんだろうか。しかし特に親しげという雰囲気でもない。集中して耳を澄ませると会話の内容を聞くことができた。
「……つれないね。折角助けてあげたのにサ」
「いや!」
「もウ逃げられないけど」
こちらからは男の顔が見える。昼間はよくわからなかったが全体的にひょろりとして細い目をした薄気味悪い奴だ。
それより会話の内容だ。かなりまずい現場に遭遇してしまったような気がする。
「…………」
颯爽と出て行って、今度こそあの子を庇ってアイツを追い払う事ができれば。
そんな願望とは裏腹に、俺の足は地面に縫い留められたように竦んでいる。
市街へ戻って治安部隊を呼びに行くべきだ。でも人を呼んでくるのにどれだけの時間がかかる。もし間に合わなかったら……。
俺は自分の命を守るので精一杯なんだ。ここで一人出ていくなんて愚を犯すべきじゃない。
壁の向こうを覗くのを辞め、ところどころ漆喰の剥がれ崩れた壁に背をもたせかけた。
心を責め立てるように心臓の鼓動が煩い。気づかれないように一旦この場を立ち去るんだ。
——自分にとって本当に大切なことは、心で決めるべきですよ。
さっき師匠が呟いた言葉が思い出された。
あの子を助けたいと思うこの気持ちは、そんなに大事なものか。
……でも、この気持ちすら否定してしまったら俺はこの先何も変わらないんじゃないか。そんな恐怖に少しだけ身を震わせる。
そんな風に自分の心を押さえつけて、それでいいのか――――?
その時女の子が後ろを向いて駆け出した。男も彼女を追いかけようとする。少女が俺の隠れている壁の横を走り過ぎて行った。
続いて男が姿を現すと同時、俺はつい走り出していた。
「うらあああああああ!!」
自らを叱咤するために上げた声に男が気づいてこちらを振り返る。
その一瞬の隙を逃さないように俺は地面を蹴った。
「ぐ……おおおおおっ?!」
体全体で飛び上がり、がむしゃらに繰り出した俺のドロップキックはしかし男の胴体に運良くクリーンヒットした。男は吹っ飛び、道端の瓦礫に突っ込んだ。土ぼこりが朦々と吹き上がる。
着地を考えない大技のせいで、俺も地面に落下して苦痛に悶えた。
やっちまった……。逃げ出す少女の後ろ姿を見て、衝動のままに駆け出してしまった。
痛みを堪えて起き上がろうとするとこちらを窺う少女の姿があった。不安げな表情を浮かべている。
「逃げろ!! 早くっ!」
驚いた表情の彼女に怒鳴る。現状を把握できなくてもいい。とにかくすぐにこの場から離れてくれ。
少女が俺を見る。強く見つめ返すと、彼女はすぐに背を向けて駆け出していった。俺にしては上出来だ。
俺も直ぐに体勢を整えて立ち上がった。目的は果たしたし、男が復帰してくる前に一刻も早くおさらばしよう。だが意に反して足は動かなかった。
足首の辺りにヒヤリとした感覚が、と思った直後、激痛が足を駆け上って来る。
「う、がああああっ!!?」
感じたことのない種類の痛みだった。痛いなんてものじゃない。
せいぜい擦り傷や切り傷、殴打程度しか経験したことがなかった俺は、思わず叫んでその場に蹲った。
足から体を駆け巡った激痛は口から声になって漏れ出る。
熱のような痛みを感じる。足が灼けつく。体をよじって見上げると目の前に男が立っていた。
男は屈み込むと、俺の足へと手を伸ばし、そこに突き刺さっていたものを引き抜いた。再び引き裂かれるような痛みが走る。
呻きによって痛みを意識から逸らそうと虚しい抵抗を試みる。
ドッと汗が出て悪寒が全身を駆け巡る。男は手にした凶器をちらと検分して俺を見下ろした。
「おヤおヤ正義の味方か? 痛ぇだろ」
感情の見えない声で男が言い、笑う。
――怖えぇ。男の立ち居振る舞いはこういう状況に慣れていることを感じさせた。
その時廃墟から男の仲間と思しき連中が出てきた。二人組だ。
顔の大部分は頭巾のような布で覆われている。しかし布の隙間から覗く目はどれも血のように赤みを帯びていた。
少女のように明るい薄紅色ではなく沈んだ暗い赤。連中の一人が口を開く。
「おい、女じゃねえのか。なんだぁそいつ」
「このバカのせいデ女は逃げた」
「はあ? 面倒くせえ。ちゃんと始末しとけよ。女を追う」
二人の男達は踞る俺を一瞥すると、興味もなさそうに素早く去っていった。
「ユ、ユリクセス……?!」
「あァそうだ。よク知ってるな」
仲間。組織的な犯行。男は一人じゃない。しかもユリクセスの集団。
奴らはスカイフォールの北方に位置する大国、アプテノン・デイテスに住んでいるとされる人種だ。見るのは初めてだけど噂はよく聞いた。
人の血を啜るとか、年を取らないとか、いずれにしてもロクな話は聞かない。
頬を流れ落ちる冷や汗が増す。もしかして昼間の騒ぎもグルか?
くそ、仲間がいるかもしれないなんて予想できたはずなのに。これじゃあの子はまた捕まってしまう。
……無謀だった。俺が人を救うなんて思い上がりも甚だしい。
男は俺の前にしゃがみ込むと、予告なく今度は太股にナイフを突き刺した。
再度の激痛。肉を引き裂かれる痛みに頭が真っ白になり、声にならない悲鳴が口から漏れる。痛みに思考が塗りつぶされていく。
痛い。痛い。痛い。
「ぁ……」
「女は逃サない。そシてお前は死ぬ」
「あ、う……」
「もウ声も出ないか」
男の歪な笑顔が目の前にある。何を言われたのかよくわからなかった。
意識を繋ぐのだけで精一杯だ。狂気と暴力の気配を肌で感じる。
男が振り上げた大ぶりなナイフを、痛みで虚ろになった目で見上げる。涙でぼやけた視界、刃に夕陽が反射しているのが映る。
血のような赤、ひどく不吉な色。
俺、死ぬのか。
「じゃアな」
その後起きた出来事を俺はすぐに理解することはできなかった。俺は突然地面に倒れたまま、爆音と地を伝わる激しい振動に襲われた。
空気が震えるのを肌で感じ、その衝撃で少し体が浮く。何か巨大な質量のあるものが落ちてきたのだと混濁した意識で認識する。何が起きたかと首を巡らす。
目の前の男と目が合う。しかしそこにあの歪んだ笑顔はなかった。
虚を突かれたように、赤い瞳を見開いた男の顔があった。何が起きたかわからない。そんな表情。
「ごフ」
男が口から赤黒い血飛沫を吹き出す。それは俺の頬にもかかり、鮮血が口の端から溢れぼたぼたと地面に滴り落ちる。
男の顔から胴体に目を移すと、巨大な鉄の柱が膝をついた男の腹から突き出していた。
その柱は男の背中に突き刺さり、腹を貫通して地面に突き立っている。
俺たちのすぐ直上に何かが落下してきた。それが男に直撃して胴体を刺し貫いたのだ。
俺は今度は顔を上げ、上を見上げる。落ちてきた何かが動き出した。
目の前で血を吹いた男が鉄の柱ごと持ち上がり——ぶうんと風を切る音とともに男は吹き飛んでいった。廃墟の壁に激突し、崩れた壁とともにその後ろへ落ちる。
あの勢いでは多分、無事では済まない。
「————は」
とりわけ目立つのは捻くれた二本の大角。根元から上方に湾曲して生え、左右に長く突き出している。前後に長い動物のような頭部は、草原で草を食むアリュプを思わせる。
怪物。
俺は驚愕し、恐怖で固まった。ここは王都だ。モンスターなんて一匹たりとも生息していない。
しかも、その二本角の怪物はおよそモンスターには見えないなんとも不気味な姿をしていた。
頭は雄牛のようだが、胴体は太い脊柱と、そこから肋骨のようなものが何本も生えているだけのがらんどう。六本足で、全体的に骸骨を思わせるような奇怪な姿。
何よりそいつからは生気が感じられなかった。生き物でなく刻印機械であると言われた方が納得しただろう。
その骸のような見た目からは、生者とも死者ともとれぬ禍々しさを感じた。
逃げ出すタイミングを逸した俺は今度は逆に動けなくなった。動いたらあの男のように八つ裂きにされる。
すでに血の気の引いた頬を汗が伝うが、指一本も動かせない。
首を傾げて骸の怪物が動き出す。そいつは脆い廃墟街の石畳に細い足をめり込ませながら俺の頭上から退いた。
「なんだこいつぁ! げっ、くっ、来るな!」
「ああ……あ゛あ゛あ゛あ゛っ゛!!」
廃墟街に男の叫び声が響き渡った。
倒れたまま、はっとして首を回し怪物の姿を追う。
化け物は、戻ってきた先ほどの二人連れ頭巾男の片割れの胴体を掴んで持ち上げていた。一人は既に怪物に前足で胸を貫かれ死体となりかけている。
前足を振って串刺した男を払いのけると、奴は脚で頭巾男の肩から上と下半身を包み込むように掴んだ。
男はもがいて抵抗するが、むなしい抵抗は徒労に終わる。
恐怖と苦痛に支配された絶叫と共に、およそ人体が立てるべきではない音を立てながら、怪物が男を生きたまま前足で捻る。
肉が裂け、ちぎれ、血と骨が飛び散り、あっという間にそれは赤黒い血にまみれた肉塊へと変わる。それは既に人だったものだ。
「あ……あ、う、げっ」
見開いた目に映った凄惨な処刑の有様に、傷の激しい痛みすらもう意識の内にはない。血の気の失せた頬を冷や汗と涙が伝った。
そして怪物はこちらを振り返った。