第174話 復讐の鬼
戦闘において冷静さは失ってはならないものだ。
もちろん、腹を抉られようが腕を飛ばされようがそれは同じだ。敵の言動に激昂し相手を叩きのめすことだけを考えるなど以ての外。
怒りは視野を狭める。相対するものに怒りを抱くということは、その相手から意識を外せなくなるということだ。
攻撃はより直線的になり、想定外の事態に対して対処が遅れる。今のコイツのように。
フュリオスの視線を遮るように太い水道管の裏に回り、燈を浮かべて囮としながら回り込む。
俺はフィルの感知力はさほど高くないが、それはどうやら奴も同じらしい。波導の予兆と勘違いした紫電が、浮かぶ燈の方に向かうのが水道管越しに感じられた。
移動しながら煉気を杖に注ぐ。同時に口の中で詠唱を刻み、術を構築する。
「原初の炎を統べし者、万象をあまねく灰燼に帰せ。『紅炎』」
跳躍しつつ、背後に回り込んだフュリオスの背に灼熱の波導を放つ。
「あ゛ぁッ?!」
紅炎は灼熱の波導を絶え間なく放出する術だ。その分煉気の消費はでかいが、これを拳で防ぐことは叶わない。
前に注意を向けすぎていた奴は一瞬術の発動に気づくのが遅れる。結果、対処のための行動にも遅滞が生じる。
思っていた通り、フュリオスは今までのように波導を纏った拳による相殺ではなく回避を選択する。
その移動先を予測して灼熱の波導を浴びせかける。
「こんのクソがァッ!!」
波導の熱線から遠ざかるのではなくむしろ接近を選ぶ判断を下せることから、流石に戦い慣れていることが窺える。
足を炙ることくらいはできたようだが素早い移動で遮蔽物の陰に逃げ込まれた。
「『穿鼓』ッ!」
水道管から飛び出したフュリオスが拳から雷撃を放つ。
だが、その時には俺はすでに後退し奴の射程外へと逃れている。
燃えるような赤髪を逆立たせ憤怒に顔を歪めたフュリオスがさらなる追撃を仕掛けてくる。
「『崩龍』!!」
八つ当たりのように走りながら手近な水道管を殴りつけている。一体何を——。
地下通路を飛びながら後退する俺の真横で、波導の気配が膨れ上がるのを感じた。
ぎょっとして管に目を向けると、何の変哲も無い水道管の表面で紫電が弾ける。
突如紫電の槍が飛び出し、空間を駆け抜け俺の懐を貫いた。
「か、はッ……!!」
ショックで体が痙攣し、着地に失敗する。
勢いよく転がるように地面を跳ねた後、全身に力を漲らせて踏ん張り、なんとか体勢を制御して再び移動を続ける。
「オレが接近戦特化だとでも思ったか? こんなことも……できるんだぜッ!」
フュリオスの体が激しく発光を始め、暗い水道路に紫電が散る。
奴は走りながら両手を広げ、水道管へ電流を流し込んでいく。
帯電した水道管の間を結ぶように空間を走る電流が発生し、無数の紫電の網が俺に襲い掛かってくる。
「カッ!」
空間を揺らぎながら迫り来るいくつもの電流を搔い潜る。
「紫電」とか言ったか。こいつのアイン・ソピアルは空気中を走らせるのは苦手だが、金属間の伝導率は非常に高いらしい。
半端じゃ無い速度だ。回避も限界がある——。
回避行動を取らざるを得ないせいで、攻め手に欠け進行速度は落ちる。だが敵は前進を止めない。
目前まで迫り来る、赤髪を逆立て目を血走らせた女が拳を引く構えを取った。
「ウィオ——」
「墜ちろ、鳥野郎。『雷虎』!」
咄嗟に展開しようとした波導衝壁を叩き割る、至近距離から放たれた紫電の波に飲まれた。
全身を電流が駆け巡り激痛が体を支配する。
「グがあ゛……ッ!」
無様に地面を転がり、片膝をついて身を起こすので精一杯だった。
通路の奥から紫電を纏い、波導が空気との摩擦で生み出すチリチリという細かい音を響かせながらフュリオスが歩いてくる。
「思い知ったか? 畜生如きが手こずらせやがって」
「蚊に刺されたみてーだな」
「減らず口がァ……!」
「お前……、一体何に対してそないにキレとる」
「あ?」
「本来怒りっちゅうんは……、自身が脅かされることに対して反発しようとする感情やろ。お前、何を恐れとるんや?」
フュリオスは蹲る俺の前で立ち止まると、憤りを貼り付けたような顔を一転、突然笑い出した。
心底おかしなことを聞いたとでもいうように。
「何を笑っとる」
「恐れる、だぁ? このオレが! てめぇらのようなゴミ虫に対して何故恐れる必要があんだよ?」
「…………」
「そういうところが苛つくんだよテメーらは。知った風な口を聞き、勝手にわかったような気分になりやがる。……お前らゴミクズが跋扈してるせいで俺の仕事が増える。
あぁ、クソがッ。オレがこんな臭え場所でゴミ処理をしなきゃならねぇのもそのせいだろうがッ! 弱えくせに一丁前に囀りやがってよォ! 磨り潰してやる。壊す、壊す、——一人残らずぶち壊すッ!」
奴は地面を這う水道管を蹴り付け、手近にある管に拳を叩き込む。
なおも殴る、殴る。
重たい音を立てて菅がひしゃげ、水が漏れ始めた。
俺はフュリオスの異常行動に完全に引いていた。
こいつの怒りは何にでも向くらしい。他者に怒り、世界に憤る。精神、いや心がまるで不完全だ。
やはり狂ってやがるのか。アガニィ同様にこいつも。
エンゲルスという集団は本当に異常者の集まりであるらしい。
「……だからよぉ、オレが全部粉々にしてやる。くだらねえ人間供は全員壊す。じゃねぇとこの怒りは治らねえッ!」
フュリオスの体に蓄積された雷が光を放ち、彼女の怒りに呼応するかのように膨れ上がる。
奴の紫雷は、おそらく特殊な煉気で構築された波導を直接体内にを溜め込んでいる。そしてそれに応じた威力の雷撃を放つ。
波導を直接体に纏うため、ほぼ無詠唱に近い拳闘士のような展開の速い接近戦を可能とする。これもアイン・ソピアルの為せる術か。
認めてやる、こいつは強い。対人戦闘能力に関しては俺より上だ。憤りに塗りつぶされる短絡思考を補って余りある、破壊的な波導力を持っている。
「全員殺して、全部壊せば、それでテメェは満足するってのか?」
「そんなん知るかよ。いいからさっさと死ね——『雷虎』」
フュリオスの雷撃に合わせて体を跳ね上げる。飛び上がった体の下を嵐のような雷撃の牙が過ぎ去る。
「まだ動くか」
奴は俺が攻撃を避けたことに驚いているらしい。モロに雷撃を喰らい、全身感電したからな。確実にトドメを刺せる気でいたはずだ。
「テメェ、その蒸気……気功か」
「よう知っとるやないか」
体、正確には全身の筋肉から僅かに蒸気が沸き立つ。俺はこれでも戦闘特化の術士だ。煉気を使った身体強化——気功も多少は使うことができる。
尤も、基本は波導を使った戦いになるために拳闘士のように熟達しているとは言い難いが。
俺の唯一扱える火の属性、フィルを体内へ取り込み、火の煉気と混合させて全身に巡らせる。——即ち剛気功。
本来は肉弾戦のための気功だが、感電して動かなくなった体の筋力を増強し、強引に動かすことを可能にする。
ただ、剛気功にはデメリットもある。火の属性を付加された煉気は筋肉を焼く。一時的に筋力は増強されるが当然体にかかる負担も大きくなる。
復活した脚力で一気に通路を飛び、フュリオスの射程外へと逃れる。
全身が燃えているようだ。このままでも直に動けなくなる。長くは持つまい。
やるしかねえ。今の戦力差と状況をひっくり返すためには……、あれしかない。
「…………」
「苦し紛れに気功なんか使っても、てめぇはここで終わりなんだよ。両手足を擦り潰してグチャグチャにしてやるよォ!」
俺の内側に居座る、通常の煉気とは異なる力を意識する。馴染みのある赤い炎とは違う、触れるもの全てを無に帰す、蒼炎をまとった鬼。
燃立つ復讐の焔の中に己が身を投じる覚悟はあるか————。
俺は今までこの蒼炎の波導を積極的に使っては来なかった。この炎は自分の肉体すら焼くからだ。
——盟約の印。確かダルクはそう言っていたな。
俺はリッカのように、まだこの力を使いこなすことができていない。この刻印に認められていないのか、あるいは……。
内なる扉を開き、胸の奥から蒼炎を呼び覚ます。
「!」
身体の中心に宿る炎。比喩でもなんでもない。蒼炎が胸に灯り、やがて俺の全身を飲み込んでいく。
「ぐッ……がァッ」
俺に発現する炎を見て、フュリオスが目を見開く。
「蒼い炎……、『盟約の印』か。テメェ如きに使えんのかよ」
この炎が俺自身を灼くのは俺の覚悟が足りないからだ。
拒絶されていたのではない。俺自身が踏み込めていなかったからに他ならない。
強大な力にはそれに見合った代償が伴う。……俺はきっと良心を捨て切れていなかった。
蒼炎に身を投じ、復讐の鬼となる覚悟が足りなかった。
「いいぜ。俺の目的を遂げるためなら——、この命焼べてやる。修羅の道を往くことになろうとも……そこに後悔は、ねえ……!」
——ならば命を燃やし、その目的果たしてみせろ。
全身を灼き尽くす蒼炎が荒れ狂い、勢いを増す。だが、その焔はすでに己が身を焼くことはなかった。
「死に損ないが……とっととくたばれ——、『穿鼓』!!」
「炎刀——『鬼断』」
フュリオスの拳から放たれた紫電の衝撃波。
杖を媒介にして燃え上がった、蒼炎の剣でその波導を打ち砕く。




