第180話 変貌
ナトリくんはほとんど動かない私の体を優しく地面へと座らせてくれた。
「リッカはじっとしててくれ。なんとかやってみる」
「はい……」
彼は立ち上がり、神官クラリスに向き合う。
術のダメージで体は動かせないけど、私を支配していた彼女の白波導の効力は消えていた。
彼女が私を調べようとした時、ナトリくんが不意をついて彼女の杖を砕いたからだ。
「とっくに逃げ出していると思っていました。何故ここまで降りてきたのです?」
「当たり前のことを聞くな」
「……杖、折られてしまいましたわ。大切なものでしたのに。一人で先行したのは誤りでした」
クラリスは喋りながら、空色のローブの内側から予備の杖を取り出した。使っていた白い杖よりも短いものだ。
「どうして彼女にこんな酷いことをする」
「決まっています。彼女が王国に仇なすものか否か……。それを確かめるのが王宮神官としてのわたくしの務めですもの」
「そのためなら、痛めつけてもいいと?」
「ええ、もちろんですわ」
彼女はまるで当然とでもいうように薄く笑ってみせた。
神官と呼ばれる者たちは皆そんな考えなのだろうか。国のためなら、非人道的行為すら正当化されると……。
「やっぱり王宮は信用できない。リッカは渡せない……。そのためなら俺は」
「少々あなた方を見くびっていたようですわね。白波導の通じない相手となると厄介ですが……、わたくしと踊っていただきましょう」
二人の間に緊張が高まっていく。ナトリくんが剣を彼女へと向ける。
「叛逆の弓、『アンチレイ』」
一瞬のうちに剣の形が組み代わり、杖に近い形態となる。そこから目にも留まらぬ速度で光の弾丸が放たれた。
クラリスは機敏に動き、横に飛んでそれを回避。ナトリくんの追撃を避けながら杖に光を灯す。
「食い破りなさい、『石杭』」
速い。詠唱、地中への波導の伝達速度、術の形成、そのどれもが流れるように行われ、地中から突き出した太い杭がナトリくんを襲う。
「その術は一度見た!」
彼はそれを読んでいたようにステップで避ける。踏み込む方向を間違えていたら間違いなく杭に体を貫かれている。
波導攻撃を避けながらも彼はリベリオンで追撃を続けるが、クラリスは詠唱中すら隙を見せず、彼との距離を一定に保ち続けている。
「縫い止めよ『針鼠』」
クラリスの足元から膝丈ほどある鋭い棘が剣山のように突き出し、地面を覆いながらナトリくんへ迫る。
彼の移動先を見越して展開された波導。ナトリくんは武器を剣へと変え、針鼠の範囲へと構わず飛び込んでいく。
「おおおっ!! 『ソード・オブ・リベリオン』!」
光の刃が横薙ぎに地面を抉る。棘は地面ごと抉り取られ、ナトリくんは均された足場に着地すると、彼女との距離を一気に詰める。
「『アンチレイ』!」
「っ! 『石壁』!」
クラリスはナトリくんとの間に、瞬時に厚みのある石障壁を作り上げる。
攻撃を防ぎ、光の射線から身を隠すための壁だ。
リベリオンの光はその壁に突き刺さり、容易く貫通していく。
「うっ……!」
クラリスの悲鳴。壁から飛び出し、彼から離れようとする彼女は腕を押さえていた。
神官の白い制服に血が滲んでいる。
「波導障壁も無意味、ですか……。恐ろしい力ですね」
ナトリくんはクラリスの白波導の影響をあまり受けていないように見えた。
それもあの武器、リベリオンの力なんだろうか。
私を守るために王宮神官と戦い、渡り合っている。
動かない手足に力を込めて、彼の姿を固唾を飲んで見守った。
酷く喉が渇いている。この地下空間はどうもかなり乾燥しているらしい。
「……?」
薄っすらと、目の前を細かい砂粒が舞うのを見た。周囲の風景が少し霞んで見える。
まさか、これって————。
「ナトリくん、上級波導が来ますっ!」
「なに?!」
クラリスの杖が、カッと強烈な光を放った。波導の気配が周囲に渦巻き膨れ上がっていく。
「————渇きを。『大砂海』」
弾けるような、何かが決壊するような音があたりに鳴り響いた。
私たちの周囲を取り囲むように大量の砂が吹き上がる。
そしてそれは荒れ狂い、私たちを飲み込まんと波となり襲いかかってきた。
ナトリくんへ波導を放ちながら、悟られぬように同時にこの上位術を展開する詠唱を続けていたのだ。
さっきまでの攻撃は狙いを悟られないための偽装。本命は、こっち。だめ、まだ体が動かない……。
「リッカーー!!」
ナトリくんがこちらへ駆け戻って来て、その体で私を庇う。
私たちは流砂の波に飲み込まれてなす術なく押し流された。
§
目を開けると、すぐ近くにナトリくんの体があった。彼は私を守るように抱きしめている。
体は動かない。術の影響で、まるで身体の神経が麻痺してしまったみたいだ。
そして私たちは胸の高さまで砂に埋まっていた。
「……リッカ、無事、か——」
「蝕まれし者、汝我が声に従え——、『従縛』」
「がああああああっっ!!!!」
「……ナトリくんっ!!」
苦悶の表情を浮かべて苦しむ彼。彼の背後に、私たちを冷たく見下ろすクラリスが立っていた。
その手に持つ杖の先端はナトリくんの背中に当てられている。
「ぁ……が、はっ」
ナトリくんはがくりと私にもたれかかる。体が言うことを聞かないのだ。
お願いだからこれ以上彼を傷つけないで。
「悪く思わないで頂戴。これがわたくしの務めですから」
神官クラリスが私の隣へ来てしゃがむ。その手が肩に直に触れた。
彼女はただ私に触れただけだが、まるで身体の中を無数の触手で奥の方まで撫ぜ、摩られていくような不快な気分を味わう。私の内側を探られているみたいだ……。
厄災が私とともにあることを知られたら、私は一体どうなってしまうのだろう。王宮によって断罪されるのか、実験体として監禁され、体を切り刻まれるだろうか。
「……っ」
いや。ナトリくんと会えなくなるのは……。
私のせいで……彼までも傷つけてしまった。これじゃ足手まといじゃない。支えると、決めたのに。
ドクン、と心臓が大きく脈打つ。
私の身体をその奥底から、突き破ろうとするかのように強大な気配が膨らんでいく。
「……?! まるで別の何かが……、この感覚は?!」
私の内側を探っていたクラリスがぎょっとした顔で手を離す。
憎悪、怨嗟、狂乱。様々な感情の渦が混ざり合う混沌とした影が、私の体を覆い尽くす。
そして私は自分の身体の制御を失った。
自分の肉体に変化が生じていくのがわかった。
こめかみが盛り上がり、そこから黒い二本の角が伸びる。肩甲骨のあたりから生えた翼が服を突き破る。
衣服が窮屈になる感覚があり、胸が膨らんで給仕服を押し上げた。
そして私はナトリくんの腕を離れて砂中から抜け出し、宙に浮かんだ。
「フふ……。こうモあっさりと制御を手放すか」
私の意思とは関係なく、両手が持ち上げられる。指からは長く鋭い爪が伸びていた。
色欲の厄災アスモデウス。
私の生命力が弱まり、神官クラリスの波導による干渉によって再び封印は開かれてしまった。
破滅の化身が顕現する。
爪の間に見える、元から白い肌をさらに青ざめさせたクラリスを見下ろす。
私の体を奪った厄災は彼女を殺すつもりらしい。
抵抗力の弱まった今の私では厄災を抑えられない。
だからお願い。早く逃げて。




