第30話 光の港
「フウカ、迷宮に興味あるのか?」
彼女は返事をしない。迷宮に見入っているようだ。
「おーい、フウカー?」
「……あ、うん。どうしたの?」
「迷宮に興味あるのかなって」
「よく分からないけど、なんだか気になっちゃって」
「ふーん」
迷宮の話は俺もよく聞いた。東部には「翠樹の迷宮」と呼ばれる途方もなく高い塔がある。イストミルで二番目の広大さを誇る大地、システィコオラ大陸の最上層に聳え立つ古代遺跡だ。
「ところであなた達の傷……、本当に治ってるの?」
「はい、フウカがすっかり元に戻してくれましたから」
「あはっ、あれくらい大したことないよー」
「ほとんど致命傷に見えたけど、とてつもない再生力ね……驚異的だわ。治癒、というより修復と言った方がそれらしいもの」
エレナはフウカの波導に興味があるらしい。薄青の瞳に好奇心の輝きが過るのを見たような気がする。
「フウカちゃんは何処かの術士協会に属しているの?」
「うーん、入ってないと思う」
「フウカちゃんを勧誘しようってかァ?」
「……ええ、その通り」
フウカの波導の力が並外れたものであることは流石の俺にも分かる。術士協会というのは常に優秀な人材を求めているものなんだろうか。
「情けないことだけど、うちの協会には治癒波導の使い手が少ないの。フウカちゃん。貴女の力があれば直ぐにでも協会の一員になれる。良ければ是非とも——」
フウカは困った表情を浮かべ、俺を見る。
術士は才能ある者にしか就く事のできない職だ。金に困るようなことはない。俺なんかといなくとも、フウカは自分だけで生活していくことができるだけの力を既に持っている。
しかし、この判断を彼女にさせるのは少し酷だろう。なにせフウカはほとんど記憶を失った状態だし、もしかしたら既に術士としてどこかで働いていた可能性だってあるのだ。
俺はフウカの事情について、エレナに正直に話した。
「誘ってくれて嬉しい……でも私、今はナトリと一緒にいる。だから、ごめんなさい」
エレナはとても申し訳なさそうにして逆に頭を下げた。
「……こちらこそごめんなさい。あなた達のこと、よく知りもせずに身勝手にこちらの事情を押し付けてしまった」
その後はエレナも加わって夕方まで街を回った。こんな風に友達と連れ立って遊び歩くような経験はなかったから、俺にとっては新鮮な体験だった。
「腹減ったわ。そろそろ晩飯行こうや」
「今度は何がいいかな」
「もうお腹が空きすぎて倒れそう」
「フウカちゃん、俺の記憶が正しけりゃ昼飯ナトリの二倍は食っとったようにみえたけどなァ……」
「私もご一緒していいかしら」
「おい優等生、お前いつまで付いてくんねん」
「あなた達のこと、もっとちゃんと知りたいもの。私が全額持つわ」
エレナが真面目な顔で宣言する。
「うおお、お前見かけによらず太っ腹やんけ」
「その代わりたっぷりとお話しましょう?」
「タダ飯食えるならなんでもええわ」
「本当にいいんですか?」
「ええ。ゲーティアーを倒したのはあなた達だもの。これくらいのお礼はさせて」
エレナは真面目そうな表情を少し和らげて優げに頷いた。もしかしたらさっきのフウカ勧誘の件を気にしているのだろうか?
「おっしゃ、優等生の奢りで旨いもん食い放題や。やったなフウカちゃん!」
「うん、楽しみだねっ!」
「覚悟しとけよー。この子めっちゃ食うで」
「そういえば、ガルガンティア様達は放っておいていいんですか?」
「会長は昨晩の疲労で宿でひっくり返ってるわ。煉気の使い過ぎね。モークをつけておけば大丈夫。だから私が買い出しに出ていたの」
ガルガンティアは船でかなり大規模な波導を使っていたようだったから、疲労で動けないのも仕方ないのだろう。ご高齢のようだし。
「会長のことなら心配いらないわ。老いてはいるけど一晩氷水に漬けても死なないくらいには丈夫なお方だから」
「そ、そうですか」
エレナはなんでもないように言ってのける。ガルガンティア協会って実は結構恐ろしい組織なんですか。
「上等な店入るでー!」
陽の落ちてきたオリジヴォーラの大通りには、ガラス細工の施された色とりどりのフィル灯が点灯し、左右に並ぶ店の明かりも大通りを華やかに照らし始める。
多くの古い建物が混ざる街並みの雑踏は陽が落ちてなお活気に満ちている。
「わあ、きれい。ガラスがキラキラしてるよ」
「ここは夜が本番やからな。これが光の港オリジヴォーラの真の姿や」
「夜に入港するときは遠くからも港の灯りが見えてすごくきれいなの」
オリジヴォーラは人の行き来が多いせいか工芸品がよく売れるのだろう。ここの精巧なガラス細工は有名で、街にガラス工房がいくつもあった。
俺たちは彩り豊かな通りを見回しながら進む。やがて落ち着いた瀟洒な雰囲気のレストランを見つけてそこに入った。
その店は高級マムー肉料理の店で、供される料理は大変美味しかった。
クレッカにはこんな店はないし、中央でも特に贅沢した経験のない俺は、ここまで美味い肉を食ったのは生まれて初めてだった。高級肉は口のなかでとろけるようにふわりとした食感だ。
「うおお、至高の肉や!」
「美味しい! 美味しすぎていくらでも食べられちゃいそう!」
「うん、マムー肉なんていつ以来かな。これは感動だよ」
落ち着いた店内で騒々しく肉を啄む二人を見ながら、俺とエレナさんは静かに美味しく料理をいただいた。
「君達って仲がいいのね。お互いのことよく分かっているみたい」
「クレイルとは昨日知り合ったばかりですけどね」
「あの絶望的な状況を一緒に切り抜けたんだもの。意気投合もするわね」
「ありゃ正直ダメかと思ったわ……ホンマ」
「それにしてもあなた達は変わってるわ。フウカちゃんの力にしても、ナトリ君の武器にしても」
エレナは俺とフウカの事について聞きたがったので、出会った経緯から話して聞かせた。
「フウカは自分がどこの出身で、以前はどんな暮らしをしていたのかも憶えていない。わかってるのは家名だけで」
「残念だけどソライドという名に聞き憶えはないわね。その歳でその力量の術士ならば名が売れていてもおかしくないはずなのに」
それは王都でも疑問に思っていた点の一つだ。フウカの存在はかなり目立つ方だと思うが、彼女に関する噂というものを全く耳にしなかった。やはり王都出身ではないのだろうか?
「考えたとこでわからんわな。だから探しとんのやろ?」
「うん」
「それでナトリ君はフウカちゃんの側にいてあげているのね。仕事を辞めてまで……。なかなかできる事じゃない。彼女があなたに信頼を置くのもわかる気がするわ」
俺はごく普通の、いや、明らかに普通以下の一市民に過ぎない。失敗続きだけど普通に王都で仕事をして、普通の生活を送っていた。
だがフウカと出会い、あの廃墟街で彼女を助けに飛び込んだときから、俺は日常は激変した。
以前の生活では様々なものが色彩を欠いたように灰色に見えたものだった。
起伏を失い、どこまでも平坦で退屈で、パッとしない。俺はそんな何もかもから無意識のうちに逃れたいと、そう思っていたのだろうか。
何れにせよ、今はフウカといたいと思う。
「約束したからね。家が見つかるまで一人にはしないって。な、フウカ」
「んむ? にゃに?」
「口の中に食べ物入れすぎだよ。無理に喋んなくていいから」
「ひゃい」
余所事に夢中であまり話を聞いてないのはいつものことだからいいけど、フウカにはお行儀の悪い女性に育ってほしくない。こういうところはちゃんと教育していかないとな。それにしても今日フウカは昼間から肉ばかり食っている気がする。
俺たちのやりとりを見てエレナがくすりと笑った。
「まるで兄弟みたいね」
「全然似とらんがな」
「見た目の話じゃないわ」
「いやわかっとるから」
料理を堪能した俺たちは腹が落ち着いたところで店を出た。宣言通り全員分の勘定を持ったエレナに礼を言う。俺は少し遠慮してそこそこのものを注文したけど、二人は結構な量を平らげていた。
案の定エレナは会計の時、金額を聞いて一瞬固まっていた。彼女の懐が心配になる。
会長のために湿布を買って帰るというエレナと、これから列車に乗車するクレイルとは通りで別れることになった。
「じゃあな二人とも。お前らのお陰で退屈な船旅が結構楽しめたわ。プリヴェーラに来たらウチにも寄ってくれや」
「おう。必ず行くよ」
「またねークレイル」
クレイルの姿を見送ると、エレナが真面目な顔をして俺とフウカに向き合う。
「昼間はごめんなさいね。フウカちゃんの事情も、あなたたちの関係も知らずに勝手を言って」
「あまり気にしないでくださいよ」
「あなた達とちゃんと話すことができてよかった。またプリヴェーラで会ったらその時はよろしくね」
「はい」
クレイルとエレナはそれぞれの目的地へと去って言った。俺たちも宿を借りよう。明日の出発は朝だし、今日は早めに休むべきだろう。
安宿で二人用の空室を確保した俺達は部屋に入ると二つあるベッドに倒れこんだ。
最初は別々にしようとしたのだが、フウカが同じでいいと言うので一部屋にした。謝礼はあるが、手持ちに余裕があるとは言えない状況だ。正直ありがたい。
怪我はほとんどフウカとエレナの波導によって治っている。いま体に残っているのは今日歩き回った心地よい疲労くらいだ。
「ナトリ」
「ん?」
うつ伏せ状態から左を向くとベッド脇にフウカが立っている。
「どうした?」
「こっちで寝てもいい?」
「ああ、うん。俺があっちで寝ようか」
寝台の上に体を起こすと、フウカに止められた。
「ううん、今日はナトリと一緒がいい」
「ええっ?」
思わずびくりとしてしまった。フウカがこんなことを言い出すとは。同じ部屋で寝起きするのは最早普通になってしまっているけど、さすがに同じ寝床で寝てはいない。
「構わないけど……」
そう言うとフウカは嬉しそうに俺の前に立ったまま上着を脱ぎ始めた。俺は慌てて反対向きになって寝転がる。衣摺れの音のあと、寝台が軋んで隣に彼女が横になる感覚があった。
そのままフウカは俺の背中に体を沿わせるようにくっつけてきた。首の根元に鼻や口が、背中と足に手足の触れる感覚がある。暖かい。そして近い。
無自覚にやっているんだろうか。もしかして、フウカは俺のことを……。
姉がいるので女性と触れ合う機会自体はあったが、それでも恋人などできたこともない。こんなに密着されると、俺の中の男が騒ぎ始めるのは当然だった。
「私、あの時死んじゃうんだって思った。でもナトリが励まして、助けに来てくれた。すごく嬉しかった。負けちゃだめだ、って思えたの」
すぐ後ろでフウカが囁く。
頭を振って邪念を払い、目を閉じる。
俺たちの関係はまだ日が浅いものだけど、いい信頼関係を築いていけてる気がする。
俺はもっとちゃんと彼女のことについて知っていきたい。
「明日も早いし、もう寝よう」
「おやすみ、ナトリ」
人の温もりに触れるのは暖かく、心地が良い。心が安らぎ、緊張の糸が解けていくようだ。
フウカもそう感じてくれているだろうか。その夜はお互いの存在をとても近くに感じながら静かに眠った。