第253話 頼み
俺の目の前に立つ女性は、自らをサンドリア・アンティカーネンと名乗った。
思わず目を見開く。確かに容姿はフウカの言っていた特徴と一致しているようだが。
「どうしてこんなことを?」
「安全を期して、です。この図書館内には虚白と相干渉波を同時に行使しています。私が術を解けば、彼等はすぐにも正気を取り戻すでしょう」
「……追っ手に補足されないため?」
「そうです。しかし、あなたが私の虚白に完全に抵抗するとは思いませんでした」
彼女に俺を偽ろうという意思は感じられないが、これだけの波導術を行使する人物だ。まだ油断はできない。
とはいえ、彼女が本当にアンティカーネン教授であるのなら俺たちが探していた人物。
まさか向こうから接触してくるとは……。
「フィアーがあなたを追ってますよ」
「やはり……、あなたは私のことを知っているのですね。フィアーのことは把握しています。彼女があなた達をそれとなく監視していることも」
「監視?!」
「おそらく私があなた達――、フウカに接触してくると読んでいるのでしょう」
そのことを自覚して尚、俺に会いに来ている。この人はかなりの危険を覚悟してここにいるということか。
「あいつ、フィアーは何者なんですか」
「彼女は神兵です」
「やっぱり……!」
クレイルの直感はどうやら正しかったようだ。
そして、まず彼女には聞かねばならない事がある。
「教授、フウカの記憶を消したのはあなたなのか」
「…………」
彼女は口を噤み沈黙するが、顔には複雑な表情を浮かべていた。
「フウカの記憶を封じたのは、私で間違いありません」
「そして、二人で王宮から逃げ出そうとした」
「その通り。ですが私達にはエンゲルスの追手がかかった。私は咄嗟にフウカの記憶を封じ、あの子の身の安全を守ることしかできなかった……」
王宮でフィアーから聞いた話の通りだ。
「フウカはあなたに会いたがっていますよ」
「今会う事は、できません」
彼女は少しだけ目を伏せる。
「何故です」
「私がフウカに近づけばフィアーは間違いなく私の存在に気づく。そうなってはまずい。だからあなたに接触したのです」
「…………」
突然目の前に現れたフウカの育ての親、サンドリア・アンティカーネン。彼女の目的は一体なんだ?
「ランドウォーカー君。あなたに頼みたいことがあります」
「頼み?」
アンティカーネンは痛みをこらえるように僅かに表情を歪めると、呟く。
「エル・シャーデの元へ辿り着き、彼女を解放していただきたいのです」
「!」
「これはあなたにしか成し得ないこと」
「何故、俺がその人を解放しなくてはいけないんですか」
「スカイフォールを影の軍勢の魔の手から守るため。そして、それはフウカを守ることにも繋がるからです」
「フウカを……」
「世界に迫る脅威。それを退けるためにはエル・シャーデの解放が必要となる」
「俺にそれができると?」
「その通りです。厄災を滅ぼすことが可能な、あなたならば」
アンティカーネンはフードの奥、強い力を宿した瞳で俺を見つめた。
「あなたは、そのエル・シャーデっていう人の居場所を知ってるんですか」
「知っています。君にはそこに向かっていただきたい」
「一体どこへ?」
彼女は僅かに視線を上げると、遠くを見るように中空を睨む。
「エイヴス王国ファエトン空域。そこに浮かぶ迷宮、『虚構の迷宮アルカトラ』の最深部」
「迷宮……!」
そこなら知っている。アンフェール大学に在籍してからというもの、迷宮についても調べを進めてきた。中央国家エイヴス王国に属する迷宮だ。あの少女はそんな場所に封じられているというのか?
「何故、そんな場所にエル・シャーデがいると知ってるんです?」
「自分の目で確かめました」
「え?」
「迷宮アルカトラは――、かつてあの男の居城だった」
迷宮を居城としている者がいるなんて聞いた事も無い話だ。というか、そんなことが果たして可能なのか。
「かつて私は、フウカの父親であるレクザール・オライドスという男の元で働いていた」
「フウカの父親だって……?! その人は今どこに?」
「彼は既に死亡している」
「え……」
エイヴス王国の重鎮であったオライドス公は、病気により既に他界しているそうだ。
「ですが、彼ほどの男がそう易々と死ぬとは思えない。おそらくは姿を隠していると見るべきでしょう……」
「何のためにそんなことを」
「彼の野望のためです」
金持ちの考えることはいち平民である自分には到底理解できない。ましてや自分を死んだ事にしてまでやりたいことなんて、想像がつくはずが無い。
アンティカーネンの言葉が真実だとして、フウカの父親は一体何をやろうとしている?
「彼は己の野望のため、盟約の印を集めるでしょう」
「盟約の印って、なんであんなもの……って、待てよ、じゃあまさか」
「エンゲルスは、オライドスの配下なのです」
おそらくは魔女アガニィ。そしてクレイルが交戦した紫電のフュリオス。フィアー達エンゲルスのトップがフウカの父親?
「……ちょっと待った! エンゲルスがフウカの親父の手先だとして、彼女は一度あいつらに襲われてるんだぞ? どうしてそんなこと……」
「……それは」
言葉の先を続けるのを躊躇うように、アンティカーネンは唇を噛む。
「自分の娘を殺してもなんとも思わないような、冷血な男なのか?」
「…………」
「自分の野望のためならなんでもするクソ親父ってことか」
怒りが滲んだ声が静まり返った書棚の間に響く。俺の発言に対し、アンティカーネンは否定することなく床に目を落としている。
「反吐が出そうだ」
フウカを取り巻く複雑な事情に対し、正直なところあまり期待はしていなかった。だが、それでも。
唯一の肉親すら彼女の味方とは言えないなんて。あろうことか娘を利用しようとさえ考えている。フウカがこれを知ったら……。
あまりに救いの無い話だ。
「エル・シャーデを目指す以上、あなた達はエンゲルスとの対立を避けることはできないでしょう」
「俺達や、フウカの存在は、そのオライドスって奴の野望にとって邪魔なんですか」
「いいえ……。むしろ彼はあなた方を利用しようと考えるでしょう。勝手な願いだとは承知しています。それでも私はあの子を、フウカを守りたいのです」
懇願ともとれる、真剣な色を含んだ言葉は図書館の静寂の中に消えた。再び沈黙が俺たちの間に降りる。
アンティカーネンの言葉には確かに感情が籠っていた。それはグレイスおばさんが時折俺に掛けてくれたような、親が子のことを想う故に発される言葉の響きと似ているような気がした。
少なくともこの人はフウカのことを大切に想っているんじゃないか。
もしかしたらそれすら偽りで、俺たちを嵌めるための罠かもしれない。実は彼女はレクザールという男の指示で俺たちを誘き寄せようとしているのかもしれない。
どちらにせよ、いずれ俺たちは全ての迷宮に足を踏み入れるつもりでいるのだ。
それに、アンティカーネンの垣間見せたフウカへの想い。できればそれを信じたいと思う。
「わかりました。迷宮アルカトラを目指します」
「そうですか……。あなた方に頼ることしかできない私をお許しください」
「ですが、その前に俺たちは光輝の迷宮を攻略します」
狂暴化したディレーヌを救うのが先だ。光輝の迷宮は期間限定。放置すれば、ルーナリアの民の大半が強欲の芽に侵される可能性だってあるかもしれない。
「構いません。あなたたちのペースで歩まれるべきです」
彼女は異論はないといった真摯な様子でこちらを見る。
「フウカの実の父親、レクザールって男の目的は何なんです」
「彼の目的、それは、『スカイリア』をその手中に収める事」
それは一般的には創世神話の体系を指す言葉とされている。
神話の中に時折現れる単語だけど……その実態は霞のように掴めない。
「空の頂」だとか、「最も尊きもの」とか、とか非常に曖昧な表現で訳されているものだ。
多分神話を解読した人もよく分かってないんじゃないかと思う。
ダルクも少しだけそれについて語っていたはずだが、やっぱりよくわからない。
「スカイリアって一体何なんです?」
「全ての始まりであり、全ての終わり。私もその正体についてはレクザールから断片的に聞き及んだのみです。彼はスカイリアを手に入れ、世界を意のままにしようと考えている」
「…………」
あまりに野望のスケールがでかすぎて唖然としてしまう。
「到底信じられる話ではないでしょうが、真実です。レクザールはスカイリアを手にするため、全ての盟約の印をその手中に収めようとしている」
「一体なんのために……。スカイフォール全域を支配しようとでも考えてるのか」
「それはわかりません。きっと理由があるのでしょうが」
手に入れれば世界を変えられる。そんな突拍子もない話が本当にあるのか?
きっと王冠とか、古代兵器とかそんなレベルではない。そしてそんなものの奪い合いになれば、世界中が戦火に包まれることになるだろう。
もしかすると旧世紀にあったという世界大戦。その原因もそのスカイリアってやつなのか?
クレイルやリッカの持つ盟約の印が、世界の存亡に関わるようなとんでもない代物だとは……。
「教授、正直何が正しくて何が間違っているのか、俺にはわかりません。でも、これだけは聞いておきたい。あの子は、フウカは何者なんです?」
厄災や迷宮、エル・シャーデとすらなんらかの関係があり、才能に溢れていると言えば聞こえはいいが、どうにもフウカの持つ力は人の範疇を超えてすらいると感じられる。
「フウカは……、父であるレクザールによって生み出された、神兵の一人」
「――――」
言葉が出ない。
フウカがフィアーや、アガニィ達と同じ存在? 確かに彼女たちはフウカのことを――。
アンティカーネンの言葉は俺の頭をひどく混乱させた。
「私が言っているのは、世間を騒がせている犯罪組織エンゲルスのことではありません。私の言う神兵は、エイヴス王国で秘密裏に押し進められていた、『エンゲルス計画』によって生み出された特殊兵のこと」
フウカが特殊兵? 戦うために生まれただと?
「……フウカは少しずつ記憶を取り戻しています」
「そうですか……。あの子の記憶が元に戻った時、レクザールがどんな行動に出るかはわかりません」
「…………」
無くした記憶を取り戻すこと自体がリスクを伴うなんて。でも、それでもフウカは自らの記憶を巡る旅を諦めようとはしないだろう。
俺はレクザールから、エンゲルスからあの子を守る事ができるのか……。
俯いて思考をまとめようとしていると、アンティカーネンは周囲を気にする素振りを見せた。
「……少し時間をかけ過ぎたようです。もう行かなければ」
「もう……、行くんですか」
「はい。私と会った事、しばらくはあなたの胸だけに留めておいていただけませんか」
彼女と出会ったこと自体が他の者の口から漏れるのを恐れているのだろうか。
「……わかりました」
「あなたにはフウカのことを押し付けるような形になってしまい、大変申し訳なく思っています。随分と苦労をさせてしまっていますね」
「気にしないでくださいよ。あの子といるのは俺自身の選択です。後悔なんて、ありませんよ」
「あなたの境遇を思えば気にもします。……でも、その言葉を聞けて良かった。どうか、この先もフウカのことをよろしくお願いしますね。ランドウォーカー君」
「はい。わかってます」
アンティカーネンはそう言うと足早に廊下を去って行く。
俺はその後ろ姿に声をかけた。
「教授! 生きて、必ずフウカに会ってください」
「……必ず」
はたと立ち止まった彼女は、そう答えるとすぐに書棚の間に姿を消した。
教授が去ると、調べ物をしていた閲覧席まで戻り、椅子にどさりと腰を下ろす。
館内に作用していた彼女の波導はその効果を失ったらしく、周囲の学生達は夢から覚めたように周囲をきょろきょろと見渡すとすぐに自分の作業へと戻っていった。
呆然自失としていたことをほとんど気にかけていない風だ。
あの女性がフウカの親代わり、サンドリア・アンティカーネン。優しそうな人だった。
確固たる意志の元、己の使命を遂行するような怜悧さを持ちつつ、その冷たい印象を受けるはずの表情の影には、どこか柔和なものを感じずにはいられない。
フウカの素性について、正直どう考えればいいのかわからない。話を聞いた時の動揺はいまだに収まっていない。
神兵って、一体なんなんだよ……。
フウカは、フウカだ。笑顔の可愛い普通の女の子。エンゲルスの連中のような異常な性格をしているわけじゃない。
レクザールとかいう男が、フウカを戦いに利用しようとしてるなら、彼女をそんな奴の思い通りにさせてたまるか。
今後、エンゲルスの奴らには特に注意が必要だ。
そして、彼女の示したエル・シャーデの居場所。
話通りなら、そこがセフィロト領域にて俺に創造主を名乗ったリーシャという少女との”約束の場所”となる。
「『虚構の迷宮アルカトラ』……」
「……あるかとら」
腕を組み、一人呟いた囁きに対して返ってきた復唱に思わず飛び上がりそうになる。
驚愕のあまり首がねじ切れんばかりの勢いで振り向いた。
「!?」
目の前に巨大な塊があった。というかそれは、白い布地に包まれた肉の塊、豊満な胸だった。
見上げ、俺の背後に立っていた人物を確かめる。
ゆるくウェーブした桃色の鮮やかな髪をした女性。
眠たげに半ば閉じられた瞼に、少し開けられた口を包むぷっくりとした唇はえも言われぬ妖艶さを醸し出す。
校内で何度か見かけた、フィアーの取り巻きの一人だ。名は確かグルーミィ・アルストロメリア。
彼女が俺の背後に音も無く存在していた。
迫る胸の異様な圧迫感に、思わずたじろぐ。
「な、何か用……?」
グルーミィはじっと俺の目を見つめながらなおも呟く。
「……なにか……あった」
思わず目を見開きかけるが、務めて冷静に答える。
「なにかって?」
このグルーミィはフィアーの連れだ。アンティカーネンの言う事を信じるなら、彼女はエンゲルスの関係者である可能性が高い。
教授と接触したことがバレるのは不味い。
だが、このタイミングで俺に話しかけてくるってことは、勘づいているのでは……?
「…………」
グルーミィは黙したままその眠たげな視線を向けてくる。心の底を見透かされるような嫌な視線だ。
そんな膠着状態がしばらく続いた後、彼女はふいっと後ろを向いて歩き去ってしまう。
「ふぅ……。なんだったんだよ、一体」
しかし……、改めて考えても気軽にみんなに話せる内容じゃないぞ。
彼女の口ぶりからはなるべく自分の痕跡を残したくないという意志が窺えた。
厄災と同化しているリッカにこのことが伝わると、アスモデウスがどんな行動に出るかわからない。
噂が漏れる可能性も不安だ。
アンティカーネンとの約束通り、今は誰にも言えない。
そう考え、思わず漏れたため息と共に、机の上に広げていた資料をぱたんと閉じた。




