第245話 苦境
「あ゛あ゛あ゛あ……」
「おい、耳元でブキミな声出すな。夢に出るやろが」
「なんか、大変そうっすね」
校舎の合間から小さく空が覗いている。その空はあまりに小さかった。
まるで深い井戸の闇の底に落ち込んでしまったかのようだ。到底這い上がることなど不可能だ。
光の世界は遠すぎる。みんなが楽しく暮らす、光の世界は……。
「……遠すぎる」
「さっきからブツブツうるせーぞナトリ」
隣に寝転ぶクレイルの文句も俺の耳には届かない。
俺とクレイル、アルベールは三人で校舎の中庭の芝生に寝転んでいた。
もう今月は三の月だ。アンフェール大学に入学し、一ヶ月が経つ。
来月には中間試験がある。だが、俺は相変わらず刻印理論を理解できていない。
このままでは単位取得も危うい。
「やべえ……やべえぞ……」
先日、使命感に駆られてマリアンヌの訓練の手伝いをやり始めたはいいのだが、その影響を受けて当然のことながら勉強時間に余裕がなくなり、寝不足は加速している。
マリアンヌは最近少しだけ俺に甘えてくれるようになってきた。嬉しいことだ。
勉強時間を増やそうにも、そんなマリアンヌががっかりする顔をみたくなくて言い出せない。
「アニキー、寝不足で幻覚とか見えてたりしません? ちゃんと寝た方がいいっすよ。オレが言えたことじゃないけど」
「アル……、お前確か刻印の特級クラスだったよな?」
「え、まあ」
特級クラスは突出した才能を持つ生徒のみが所属できる。
アルベールはこう見えて一年の時に試験で高成績を収め、二年生では見事才能を認められ特級クラス入りを果たした成績優秀者だ。
「頼む! 俺に刻印を教えてくれ……っ!」
「なーんだ。そんなことならお安い御用っすよ」
「ほんとか?!」
「ナトリのアニキの頼みだし、断る訳ないじゃないすか。あ、でも」
「なんだ?」
「代わりにってわけじゃないけど、マグネロックの素材が欲しいなぁ……なんて」
「よし、無事に中間試験を切り抜けられたら取ってきてやる」
「まじすか! うおお、約束っすよ?!」
「安請け合いしてええんかいな。マグネロックなんてまだ一度も見てへんぞ」
そうだ、俺もフウカのように誰かから教わればいいのだ。
身近に将来有望な刻印術士がいるのだから頼らない手はなかった。
もっと早くに頼るべきだったな。ともあれ希望は見えてきた。諦めるにはまだ早すぎる。
「そういえばクレイルさんってなんかしたんすか?」
芝生に寝そべり空を見上げたままの格好でアルベールが問う。
「なんでや?」
「いや……、あんまりよくない話ばっかり聞くんで」
「こいつ、入学式の日にフィアーに喧嘩売ってるからな」
「ええっ?! 噓でしょ?」
「マジだ」
「アルベール、お前もあいつには気をつけろ。なるべく近づくんやない」
「そんな危ない人に見えないけどなぁ……。めっちゃいい人って聞くし」
「ケッ! 猫被っとるだけや。性悪女がよ」
芝生に転がったままクレイルが毒づく。
クレイルからすればエンゲルスの疑いが少しでもある時点で気を許せるわけが無いからな。
「以外と噂になってるもんだな。絡んだ以外に目立って何かしたわけでもないだろ」
「あー……、アニキについても色々聞きますね」
「俺?」
「はい。入学してソッコー新入生のトップクラスに可愛い子二人を侍らせてるとんでもねえ奴だって」
「はあ?」
「カーッカッカッ!」
「めちゃ悔しそうに話してる奴らばっかりでした。対抗戦で絶対ボコるって息巻いてます」
「モテねえやつらの僻か。哀れな奴らだぜ」
「俺がまるで女たらしみたいじゃねーか……」
「でもさすがっすアニキ。あんな美人なカノジョが二人もいるとか、そりゃムカつかれますって」
「…………」
話題を逸らそうと気になっていたことを口にする。
「ところで、さっき言ってた対抗戦ってなんだよ?」
「知らないんすか? この学校の一大イベントなのに」
「行事か、なんか楽しそうだな」
アルベール曰く、対抗戦とはアンフェール大学最強の座を掛けて行われる学生同士の非公式武闘大会らしい。
前期後期の学期最後の夜に第一演習場を借りてトーナメント形式で行われ、さながら学園祭のような盛り上がりを見せるらしい。
「拳闘士の拳闘武会みたいなもんか」
「へへ、対抗戦は拳闘武会とはわけが違うんです。それが醍醐味でもあるんだけど」
「何が違うんだ?」
「対抗戦はなんでもありなんだ。拳闘士だけじゃない。波導術士も、刻印術士だって出られるんすよ」
「……マジで?」
そんなのほとんどルール無用のなんでもありじゃないか。
「この学校の伝統らしくて。優勝した奴は次の学期中偉ぶれるし、尊敬される」
「くだらん。そないなとこで勝ってなんになる」
「クレイルさんなら強いし、出ればいいとこ行けそうなのになぁ」
「興味ねえ」
「風の噂で聞いたんすけど、今期の対抗戦はあのフィアーさんも出るつもりらしいっすよ」
「本当か」
クレイルが食い気味に聞く。
「た、多分」
「出るぞ、ナトリ」
彼はむくりと起き上がって俺を見下ろし言う。
「興味ないんじゃないのかよ」
「公衆の面前で、堂々とあの女をボコれるんやぞ。こないなチャンス逃してたまるか」
バシッと自身の掌に拳を叩き込む。
「二人とも出るんすね! 学期末が楽しみだなぁ!」
「なんで俺まで出ることになってんだ」
「ったりめえだ。あいつの力を見れる機会は多いに超したこたあねえ。その点ナトリなら十分渡り合えるやろうしな」
俺の力を買ってくれるのは嬉しいが、そのためだけに出させられるのか……。妙に納得がいかない。
「二人なら絶対優勝狙えますよ!」
でもまあ、フィアーの狙いが気になるのも確かだ。
わざわざ野蛮なイベントに出張って来るのは何かしらの意図あってのことなのか?
火の盟約を持つクレイルがフィアーに接触するのはちょっと心配ではあるけど、こいつの場合は望むところといった感じなわけだし……。
だったら、俺はクレイルの側にいた方がいいか。いざって時になにかあったら後悔してもしきれない。一応親友だからな。
「わかった。俺も出る」
「助かるぜナトリ。フィアーの化けの皮、剥がしたろうや」
クレイルが拳を突き出してくる。芝生から起き上がり、俺も拳を合わせた。
「うおー、燃えてきたぁ! 全力で応援するっすよ!」
「なんでアルが一番盛り上がってんだよ」
「対抗戦に出る気なのか、ライオット」
「!」
振り向くと以前バベルで俺達に声をかけてきた青年が立っていた。
美しいプロポーションと整った顔のコッペリアだ。
「俺は別に……」
「やめておけ。お前の力では怪我を負うだけだ」
「うぐ」
「あんたも対抗戦に出るのか?」
「ああ。私は出なくてはならないのでな」
「アルベールはそんなに弱くない。きっとあんたにも勝つよ」
「アニキ?!」
「予選突破も怪しいと思うが」
コッペリアの青年と視線がぶつかる。
「——己の実力を知るのも悪いことではない、か。忠告はしたぞライオット」
そう言い置いて彼は向こうで待つ仲間の元へと歩いていく。
「特訓やな、アルベール」
「うえっ?」
「ああ、特訓だ」
「俺、対抗戦に出るんすか?! 何でこんなことに……」
アルベールは頭を抱えて芝生に転がった。
§
「なぁ、何であいつはアルに絡んでくるんだ?」
「カーライルのこと?」
寮に帰り適当なものを台所で調理した後、飯を持ってアルベールの部屋を訪ねた。約束通り刻印を解説してもらうためだ。
カーライル=フィオ・ルーナリア。それがアルベールに声をかけてきた男の名前だった。
なんと彼、カーライルはこのルーナリアを治める皇族の者で、しかも皇太子最有力候補であるという。
つまりは時期皇主だ。取り巻きの多さから高貴な家の出だとは思っていたけど、超のつくお偉いさんじゃねえか。
「……さあ。気に入らないんですよ、きっと。俺は特級クラスの面汚しだから」
「特級クラスの面汚し?」
アルベールが取り組んでいるのはオートマターの研究だ。
しかし兵機として完成させるなら人型である必要はないし、彼の理想には素人目にも色々と無駄が多いように感じる。
そのせいでアルベールは変わり者扱いを受け、その研究は理解を得られていないらしい。
「かっこいいのにな、オートマター」
「ですよね! このロマンをわかってくれんのはアニキだけっすよ」
焼けコゲた肉を嚥下して口を開く。
「見返してやろうぜ、対抗戦でさ」
「絶対無理だって……」
「やってみなきゃわかんないだろ」
「カーライルは優勝候補なんすよ? 毎回波導学部の『炎姫』と優勝争いしてるんですって。俺じゃ逆立ちしたって無理だよ……」
アルベールはかなり弱気だ。カーライルの実力がどれほどのものかわかっているんだろう。
晩飯を腹に詰め込んだ後、アルベールに刻印の理解できない箇所についてレクチャーを受ける。
「どうしてここで突然組成式が三通りに別れるんだよ」
「フィルの状態っすよ。個体、液体、気体で別れてるんで」
「属性式15もあるけど、どこで使い分けを見分けてるんだ?」
「単体で見てもわかんないっすよ。前後の流れから判断しないとダメっす」
アルベールはさすがに特級クラスなだけあり、全ての質問に対して即座に正確な答えを返してくれる。
疑問点を上げつつ解説を受けることを一刻ほど繰り返した。
「なんか、アニキはちょっと難しく考え過ぎてる気がしますね」
「実際難しいからさ」
「確かに刻印は覚えなきゃいけないこと多いけど、もっと単純に考えた方が楽っすよ」
「単純に?」
「刻印はフィルの流れを刻印回路によって制御し、循環させ、属性の性質をコントロールする手段。だからシンプルで無駄の無い刻印ほど効率が上がるしエネルギーロスも少なくて出力が高くなるんす」
「ふむ……」
「だから常に起きる現象の全体を見て、力の循環を意識すること。これっすね」
「なるほど……」
まだ理解できるとは言えないが、地道に向き合うしかない。
今日のところは彼に礼を言って自室へと戻った。
刻印理解への道程はまだ長そうだ。




