第186話 懊悩
フィアーが部屋を去った後、俺はしばらく動けなかった。
頭の中を様々な考えが巡っている。
フウカはフィアーに利用されていた。それも下らない理由で……。
どいつもこいつも、フウカを便利な道具か何かとしか思っていないのか。
彼女は血の通った人間だ。天真爛漫で、ずば抜けた加護を持っていて、波導の才能もすごくて、困っている他人を見過ごせないくらい優しくて、家族や身近な人のことを大切に思う、笑顔のとびきり可愛い普通の女の子なんだ。
フウカを王宮から連れ出す。
決めた。こんなところにいたら彼女はいつか使い潰されてしまう。
フィアーのような血も涙もない女や、貴族たちの思惑に巻き込まれて。
親代わりの人間ですら彼女を自分の都合で捨てていった。
フウカが記憶を取り戻したかったのは、本当の家族に会いたかったからだ。
彼女は自分が親にすら見放されてしまったことを知らない。
ふざけた話だ。子供を守るのが親ってもんだろ。自分に都合の悪い記憶を抹消して、一人きりで放り出すだと?
……許せない。フウカを寄ってたかって利用しようとする王宮から、あの子を引きずり出してやる。
「ナトリ……くん」
リッカが俺に掴みかかっていた力が弱くなっていることに気がつく。
「リッカ……。もう、大丈夫か?」
無意識のうちに力を込めていた腕を彼女の体から離す。
リッカは気の抜けたように長椅子の上にへたり込んだ。
彼女は泣いていた。静かに涙を流して泣いていた。
厄災のせいで彼女が暴走したりしないように押さえつけていたつもりだったが、こんな風に無理やり押さえつけられたりしたら怖かっただろう。
考え事をしながら力を入れすぎてしまった気もする。
すぐにリッカに謝った。
「……ごめん! 本当に」
「謝らないで……。恥ずかしいんです」
「…………」
「私、また……やっちゃったんですね……。しかも、あんなに大事な話、している最中に……。全然知らない他の人にこんなところ、見られて……ううっ」
ちゃんと覚えているんだな。確かに前の時も普通に記憶はあるみたいだったし。
涙は次から次へと溢れ出し、頬を伝ってぽたぽたと、露わになった白くてすべすべとした太ももに落ちていく。
なんともいたたまれない気分だ。
リッカのそばをそっと離れ、ベッドの上に跳ね除けられた毛布を手に取る。
長椅子の脇に戻ると、椅子の上で声もなく泣き続けるリッカにそれをかけ、露出した肌を隠した。
椅子の前の床に膝をつきリッカを見上げながら、彼女の手を包むように握る。
「ごめん……」
「ナトリくんが謝ることじゃないです……」
「リッカのせいでもない。悪いのは君じゃない」
「本当、に……?」
「うん」
リッカの柔らかい金髪をゆっくりと撫でてやる。安心させるように、心が落ち着くようにと。
白くて形のいい頬を手でなぞり、涙の跡を拭う。
「王宮から帰ったら探しに行こう。厄災をなんとかする方法。
何か……絶対に何か方法があるはずなんだ。こんな風にならなくて済むようになる方法が」
「ナトリ、くん……うぅっ」
冷たい床に胡座をかき、リッカの手が冷えないように両手で包み込んで彼女の気持ちが落ち着くのを待った。
ただただ待った。
§
「さっきはごめんなさい」
振り返ると、そこには使用人服の白と黒のエプロンドレスを身につけたリッカが立っている。
なんとかリッカを落ち着かせた後、俺たちは身支度を終えた。
「フィアーさん、でしたか。彼女の言っていたこと、本当なんでしょうか……」
「どうかな……。信じたくないし、鵜呑みにもしたくないけど。そもそも最初から俺とフウカを騙してた奴の言葉だ」
信用はできないだろう。どれくらい真実を語っていたのかはわからないが、多分フィアーは意味のないことはしない奴だ。自分にとって都合の良くなる行動しか取らない。
「だけどあいつの言っていたフウカの居場所は真実だと思う」
「私たちを謀っている可能性はありませんか?」
「多分、フィアーの狙いは俺にフウカを王宮から連れ出させることなんじゃないかな」
あいつは分かっていた。何を知ったところで俺がそういう行動を取らざるを得ないってことを……。
フィアーの思惑通りに動くのは癪だが、フウカを王宮から連れ出すということに関して俺たちの利害は一致しているようだ。
「私は少しだけ不安です」
「…………」
俺も同じだ。でも今更引く気は無い。
「……そろそろ行こうか」
「はい」
「叛逆の剣——、『ソード・オブ・リベリオン』」
青白い光が簡素な室内を照らし出す。
俺には知覚できないが、リッカによると部屋の壁には透明な波導障壁が張り巡らされているらしい。
ここは兵器開発局という施設らしいし、この部屋の目的を考えればその手のものを発生させる仕組みがあってもおかしくない。
お構いなしにリベリオンを窓に嵌った鉄格子の間に差し込む。
手頃な範囲の壁を見えない障壁ごと焼き切る。
切断した鉄格子を取り外してそっと床に置くと、人がギリギリ通れるくらいの隙間が出来上がった。
アールグレイ公爵は俺を本気で捕らえておく気はなかったのだろう。
本気で俺達を閉じ込めるつもりなら最低でも手足くらいは拘束しなければ意味がない。
彼女はそれくらいのことは当然わかっていたはずだ。
俺達は別に重要人物じゃない。
貴族の務めは果たすが、積極的に介入するつもりはないということなのか。
これが好きにしろってことなら、こっちは自由にやらせてもらおう。
空いた壁の隙間から外を覗く。
結構高い場所だ。地上六階分くらいはある。兵器開発局の敷地内に明かりは少なく、真夜中にも詰めている人間は少ないようだ。
穴は開けたものの、施設からどう脱出するか。
「今は真夜中ですし、ここは闘技場ほど警備も厳重じゃなさそうです。私の波導で敷地の外まで飛びましょう」
「そうか。よろしく頼む」
リッカが杖を取り出し、もう一方の手で俺の手を握る。そのまま詠唱した。
「——天上の星々よ。その御手で降落つ我らを掬い上げ給え。『星掌』」
リッカの手を通じ不思議な感覚が伝わって来る。体の表面にごく薄い膜みたいなものが張られているかのように、身体と外界との隔たりを感じる。
「星掌は物体が落下する力を弱める術です。体が軽くなったように感じませんか」
「おお、確かに……」
俺たちは窓に開いた隙間から乗り出すと、少し離れた場所に建つ別棟の屋根に向けて飛んだ。
リッカの使った術の効果は思いの外強く、体が羽根にでもなったかのようにふわりと浮かぶ。
フウカはいつもこんな感覚で飛んでいるんだろうな。
リッカの後に続くように屋根に降り立ち、再度夜空に飛び上がる。
そうして跳躍を繰り返し施設の塀を軽々と越え、俺たちは兵器開発局の脱出に成功した。
ただ、塀を越えたところで俺にかかった術が切れかけた。なんとか着地できたが危うく怪我をするところだった。
やっぱり飛ぶのはいまだに少し怖い。どうしてみんなあんなに平気でぴょんぴょん飛べるのか……。
聳え立つ王城を見上げ、そこを目指して深夜の王宮を進んだ。
『マスター』
『ん、なんだ』
リッカと声もなく道を進んでいるとリベルが話しかけてきた。こいつが窮地以外で自分から語りかけてくるのは珍しい。
『私は……一体何なのか』
『え?』
『自らが存在する理由に対する答えを、私は持ち合わせていない』
リベルが何か難しいことを考えている。……もしかして、昼間神官クラリスや公爵に言われたことを気にしているのか?
『あんまり気にするな。俺だって自分がどうして存在しているかなんて知らないし。誰だってそんなもんじゃないか?』
『そう……、だろうか』
リベルの声音は基本的には均一な感じで平坦な印象がある。
しかし、今はなんだか少しだけ声のトーンが低いように感じた。
悩んでいるのか。そうだな……。意志があって、考えることができるなら当然悩みだってあるはずだ。
相棒の悩みだ。じっくり相談に乗ってやりたいところだけど、今俺たちはそれどころじゃない。
色々なことが済んだ後でちゃんとリベルの話を聞こう。
『リベル。この後もきっと戦いは避けられない気がする。だから、一つ試してみたいことがある』
『マスターの意のままに』
悩める年頃のようだが相変わらず心強い。
王城を目指しながら俺とリベルは今後に向けての作戦会議を始めた。




