第168話 煌炎の軌跡
舞台上では第七試合が行われているところだった。
俺たちは会場の散策に夢中で、まだまともに試合観戦をしていなかった。座席に戻り会場の中央に設えられた円形の舞台上に注目する。
拳闘武会エイヴス杯の勝敗は、相手をダウンさせて規定の時間起き上がれなくするか、場外に押し出すことで決する。
このマルティウス大闘技場の特徴として、まずとても広いリングが上げられる。
そもそもこの施設自体がでかく、収容人数も多い。
舞台上は数百人上がっても収まるくらいの広さがある。よって、ここでは相手を場外に叩き出すよりもダウンを取る戦法が好まれるようだ。
まさに相手を完膚なきまでに叩きのめすため死力を尽くす、拳闘に相応しいデスマッチの舞台というわけだ。
舞台上では熾烈な攻防が繰り広げられていた。
髪を結った金髪のエアル女性が、暗い毛並みをした屈強なネコの男の攻撃を掻い潜っている。
どちらも歴戦といった容貌と挙動で相当な実力者であることが窺える。
舞台周辺には集音系のエアリアを使った拡声器が設置され、風切り音や呼吸の音までも会場全体へ伝えている。
それにここは舞台からさほど遠い場所ではないので、よく見れば対戦者の表情まで見ることができた。
引き締まった体をした女性拳闘士の動きは非常に俊敏だが、相手のネコはそれを上回る疾さ。
おまけに相手の太い腕から繰り出される拳にはパワーもあり、女性の方は分が悪そうに後退しながら攻撃をいなす。
「オラァ!!」
ネコが決定打として大ぶりなフックを放つ。だが女性は攻撃を読んでいたかのように沈み込むと、繰り出される豪腕を体を落として回避した。
「しっ!」
その体勢から地面を強く踏み抜く。
「ぐがおおっっ!!」
女性選手は鋭い回転蹴りで男の顎を蹴り上げた。
蹴りがクリーンヒットした男は体ごと後ろへ吹き飛び舞台を転がっていく。
女性は回転蹴りの勢いのまま跳躍した後華麗に着地を決めた。もろに攻撃を食らったネコは舞台上に沈み、動かない。
審判が男に近寄り、カウントを始める。男は起き上がることができず、ついに勝敗が決したようだ。
会場から歓声が湧き上がると、女性は誇らしげに観客に向かってアピールする。
「すごい蹴りでした」
「うん。みんな強者だなぁ。ここまで勝ち上がって来ただけあるよ」
「第七試合、勝者は——」
司会の声が会場に響く中、舞台上にひっくり返っていた男がむくりとおき上がるのが見えた。
そして彼は無言のまま対戦相手の元へ歩いていく。
その行動に妙な違和感を抱いた。ただ静かに歩くだけなのだが——、いや、たった今ノックアウトされた人間があんな風に平然と歩けるものだろうか。
審判の男が彼を制止しようと近寄っていく。
無理に動こうとするなと諭そうとするためだろうが、しかし近づいた審判の男はネコの剛腕によって弾き飛ばされた。
会場からどよめきが起こる。
ネコは尚も女性に向かって止まることなく歩いていく。その目に怪しい紫色の輝きが宿っているのを見た。何かやばい感じがする。
対戦相手の様子が異常であることを女性も感じ取ったらしい。
勝利の余韻に浸っていた彼女は、間合いに近づく男に対して再び果敢に構えをとる。
「だめだっ! そいつは————」
流れるような動作で近づき、風を纏った蹴りを繰り出す——と見せかけ、女性はフェイントを加えて急遽逆回転、反対方向から流れるような空中回し蹴りを男の横顔に叩き込んだ。
男はその強烈な一撃を躱そうとすらせずに受ける。常人なら首がへし折れそうな重たい打撃音が会場に響き渡った。
側頭部に蹴りを受けた男は衝撃に首を傾けながらも笑った。喜び、否。狂気の笑みだった。
「俺のモンだ……。優勝も、賞金も、名誉も全部……だ」
「うあっ!」
ネコは打撃をものともせず、側頭部にめり込んだ女性の足を掴み。
彼女はその手から逃れようともう一方の足で男の前腕を打つが、男はまるで堪えた様子がなかった。
そして猛烈な勢いで、足を掴んだ女性を無茶苦茶に振り回し始めた。
「げはははははははッッ!!」
目には怪しい光を宿し、口からは涎を振りまきながら女性を前後左右に振り回し、地面に叩きつける。
あまりに壮絶な敗者の暴挙に観客席からはどよめきすら消えて無くなった。
「なんなんだよ……あいつ」
「ひどい……」
男の狂った嗤い声と、もはや抵抗できなくなった女性の苦悶に呻く悲鳴が静まり返った会場に木霊する。
こんなのは、もう試合とは呼べない。
そしてネコは無茶苦茶に叩きつけた女性を直上へ放り投げた。
彼女には空中で姿勢制御をする力すら残っていないようで、人形のように体に力が入らないまま空中へ投げ出された。
下からそれを見上げる男は、両腕を広げ落ちてくる彼女を待ち受ける。トドメを刺す気なのか。
突然の凶行に対し咄嗟に動けたものはいなかった。
それが目の前で行われた行為だとしても、見世物を見ているというどこか他人事としての意識から抜け出すことは難しい。
だが、この場にはそうではない者も確かに存在していたのだった。
観客席を熱風が煽った。風が巻き起こり、髪や衣服の端がばたばたとはためく。
そして突然の強風は光と熱を伴っていた。
煌く炎が空中に揺らめく。眩い炎の軌跡を描いて客席から飛び出すものがあった。
その人影は目にも留まらぬ速さで舞台上を駆け抜けた。
落ちてくる女性を空中で受け止め、舞台の上に彼女を抱えて降り立つ。
すらりとした長身の男が舞台に降り立つと、会場を煽った熱風が彼の周囲を渦巻き、そして吹き晴らされていった。
「酷い怪我だ。すぐに手当てをする。少しだけ待てるかい?」
「アンタは……」
炎風をその身に纏って現れた男は抱えていた女性を舞台に下ろし、座らせると女性を庇うように男の前に歩み出る。
彼は非常に整った目鼻立ちをした柔和な表情を引き締め、男を正面から見据えた。
「酷いことをする。もう決着はついたはずだろう」
「まだだぁ……、そいつの息の根を止めるまで終わらねぇッ!」
「やれやれ、聞く耳持たないか。それなら僕が相手になろう」
突然現れ、鮮やかに女性の窮地を救った男を見て師匠が呟いた。
「あれは……『煌炎のルクスフェルト』」
「!」
「なんやて、あいつが……?!」
ルクスフェルト・ユーヴェイン。その名は有名だ。
能力の突出した波導術師が揃う王宮神官の中でも、最強の使い手との呼び声高い人物。
配達局で働いていた頃も、他の地域で手に負えない凶悪なモンスターを討伐したとか、犯罪組織をたった一人で壊滅させただとか、彼の神官としての活躍を聞く機会は多かった。
王都では老若男女に慕われる英傑で、子供達にとってはヒーローのような存在だ。
正気を無くしたネコは、彼の言葉を聞くこともなく襲いかかる。
床を蹴り付けて加速し、地面と水平に跳んで大きく腕を振るう。
「ヌッ?!」
客席の上を再び風が駆け抜けた。ルクスフェルトに向かって飛びかかった男はその直前で動きを止める。
彼は白い手袋をはめた右手を男に向けて突き出している。そこから渦巻くように放たれる風の奔流が、男の突進の勢いを完全に殺し切っていた。
「彼女には指一本触れさせないよ」
「うぅがあぁッ!」
風に攻撃を阻まれた男はその場で体を回転させる。
吹き付ける風の防壁を回転の勢いで強引に切り裂き、露わになった鋭い爪がルクスフェルトに向かって振り下ろされる。
彼はその爪を、持ち上げた左手前腕でなんなく受け止める。見ていてまるで衝撃を感じない軽い動作だ。
爪撃を防がれた男はさらなる追撃を放とうとするが、ルクスフェルトが術を放つのはそれよりも速かった。
「落ちよ、『槌』」
「ぬがうゥッ!」
重量のある見えない物体が落ちてきて、その下敷きになったかのように男は舞台の上に転がった。
まるで押さえつけられているかのように動けないらしい。
「しばらく頭を冷やすといい。拘束せよ、『鉄檻』」
土俵から鉄柱が生成され男の体に沿って絡みついていく。
ネコは地面に拘束され、うつ伏せた状態で完全に身動きを封じられた。
ルクスフェルトは振り返って女性の元へ歩み寄り、片膝をついて間近で彼女の様子を確かめるとその頬に優しく手を添えた。
「……酷い奴だ。女性の顔をこんなになるまで殴るとは。——清浄なる光雫。慈愛の雨恵となり傷口を潤せ、『高位治癒』」
彼女の体全体がほんのりと青い光で覆われる。
ぼうっと彼の顔を見上げる傷ついた女性に向かって、ルクスフェルトは彼女を安心させるように優しげに表情を緩める。
「高位の治癒波導? 痛みが、消えてく……」
「大丈夫、ちゃんと元どおり綺麗な顔に治るよ」
「は、はいっ……。ありがとう、ございます……」
鍛え上げられた肉体をした女性拳闘士は、地面に座り込んで乙女のように恥ずかしげに彼の波導を黙って受け入れいていた。
警備の任につく者達が舞台に上がり、地面に拘束された男の元へ駆けつける。
男はまだ未練がましくもがいていた。
男の眼光が急に強さを増したように見えた。次の瞬間、硬い物が砕け散る音と同時に男が鉄の拘束を力で引きちぎり、猛然と二人に飛びかかって行った。
「俺はぁ……、負けねええええぇッ!!!」
女性の表情が驚愕に見開かれる。背を向けるルクスフェルトに鋭い爪が迫る。
「もう戦いは、終わったんだ————」
片膝をついて屈んでいた彼の姿が一瞬のうちに、炎の残滓を残して搔き消える。
舞台上を煌ける炎が閃いた。一体何が起きたのか、客席から事態を見守る者達の中でもきっとそれを理解できたのはごく一部だろう。
気づけばルクスフェルトは男の背後に背を向けて立っていた。
男は急に勢いを失い地面に倒れ込む。もはやぴくりとも動く様子はない。
ルクスフェルトが駆け抜けた射線上には、地面の上で燃え残る炎が点々と眩しく燃えていた。
彼の一瞬の、しかし間違いなく達人級の技によって呆気にとられていた観衆が、息を吹き返したように声を上げる。
会場に集った大観衆は諸手を上げ、突然の凶行に走ったネコの拳闘士から女性を見事に守りきったルクスフェルトを褒め称える。
マルティウス大闘技場は、英傑の気高き行いによってその日一番の大歓声に包まれた。




