第3話 夕暮れ
夕暮れに染まる王都の町並みを眺めながら浮遊する街区と街区を結ぶ間橋を空輪機に跨ってノロノロと走る。
なんとか配達物を配り終えて、晩飯にありつくため食べ物の販売車を目指していた。進行方向右手側には見渡す限りの雲原が広がり、その彼方に日は落ちつつある。
果てない雲の波間とそこに落ちる陰がとても幻想的な風景を作り出している。……景色に見とれて運転が疎かになるとまた事故を起こしてしまう。空輪機の出力を上げるとまだ俺には制御しきれないんだから。
荷車三台が並んで通れる幅のある、石造りの間橋の中ほどにはちょっとした円形の広場が造られている。
広場には一台の年季の入った人力移動販売車。車の上についた看板には、ピカピカ点滅するフィル灯で縁取られた古代文字だという店名が掲げられている。俺には何かの記号にしか見えないけど。
広場に空輪機を止め、勝手に動かないように固定状態でロックする。そして販売車に垂れたのれんをくぐった。
「あらー? ナトリちゃん!」
「二日ぶりですね、奥さん」
ふわりとした笑顔で元気よく声をかけてくれるのはアリスさんだ。いつものように師匠がいるかと思ったが、今日は妻のアリスさんが店に立っている。
モモフク師匠とアリスさん。彼らは移動式の料理店をやっているネコの夫婦だ。
ネコは頭の上の大きな耳、そしてしっぽが特徴的な種族。あのふわふわとしたしっぽに触らせてくれないかとずっと気になっている。
「仕事終わったところ?」
「うん。今日は赤ラーメンで」
「はいニャ!」
奥さんと雑談しながら料理を待っていると、まもなく目の前にどんぶりが置かれた。とても美味そうに熱々のスープが湯気を立てている。
「大盛りサービスだよ。お疲れでしょ? たくさん食べるといーニャ!」
「やった! ありがと奥さん!」
アリスさんは威勢よくニャッハッハと笑う。
このラーメン料理というものはこの街に来て初めて食べたのだが、一口目からその味の虜になってしまった。
変わった出汁の効いた濃厚なスープに細長い「麺」という穀物を生地にして薄く伸ばしたものを入れて食べるのだが、これが癖になる美味さだ。減った腹に染み渡る。
無言でがつがつと完食し、濃厚なスープを味わいながら飲み干す。しばらく味の余韻と満腹感に浸りながら奥さんと王都のグルメについて話をする。
師匠について訪ねると、休憩中でどうやら近くで釣りをしているらしい。礼をいってお代を払い外へ出る。
周りを見渡すと広場中央を横切る通りの向こう側、赤く染まりつつある空をバックに間橋の端に腰掛ける大きな影が見えた。
寄っていくとそれは案の定雲へ釣り糸を垂らすモモフク師匠だった。
「師匠、釣れますか」
アリスさんは俺たちエアルと大差のない標準的な背格好をしているけど、このモモフク氏の体格はネコの中でも一際巨大だ。
身長は2メールを優に超えて横幅もたっぷりある。全身はふかふかとした絨毯のような灰色の毛で覆われている。
この販売車を見つけてから、連日通っているうちに店主のモモフクさん達と交流するようになった。
彼は俺のような人間にも気兼ねなく声をかけてくれて、今では俺にとって人生における重要な示唆を与えてくれる、師匠と呼ぶべき存在となっていた。
「まあまあですにゃあ。フィルの流れからして今日はこんなもんでしょうな。お仕事、なかなか大変だったようですね」
「はい、今日も色々ありましたから」
師匠は垂らした釣り糸の先にある雲を糸のような目で見たまま珍しい形のパイプで煙草を吹かした。
長くて細いヒゲが時折ぴくぴくと動き、吐き出した煙が夕焼け空へと消えていく。
俺は師匠の隣に胡座を組んで腰を下ろし、腕をついて体をのけぞらせる。
彼方から吹き渡る微風が俺の前髪を揺らす。仕事終わりと食後の熱を持った体が心地よく冷えていく。この間橋からは街がよく見えた。
街に落ちつつある陰は日の当たる部分とのコントラストによりこの街の巨大さと複雑さを一層際立たせている。
栄光の都、王都エイヴス。浮遊建造物群の織り成す層が幾重にも重なり形成される街は7つにも分かれ、それらが雲間に浮かんでは消え、漂う様はいつ見ても圧倒される。
上下左右に広がる広大な街並みは、雲に覆われた巨大な街区のそのまた向こうに聳える、王宮オフィーリアまで全てを一望することはとても叶わない。
まるで少女の思い描く物語のように幻想的な風景。初めてこの街にやって来た時は街のスケールのでかさに衝撃を受けたものだ。
俺の暮らす五番街アレイルの家々は夜に備えて灯りを灯しつつある。
「エイヴスは巨大ですね。この風景を見ていると些細なことなどどうでもよくなってしまうかのようだ」
「初めて来た時は迷ったら一生家に帰れないんじゃないかって思いました」
「はっはっは」
時折、この都市の巨大さに飲まれて自らの存在が消えてしまいそうな錯覚に陥る。自分がちっぽけな存在と自覚させられるのだ。
だから強大なものに本能的な恐れを抱いてしまうんだろうか。
「師匠、俺はたまに迷います。この街に来たのは正しかったのか。地元でもっと別の、自分にもできるような仕事をしているべきだったんじゃないか、って……」
「後悔している?」
「そこまでは……。一人前になろうと足掻いてます」
「漫然とした不安、ですか。ナトリくんには何か夢はあるのですか?」
「うーん」
夢か。まだ幼い頃は色々あった気がする。男の子にありがちな、浮遊艇の船長になってスカイフォール中を旅するとか、波導術士になって悪党やモンスターをかっこよく倒すとか。
あまりにも現実感が乏しくて師匠に語るのは憚られた。
「王都で出世してお金を稼いで、故郷のおばさんや姉ちゃんに楽させたいです」
「立派な夢ですね」
ちっぽけだ、夢がないと言われるかと思ったが、師匠はそうは思わないみたいだ。
「まだ若いのに、しっかりと現実を見ている。生きていくのにとても大切なことです」
「俺にはそれくらいしかできませんよ。いや、それすらできるかどうか」
目を閉じ、昼間の少女を思い出す。
そう、俺には目標がある。この王都で身を立てて故郷にいる家族に恩返しするんだ。
そのために余計なことには首を突っ込まない。それでいい。……それでいい、のか?
目を開くとひゅうひゅうと風の音が鳴る。
師匠は特製パイプを口から離しふうっと白い煙を吐き出す。白煙はアレイルの街を超えて夜と夕の境界を風に乗って渡って行った。
「人生はままならないものです。私は後悔ばかりしている」
「そうなんですか?」
「ええ」
師匠は普段からのらりくらりとのんびり暮らしているように見えたからその言葉は少し以外だった。
「自分にとって本当に大切なことは、心で決めるべきですよ」
「心」
「それが正しいこととは限らない。しかし、そうでなければ悔やむことになる」
師匠の大きな頭についた耳は少し垂れている気がする。自分にとって本当に大切なもの、か。俺の大切なものってなんだろう。やっぱり家族かな……?
師匠の太く大きくふさふさとした尻尾が左右にフリフリと揺れた。
「ねえ師匠。しっぽ触らせてくれません?」
「ダメですにゃ」
師匠は元から笑っているような糸目をさらに弓なりに曲げてニッコリ笑った。