第209話 影の魔女
フウカを王宮から連れ戻してプリヴェーラへ戻り、ようやく落ち着けるかと思っていたら街は大変な騒ぎになっていた。
ちなみに俺が、翠樹の迷宮から持ち帰ったフィル結晶を売って得た金貨と銀貨を預けているプリヴェーラ銀行南支店は、数日前に起きた取り付け騒ぎによって封鎖されてしまっていた。
大暴走に街が押し流されれば晴れて一文無し。……とんだ災難だ。今に始まったことじゃないかもしれないけど。
金は失くしてもまた頑張って稼げばいい。それはプリヴェーラの街にだって言えることなのかもしれない。だが、簡単に捨てられるほどこの街の人間は聞き分けがよくはない。そこに根付く歴史や文化が華々しいものならば尚更に。
故郷を見捨てられない。この街に住む人間の多くはそういったタイプの者達なんだろう。俺は故郷に対する愛着はさほど無いが、この街に対してはそこまで突き放せない。
なに、どうにもならなくなったらマリアンヌを連れて死に物狂いで逃げ切るさ。一番大事なのはやっぱり命だからな。
大暴走の防衛戦に参加することを決めた俺たちは、マリアンヌの屋敷で一晩過ごした後久しぶりに南区の部屋に帰宅した。そして荷解きをする間もなくフウカとリッカを連れてすぐにバベル支部へ向かう。
バベルの無骨な建物の扉を開き受付へ向かうと、早速俺たちに気がついた受付嬢のトレイシーと目が合った。彼女の座るカウンターへ寄っていく。
「ランドウォーカー様! このところ姿が見えなかったので心配していたんですよ。お二人もお元気そうでなによりです!」
「ちょっと街から離れていたもので。それより——」
会話しながらバベル内を見回すと、やはりここも普段以上に騒がしい。狩人たちはもちろんだが、カウンターの奥に働くバベルの職員達はいずれも慌ただしそうに行き来している。
「ここは相変わらず活気がありますよね」
「ええ。普段以上に血の気が多くて愉快な感じです。先日のエイヴス王国の厄災騒動なんて誰も気にしてないくらいに」
一瞬だけうんざりとした顔を見せると彼女はすぐに表情を引き締めた。
「ここへいらっしゃったということは、アルテミスも防衛戦に参加されるんですね」
「はい」
クロウニーとエルマーがいない今、勝手にアルテミスを名乗ることに抵抗がないわけじゃない。
「……心強いです。では早速、先日発布された大規模討伐要請、『プリヴェーラ防衛作戦』の概要についてご説明させていただきます」
「よろしくお願いします」
彼女によればトレト運河を進行中のモンスターの群れは、早ければもう明日には街へ到達する予定らしい。観測されたモンスターの数は万を軽く超え、大型やスターレベルの高いものも混じっているそうだ。
大暴走なんてものは大方そうなのだろうが、あまりにも準備の時間が足りない。
その中でバベルは、プリヴェーラ市との協力体制の元独自の情報伝達ネットワークを駆使し、できうる限りの戦力を街に集結させつつ準備を進めている最中なのだという。
「過去、大暴走に立ち向かいそれを退けた例はたったの一つ」
「——エイヴス・エアブレイド」
「ええ。かつての連合軍大将エイヴス・エアブレイドが、強国グレゴリア帝国が差し向けた大暴走を、無敵のアイン・ソピアル『三つの宝具』を振るいたった一人で撥ね除けたというアレですね」
エイヴス王国建国前、旧世紀末の出来事で、真実味がなさすぎて逆に有名な逸話だ。
そんな半ば伝説に近い極端な例しかないということは、基本的に人間は大暴走に太刀打ちできないというのは歴史が示す事実でもある。
それでも人は大暴走に挑む。きっと今まで大暴走に散った者達も、守りたいものを抱えていたに違いない。
「それでも私は、勝算はあると考えます」
「そう……なんですか」
「はい。バベルの総力を上げて、『東部三大賢者』全員の協力を取り付けましたから」
「!」
「それってガルガンティア様のことだよね?」
「ええ。波導術師としても戦闘力としてもイストミル最強と謳われる三賢者、『銀嶺』『風掌』『影紡』がついにこの地に集まるんです。彼らの力を借りることができればきっと————」
きまぐれな東部三大賢者達についてトレイシーが熱を込めて語るのを聞きながら、俺は奇妙な感覚を覚えていた。なんだか急に室内の光が強くなったような……。いや、逆に影が濃くなった? 気のせいだろうか。
「ナトリさん、何か変な感じがしませんか」
俺の後ろにいるリッカが囁く。彼女も何か異変を感じているようだ。やっぱり気のせいじゃない。
「うおっ!!!」
突如後ろで上がった声に振り向くと、そこには異様な光景が広がっていた。
バベルロビーの中央、その床に真っ黒な渦が出現していた。影のようなそれはぐるぐると渦巻きながら徐々に広がっていく。そして、そこから浮かび上がってくるかのように人影が現れた。
「ここがバベルか」
そう呟きながら影の渦から出てきたのは、漆黒の長い髪をした少女だった。登場の仕方も異様だが、彼女の格好もなかなかに奇抜だった。
真っ白く血の気の感じられない四肢をあられもなく衆目に晒し、ほとんど最低限の部分しか隠さない黒い布状の何かを体に巻き付けているだけの装い。いくらなんでも露出度が高すぎる。
彼女はカウンターに向かって、こちらに歩いて来る。
騒がしかったバベル内は水を打ったように静まり返っていた。誰かが漏らした呟きが、異様に静かなロビー内に響く。
「影の、魔女……」
「あ?」
その言葉を耳に入れるやいなや、少女の様子が急変した。目を見開き、周囲を見渡す。同時に周囲の影も一層深さを増したような気がした。
「誰だ、今わたしのことを魔女と言った奴は」
俺は彼女から一瞬たりとも目を離さなかったが、次の瞬間には少女の姿はその場から掻き消えていた。ロビーのソファで寛いでいたネコの狩人の前に影が口を開け、そこから少女の上半身が這い出す。
「お前か?」
「ヒッ……」
言うが早いか再びその姿は消え、今度はカウンター向こうの職員の前に現れる。
「お前か?」
「い、いえっ……」
目の前に影が滲みだしたと思った瞬間、今度は少女は俺の前に立っていた。
「お前だな?」
「……俺はそんなこと言ってません」
下から俺を覗き込むように見上げる白い顔が間近にあった。両目は見開かれ、黒目がちで冷徹そうな瞳がギョロギョロと俺を舐めるように見回す。
「生意気な小僧だ。だったら全員縛り上げてやろうか」
「まっ……」
トレイシーの上げかけた静止の言葉を気にも留めず、少女は詠唱を始めた。
「影よ、我が手足となりて不遜なる輩共を縛り上げよ——、『影の抱擁』」
少女の詠唱に呼応するように、俺の体から黒いもや、影のようなものが染み出し始める。影は寄り合い、紡がれ、植物のツタや木の根のように形を成していく。
自分の体からそんなものが涌き出しているのを見るのはかなり気持ち悪く、嫌悪感を催さずにはいられない。
「きゃっ!」
「なにこれっ!?」
「う、うわぁぁぁ!」
そこら中で驚愕の声が上がった。周囲を見回すと、俺だけでなくフウカやリッカ、ロビー内にいる人間全員の体から影の触手が生え始めていた。
それはまるで意志を持つかのように動き始めると、体に巻き付いて締め上げてきた。払いのけようにも腕を動かすこともできない。すぐに全身にまとわりつく影によって完全に身動きを封じられた。
「わたしを魔女と読んだヤツ。名乗り出ろ。さもなければ」
影の拘束が首筋を這う。ぐるりと首に巻き付き、輪を作るのがわかった。これは……まずいぞ。
「……っ!」
覚悟を決めて、リベリオンを呼び出そうとした時俺の五感は別の異常を検知した。
頬が冷たい。次第に体が震え始める。急速に熱を奪われていく感覚。室内の気温がどんどん下がっている?
すぐに吐き出す息が白くなり、耐えられないほどの寒さになる。今度は一体なんだってんだ——。
「なんだこれは?」
「白皙なる口縄よ。『霜薊』」
少女の横合いから巨大な霜の柱が伸びてきて彼女を飲み込んだ。あまりに突然の出来事に一瞬思考が停止する。
これは、前に見たことがある。そう、氷のアイン・ソピアルだ。
『影裂』
霜まみれになり、身動きできなくなったと思われた少女のいた場所が、突如として球体状の真っ黒な影に飲み込まれる。霜を影で削り取って現れた少女は、霜柱の飛んできた方を鋭く睨む。
「その辺にしておけ『影紡』よ」
身の丈以上の大錫杖を突きながら、ロビーの奥から現れたのはやはりガルガンティア老師だった。
「『銀嶺』……」
「随分と久しいのう。それにしても派手に暴れたものじゃ。あの頃と全く変わっておらんと見える」
ガルガンティアは少女のことを「影紡」と呼んだ。と、いうことはまさか。
「あの人が東部三大賢者の一人、『影紡のバルタザレア』?!」
どう見ても歳下にしか見えない裸族の少女は、大層機嫌が悪そうに鼻を鳴らした。




