第297話 不諦の心
「——ナトリくん、ナトリくんっ!!!」
マモンに殴り飛ばされた俺を追って来たリッカが駆け寄り、側に蹲る。
「随分飛んだな。しかもまだ生きてるのか。なぁその武器、お前殺せば僕のモノになるか?」
突然の声。ぶらりと散歩するかのように、至近距離に姿を現した筋骨隆々の巨体を見上げ、リッカが息を飲む。
「ナトリくんは、殺させない。私が、守る……」
「————おい、聞いてるんだろ、メディ」
「……?」
「全く情けない。イリスの"七耀"ともあろう者が、こんなゴミ虫の中に閉じ込められてるなんてさ……」
「なんの、こと……?」
マモンは俺達を見下ろしながら、黒々とした顔に浮かぶ大きな口をニイと歪める。
「お前の中にいるアスモデウスのことだよ。あのガキの記憶喰ったからわかる。わざわざダンマリ決め込んでるってことは、僕に“奪われ”ても文句ないんだよなぁ?」
マモンが突如として素早い挙動で後退する。直後、奴の立っていた地点に黒い歪みが現れ、マモンの肉体を掠めた。
「おっと危ない。無詠唱であんな術を構築できるなんてたいしたモンだ。あたったらさすがにヤバかった。当たれば、だけどな」
リッカのせめてもの抵抗……、予備動作なし、無詠唱の黒波導は不発に終わった。
「ぐ……ぁ」
一歩踏み出すマモンに対し、杖を両手で握りしめて奴を見上げるリッカ。
それに対して俺は、身じろぎすることしかできない。
「闇夜を穿て、『黒蹄――!」
「遅っせぇなぁ」
「っ!!」
マモンはリッカの杖を払いのけ、同時に胴体を片手で掴む。彼女をそのまま自身の目の高さまで持ち上げていく。
『強欲の支配』
「ナトリ、くん……」
マモンが呟くのと同時、リッカの体はまるで全身の力が抜けたようにだらんと弛緩する。
「リッ、カ……っ!!」
くそ、くそ、畜生……! 動け、動けよ俺の体……ッ!
リッカが”奪われた”ことで、全身の血が湧きたつような怒りが体を駆け巡るが、歯を食いしばっても指先程度しか動かすことは叶わない。
それどころか、目の前が既にかすみ始めていた。
リッカ、リッカ……! こいつを絶対に許さない。
「……変、だな。ずっと僕の魔法を阻害してたこの刻印……、『盟約の印』っていうのか? 『簒奪者』でも奪えないぞ。こいつにこびりついたまま離れようとしない。それにメディの力も僕に移らないのかよ。とんだ期待はずれだな————おっと」
何か納得できないような顔でぶつぶつと独り言ちていたマモンは、突如放たれた蒼炎の火球を避け、再び切り返してきた火球を拳による打撃で打ち消す。
「そういえばまだ面白そうなのが残ってたっけ」
マモンはリッカを俺の側に放ると、体から蒼炎を立ち上らせるクレイルに向けて歩き出した。
「蒼炎よ、我が僕となりてその真象を現せ。『真経津陽炎』」
マモンを取り囲むようにしてぐるりと蒼い火球が順に灯り、それぞれがクレイル自身の姿形をとる。
「まったく面白いなァ。お前達の力は。楽しませてくれる」
クレイルはマモンの目から視線を逸らすことなく砂丘を踏みしめる。
彼の怒りがそうさせるのか、体から燃え立つ蒼炎はかつてないほどの勢いを見せ、クレイルの周囲の空気が熱で歪んだように揺らめく。
「……ニムエはテメーのコアを削った。なら、俺にだってやれへんことたァない」
コキ、コキッと小気味よい音を鳴らして首を左右に傾けながら、漆黒の肉体を維持するマモンがクレイルを見下ろしながら醜悪な笑みを浮かべる。
「思いあがってんじゃねぇよ。トリ公」
マモンを取り囲んでいたクレイルの蒼炎分身が、完全にコントロールされた動きで一斉に斬り掛かる。
「クハハハハッ! 効くかよこんな子供騙し!」
「――ナトリ、リッカ、ちっとの辛抱だ。すぐにコイツを消し去ったる。ウラァ!!」
横倒しになり、血のにじむ視界の中激しく炎を散らせてやり合うクレイルとマモン。
すぐそばには意識を失くして転がるリッカ。アイツを倒す……、そうでなければ、リッカは。
アルベールも、マリアンヌも、みんな俺を守って厄災の攻撃を受けた。
無様に転がり死を待つ……、そんなこと、できるわけがないだろ……!
――それでも体は動かない。むしろ力は抜け落ちて、死が近寄ってくるのが感覚としてわかる。
頬に感じる砂の感触も、閃く蒼炎と火花も、次第に輪郭がぼやけ、遠ざかっていくようだ。
《無様なもんだ》
この声、聞き覚えがある。
《自分の声だ。忘れるわけないよな》
そうだ。確か王宮で一度"死んだ時"にも感じた。俺自身の、黯い意志……。どうして今、お前の声が聞こえる?
《お前が求めたからじゃないか》
俺が?
《後悔しただろ》
後悔……。
《ルーナリアに来なけりゃよかった。英雄なんて持て囃されて、体よく厄災の排除に利用されちまった。神サマの言う事なんざ、聞かなきゃよかった……。俺には重荷が過ぎる》
…………。
《折角フウカやリッカみたいな可愛い女の子達と出会えたんだ。どこか、戦いとは無縁の場所で穏やかに暮らしたい》
胸の内に響く、俺自身の黯い声を、俺は否定することができない。
《例え後数年だとしても、みっともなく足掻いて、今みたいに挙句ぶち殺されるよりいくらかマシじゃないか》
《誰も知らない、静かな場所で……、二人と平穏な日々を送りたかった》
《どうして俺が。もっと適役はいるだろう。それでもやるしかない……。みんなのために》
《なぁ、もういいだろ?》
何が?
《俺はよく頑張った。嫉妬の厄災レヴィアタンを倒せたのだって奇跡に近い。水龍ラグナ・アケルナルだって倒した。ここで諦めたところで、誰も俺を責めやしない》
《なぁ……、素直になれよ。解放しろ、"俺"を。これだけの力を得られたんだ。好きなように振る舞う権利くらいあって当然だ。お前には無理だが、"俺"にはそれができる。まだ死にたくないだろ》
死にたくは、ない。誰だって、死にたくは……。
そうすれば、俺は、リッカは、みんなは……。まだ生きられるか?
「マスター」
完全に意識がほどける寸前、リベルの声が聞こえたような気がした。
♢
フウカがリィロの元へ抜け殻のような状態となったアルベールを連れ帰り、再び戦場へ戻った時、戦況は大きく変化していた。
戻った場所で破壊され、機能を停止したニムエを見つけた彼女は、すぐに上空へ飛び立ち周囲の戦いの気配を探る。
そしてすぐに、砂漠に突如として形成された森林の外で、クレイルの波導の気配を感じ取る。
フウカは風波導を操り、出せる限りの速度で現場に駆けつけると、先ほどとは似ても似つかぬ醜悪な肉体となったマモンとクレイルの側に、倒れ臥すナトリとリッカの姿を見つけた。
「ナトリ! リッカ! そんなっ……!!」
「リッカはやられちまった……コイツに。ナトリもかなりやべえ」
フウカはすぐに二人の元へ降り立ち、治癒を試みようとする。
「治療なんかさせるかよ」
「っ?!」
予備動作を伴わぬ奇怪な動きで厄災マモンはフウカの前へと瞬時に移動し、妨害のために金色に染まった拳を振り下ろす。それに対しフウカは咄嗟に障壁を発動させるが――。
「ああっ!!」
下級の防性波導術ではその勢いを殺しきれるはずもなく、拳に伴う衝撃波に体を打たれたフウカは吹き飛ばされ地面を転がる。
「テメーの相手は俺だ、この筋肉ダルマ!」
クレイルの分身がタイミングを合わせて左右から斬り掛かるのを、マモンは『強欲の両腕』で弾き返し、後方からの突きに対しては対処せず、と思いきや――。
『崩震靠』
繰り出された鬼断の切っ先に躊躇う事なく、逆に背中を使った体当たりを繰り出す。
エリアルアーツの技術の一つである震気功、その奥義『崩震靠』は、全身の筋肉を使い自身の背面を打ち当てることにより、生身でありながら鉄をも砕く衝撃波を放つ。
『簒奪者』によって奪われた過去の武術に長けた達人達の肉体、それを無節操に再生して作り上げた巨躯から放たれる技の威力は、想像を絶する。
突きを打ち出したクレイルは逆にカウンターを受け、腕ごと大きく弾かれ後方へ吹っ飛ぶ。
「実体のある火なんて珍しいよなァ。早く僕に使わせろ!」
「……生憎だが、コイツはリッカのと同じ印の力や。テメーにゃ永久に使えねェよ」
「はあぁ?! ざっけんなよカス! またそれか。ふざけやがって……」
身の丈2.5メイルを越える歪な肉体の頂点、アル=ジャザリの孫から奪った顔を醜悪に歪めながらマモンは怒りに狂う。
自らが得られると確信した物が得られないと分かった時、厄災マモンの強欲はその本分を発揮する。
「諦めるなんて、無理だよなァ……。欲しい、絶対に欲しい。欲しい欲しい欲しい……。喉から手が出る程に欲しい」
欲しい、欲しいと熱に浮かされ譫言のように呟くマモンに、再びクレイルは斬りかかる。
マモンはそれを巨体に見合わぬ俊敏な身のこなしで避けながらも、すでにその眼中にクレイルの姿はなかった。
「……そうか。簡単なことだ。元々神の力なら、神を殺して奪い取りゃあいいんだ」
「何を……」
そしてマモンは、先ほど”奪った”少女の記憶の中にあったナトリと神との関係に着目する。
「あのニンゲン、ナトリくん。スカイフォールの神に会ったんだったな? 居場所を知ってるはずです」
参照するリッカの記憶が混濁するのか、漆黒の巨漢がまるで少女のような奇妙な喋りを交えながら呟くさまは、不気味の一言に尽きる。
ナトリの記憶から神を見つけ出す可能性を見いだしたマモンは、拳を直に打ち込んでも尚、強欲の支配をレジストしたナトリを今度こそ奪うべく動き出した。
「ナトリは殺させない! あああああああっ!!」
マモンの魔法を阻止すべく、身を起こしたフウカが全速力で二人の間に割って入る。
「うっさいなぁ!」
フウカがその手に発現させた緋色に輝く波導の剣を振るうが、マモンはそれを羽虫を払うかのような手つきで粉砕してみせる。
「風よ! 『風刃旋空咲』!」
『熱掌破』
フウカの両手からマモンに向け、至近距離から強烈な竜巻状の風がを放たれる。
マモンはフウカのその術に対し、臆することなく正面から踏み込む。大きく引いた黄金の腕から撃ちだす、火の属性を帯びた掌底を打ち付けることによって風刃旋空咲を完全に相殺してみせる。
「ん?」
術を打ち破ったマモンだが、自身の肉体に感じる異常とその正体にすぐに気がついた。
「チッ、多重詠唱ってヤツか。小癪なマネを」
フウカは風刃旋空咲の裏詠唱として、相手の重力を増幅させる黒墜蹄を、風の波導に隠すように同時使用していた。風の波導は防がれたが、目に見えぬ黒波導は効力を及ぼし、厄災マモンの体の動きを鈍らせる。
「もっと……強く!!」
「ぬ……」
フウカの背に浮かぶセフィロトの翼、そして彼女の瞳の輝きが、緋色から鮮血のような真紅へとその色を変える。同時にマモンへかかる重力は倍増し、厄災ですら立っていられないほどの力がマモンをその場へと縛り付けた。
「……お、うっ?」
「クレイル!!」
真経津陽炎によって生み出された残る分身三体と同時に、超重力に体を折るマモンの胸に鬼断を突き入れる。
「ぐおあッ!」
「おおおおおおおおおおおッ!!!!」
クレイルの烈火の如き叫びに呼応し、剣を形作る炎がその勢いを増す。四方から厄災のコアに押し付けられた炎の温度が急激に上昇し、コア表面をチリチリと削り始める。
「屈しねェ意志の強さ。お前に教わったんだ、ぜ……ナトリよ」
「うっざいんだ、よォ!!」
身を捩り、強引に重力の縛めを解いたマモンの両腕がクレイルを襲う。二体の分身が打ち砕かれ、蒼炎へと還る。
「まだ……削りきれねえか」
「お前さァ、あのデカい犬っころを出すのに相当煉気使ったろ? いくら気力型っつっても、もう煉気ないんだろ!?」
マモンの指摘は概ね正しい。事実としてクレイルの煉気はこれ以上の波導行使が不可能なレベルまで使い果たされており、彼にとって真経津陽炎は、残る力全てを注ぎ込み分身に煉気を均等に配分する実質最後の攻撃であった。
「カッ、俺はまだ全ての力を出し切ってねェ」
「そんなハッタリは無意味だ。わかんだよ僕には――」
実際のところ立っているのがやっと。霞み始める視界の中、それでもクレイルは厄災を鋭い視線で睨み続ける。
「……俺の人生は、復讐が全てだ」
「あん?」
「……けどな。ナトリやフウカちゃんに出会って、それだけじゃねえってことにも気づいたぜ。————だからよ」
最後に残された分身と同時に、クレイルは炎刀『鬼断』を掲げ駆け出す。
「あいつらを殺させはしねェ。クソ筋肉ダルマ」
肉を穿つ重たい音が鳴り響き、二人のクレイルの胸の中央を強欲の両腕が突き抜ける。
分身は蒼炎へ還り、クレイル本体も砂の地面へ崩れ落ちる。既に呼吸は失われ、致命的な臓器が失われ、まるで冗談の如く胸に大きく空いた風穴から流れ出た血が周囲の砂へと静かに染み込んでいく。
「クレイル……っ?!」
それを見たフウカは、両目に涙粒を溢れさせ目の前の光景を受け入れまいと首を振る。
「ハァ……。やっぱこいつ自体は大したレア能力もねェか。つまらんわ」
「――あああああああああああっ!!!!」
瞬間、フウカの翼が輝き大量の光弾がマモンに向けて撃ち出された。
「おっと」
走り、飛び、曲芸のような身のこなしで真紅の弾幕を避けきった厄災は、黒波導の応用による瞬間移動によってフウカの背後へ回り込む。
「力の源、この翼か?」
怒りに染まるフウカは無動作のマモンの移動にも即座に反応し、振り向きざまに生成した深紅の波導剣を高速で薙ぎ払う。
瞬時に身をかがめて剣閃をやり過ごしたマモンに、鬼人の如き追撃が襲い掛かる。
真紅の翼からもたらされる無尽蔵の煉気により、常時高エネルギー弾、レーザーを放ちつつ、残像すら浮かぶほどの超高速機動で宙を舞いながら、マモンの肉体を過密な攻撃が抉り取る。
「これは……、さすがに反則、だろーがッ!」
人間の動きを超越したフウカに、さすがの厄災も焦りを隠せない。
肉体を消し飛ばされながら瞬時に超再生、攻撃の弾幕から辛うじてコアだけを守り、『豊穣』により生み出される植物群と黒流砂も使い攻撃を凌ぐ。
「いい加減に、しろッッ!!」
マモンは追随する弾幕に追われながら跳躍、虚空で大きく体を捻り全身の筋組織を用いて強烈な回し蹴りを放つ。
何もない場所で唐突な攻撃モーション、と思いきや、その姿は突如として掻き消える。
マモンの姿が消失するとほぼ同時、フウカの背後に漆黒の巨躯が出現する。既に振り抜かれた蹴りがコンマ数秒以下の時間を経て、彼女の背に浮かぶセフィロトの翼を打ち砕いた。
片翼が割れ砕け、細かい粒子となって風に消える。
「クレイルを……返してよッ!!」
「何言ってるの。あいつもう死んだけど」
続いて放たれたマモンの拳は、片方を粉砕され、出力不安定となった翼により展開された真紅の障壁を打ち砕き、フウカの体を襲う。
非常に軽い少女の体はきれいな放物線を描いて飛び、砂の地面に落下した。
「さて、神の居場所でも調べるか」
フウカに致命の一撃を見舞ったマモンは、既に虫の息となっているはずのナトリを振り返る。
「あ……?」
厄災マモンの視線の先、そこには。
全身におぞましく黒い影を纏わり付かせた少年が立ち上がっていた。




