第162話 緑の庭
何処までも青い空と、窓外を流れていく雲を眺めながら、フウカは憂鬱を感じていた。
彼女の眼下には塔や丸屋根の巨大な建造物がひしめいている。
フウカはエイヴス王国王都、その中心に位置する王宮オフィーリアにいた。
ここへ連れてこられてからどれくらい経っただろう、とフウカは考える。
彼女が王宮に滞在し始めてから既に一ヶ月近くが経過していた。
フウカは食べ物や住む場所に困ってはいなかった。それらは全て彼女が何もせずとも用意された。
今朝も邸宅の使用人だという女性が用意した白い服と青いローブに着換えさせられ、彼女に髪を結ったり身だしなみを整えさせられていたのだった。
フウカの世話をする背の高い、シャルルという名のコッペリアの女性は恐ろしく無口で、話しかけても卒ない返答を短く返すだけであった。
「フウカ様。レイトローズ王子殿下がお見えです」
「うん」
ノックをして部屋の扉を開けたシャルルがレイトローズの来訪を告げる。
彼がこの邸宅――フウカの元々暮らしていたという屋敷を訪れるのはほとんど毎日のことだった。
シャルルについて部屋を出て、廊下を歩き階段を降りると、この王宮でも並ぶ者のいない美貌を持つ青年が彼女を待っていた。
「おはようございます。フウカ様」
「おはよう、レイトローズ」
フウカとレイトローズは天井の高い、大きな窓から明るい日の差し込む応接間で挨拶を交わした。
高価そうな柔らかい長椅子にテーブルを挟んで腰掛ける。
ナトリ達の元から強引に連れて来られたこともあり、フウカは彼の事が少し苦手だった。
目覚めて暫くは口もきかず、相手にしようとはしなかった。
結局は無視しても根気よく対話を続けようとするレイトローズの姿勢に負けることとなったのだが。
「屋敷にはもう馴れましたか」
「まだ……。本当にここが私の家なの?」
「ええ。フウカ様は王宮神官になられてからはここで暮らしていました」
自分が王宮に仕える神官という国の重職であることを、フウカはレイトローズから教えられた。
突出した能力を持ち、王室の権威と国を守るためその力を振るう選ばれし術士達は神官と呼ばれ、国民からも信頼と名声を集める存在だ。
そんな話を聞いたところで、フウカには何一つ実感が湧くことはなかった。
「こんな大きな家に、たった一人……」
自分は元々孤児で、血の繋がりのある親が誰か分からないという事を聞いてもフウカは落胆しなかった。
もしかしたらそうなんじゃないか、と以前から彼女は予感していた。
フウカの才能を見出し、王宮に連れてきたのは、古くから波導や刻印の研究が伝統的に行われるミグランス大学校で波導術の教鞭を取っていたサンドリア・アンティカーネンという人物だった。
だがフウカの保護者である彼女はさる事情により今現在大学を不在にしていた。
療養のためと届け出は出されているが、詳細は不明である。
そしてフウカは自分の家に帰って来たにも関わらず孤独を感じていた。
「まるでよその家みたい」
彼女はナトリと行ったクレッカの、彼の実家での生活を思い出す。
この屋敷に比べれば小さくて多少古いが、あそこには人の温かみや穏やかな空気があった。
「あの時のこと、まだ気にしておられますか」
「もういいよ……。勘違いだったんでしょう」
「申し訳ありませんでした。しかし貴女は王宮に必要な方だ。あの時の行動を誤りだったとは思っておりません」
王子は深く、澄んだ宝石のような青と赤の瞳でじっとフウカを見つめる。
心の底まで見透かされるようで、フウカはどうにもその眼差しが苦手だった。
「今日は、サンドリア教授の住居へお連れしようと思い参上しました。神官となり、ここへ移る以前フウカ様はそこで彼女と共に過ごされていましたから」
「私の、親代わりだった人」
「そうです。外に船を用意してあります。早速参りましょう」
屋敷の前に浮かんでいた小型の浮遊船に二人は上がる。
見送りに出て来たシャルルが背筋をまっすぐ伸ばして立ち、頭を下げた。
船はその場で上昇し、巨大な王城を横目に屋根を越え、尖塔の間を抜けながら飛んでいく。
「レイトローズ、あなたは王子様なんでしょ。どうして私に関わろうとするの?」
「それは……」
王子の美しい眉が歪められ、その表情に影が落ちる。
彼はまるで痛みを堪えるかのように俯きがちになって言葉を続けた。
「神官は王国の象徴であり、国力の証でもあります。フウカ様の治癒術は替えの効かない類稀なる才能です。失うわけには参りません」
「そう……」
実際フウカが王宮から姿を消した後も、神官の驚異的な波導治療を求める請願は絶えることなく続いていた。
彼女は一日も早くその務めに復帰する事を求められてもいたのだった。
§
王立ミグランス大学で白波導を研究し、授業を受け持つサンドリア・アンティカーネンはその筋では有名な術師であった。
学生時代彼女に指導を受け、多大な影響を受けた術士は多い。
王宮上層の居住区にある彼女の邸宅は広くて緑豊かな庭が特徴的な屋敷だった。
建物自体は少々古くどちらかといえば質素で、装飾も華美とは言えないが。
彼女がここしばらく家を空けているために屋敷は非常に静かであった。建物の裏手に広がる庭から聞こえる鳥の声以外に物音はない。
フウカとレイトローズは屋敷周辺を見て回った。
古い石壁と木々によって遮られ、庭の中はよく窺えない。
木々の上から庭を見下ろそうと、高く飛ぼうとするフウカをレイトローズが制した。
「屋敷の者は現在出払っているようです。庭に入りましょう」
「いいの? 勝手に入っても」
「施錠された邸宅内はともかく、ここは元々フウカ様の家でもあるのですから」
「確かにね」
「こちらへ」
レイトローズは庭を囲む白い石壁を回り込んでいく。少し歩くと茂みの影になる場所に壁の一部が崩れ穴が空いている箇所が見つかった。
そこから庭に入り込むことができそうだった。彼は高い背を屈めて壁の亀裂を潜る。
「頭上に気を付けてください」
「ねえ、どうしてこんな抜け穴を知ってるの?」
「……以前私もここに来た事があるのです」
レイトローズは狭い壁の合間を歩きながら振り向かずに答える。二人は庭の内部に出た。
少し伸び始めているが、下草の生えたきれいな庭だった。
走り回っても狭さを感じないほどに広く、周囲をぐるりと緑に囲まれ、ここが王宮である事を忘れさせるような場所だ。
「ここって……」
フウカは庭へ踏み込みながら呟いた。
明るい光の差し込む長閑な緑の庭の中程に、白い石で造られた東屋が見える。
フウカの視線はその風景に釘付けになっていた。
東屋の屋根の下、金髪の女性がこちらに向かって優しげに微笑みかける。
そよぐ風、緑の匂い、明るい陽の光が降り注ぐ下草の庭。
それらの記憶がフウカの中でフラッシュバックし、目の前の風景と重なり合う。
「そうだ。私、ここにいた。ここで暮らしてたんだ……」
「思い出したのですか?」
「うん」
レイトローズがわずか期待を込めた視線をフウカに向ける。
「それでは私のことも……?」
「ごめんなさい、全部は……。でもここ、確かに私の記憶にある場所だ……」
王子はそれを聞き、フウカが気づかない程度に少しだけ落胆した表情を浮かべる。
フウカの記憶にあった庭は、同時に当時の感情にも結びついていた。
懐かしい思いと同じくらいに何故か切ない気持ちが胸の奥から込み上げてきていた。
自分はとても大切な事を忘れている、とフウカは思った。
「レイトローズ、サンドリアさんっていう人は金髪で、優しそうな顔の女の人?」
「ええ、そうです。教授はとても優しい人でした」
王子はアンティカーネン教授のことを思い出しているのか、どこか遠くを見るように陽の当たる芝生を眺めた。
フウカは自分の保護者であるサンドリアという人物について思い出そうとするが、彼女についての記憶は非常に断片的で頼りにはならない。
「現在、アンティカーネン教授とは連絡が取れなくなっているそうです」
「どこにいるかわからないの?」
「はい……。大学には本人から休職の届けが出されているそうですが、誰もその後の行方を知るものがいない」
「そう……なんだ」
風に揺れる伸び始めた芝生を眺めながら、フウカはサンドリア・アンティカーネンの事を思った。
自分は彼女に会わねばならない。
心の底から幽かに浮かび上がる記憶の断片は、フウカにそう訴えかけているように思えたのだった。




