第16話 波導の力
「ナトリを傷つけるのは許さないっ!」
「コバルト、離れろ!」
ユリクセスの二人は同時に飛んで俺たちから距離をとる。
「こいつ波導使いだ。油断するな」
「生け捕りは無理だぜ、スカーレット。殺っていいか?」
「もう拘らなくていい」
男も刃物を取り出す。二人はじりじりと俺たちとの間合いを図っているように見える。
俺はフウカにだけ聞こえるように囁いた。
「右後ろに飛ぼう。いったん下がってから大通りを目指す。なるべく屋根すれすれを飛んで」
「わかったよ」
俺の手をフウカが掴む。奴らを睨んだまま体が浮いた。
後方に位置する建物の屋根に着地し、すぐさまフウカは右へ飛んだ。
大棟すれすれを超えながら屋根の上を伝っていく。
一旦路地へ降り、方向転換してまた屋根に上がる。
あと少しで人の多い明るい通りだ。
「オラッ!」
暗い路地を飛び越えようとした時、下から先回りをしてタイミングを窺っていたらしい男が、飛び上がって体の回転をかけながらナイフを叩きつけてきた。
フウカは咄嗟に反応し、甲高い音と共に波導障壁によって刃は防がれた。
少し勢いを削がれたが、彼女は再び屋根の上を飛び始める。
「上だっ!」
闇に溶け込んだ女が両手にナイフを握って落ちてくる。
フウカの接地の隙を狙って降ってきた女は頭上から落下の勢いのままにナイフを振り下ろした。
頭上に波導壁が形成され、刃を防ぐ。
だが女の体重と落下速を加えた一撃は壁を少しだけ貫通した。
激しい音が響き、薄く光る波導壁との摩擦で飛び散る光がナイフの刃に躍る。
「うううっ!!」
真昼のように照らされたフウカの白い顔が苦しそうに歪む。
透明な壁にビシッと音を立てて亀裂が入り、その直後壁は砕け散った。
「きゃあっ!」
俺とフウカは破裂の勢いで弾き飛ばされた。
すぐ近くに倒れたフウカを助け起こして女の方を警戒する。
「大丈夫か!」
「うん……、大丈、夫」
くそ、もう少しで大通りなのに。
女はゆっくりこちらに歩いてくる。もうすぐそこまで迫っていた。
俺たちの前に再びフウカの壁が形作られるが、構わず女は歩み寄る。そのまま壁にぶつかるかと思われた時、ガキンと音がして壁の向こうにさらにもう一枚、透明な壁が現れた。
「波導が使えるのはアンタだけじゃない」
この女、波導使いか。道理で腕に自信があったわけだ。
フウカの壁が奴の壁に押され、軋みを上げた。
「この程度か?」
口に薄ら笑いを浮かべ、女はさらに一歩踏み込んで大きなナイフを構える。
「あいつらの恨みだ……その身で受け止めな!」
その時俺が微妙な風の変化に気がついたのは偶然だった。
男の姿が見えないことが頭の片隅にあったので、どこかで警戒していたお陰かもしれない。
闇夜を切り裂いてもう一人の男が俺たちの後上方から飛び込んでくるのに反応できた。
けれど奴はもうすぐそこまで迫っていて、フウカに伝えていてはとても間に合わないと思った。
「フウカッ!」
咄嗟に俺は彼女の背後に回り、体全体でその背中を覆った。
右肩口から左脇腹にかけて、背中をスウッと冷たいものが過る感触。
体の中の骨、肉、内臓などを異物が撫でる気味の悪い感覚。
「ザコが」
「ナトリ……?」
背中を斬られた。ザックリと。
急速に体が冷えていく。フウカの体から離した手はぶるぶると震えている。
見下ろすと、赤黒い血がつうっと地面に垂れた。
ああ。これ、やばい。
体の奥が、燃えるように熱い。でも表面はなんだか寒くて……。
それでも持てる限りの力を足に力を込め、震える足腰を支える。
「前を見ろ、フウカ……」
「え……」
「――手に思い込んで襲ってきて……」
「あん? 何を言ってやがる」
底冷えするような悪寒が全身を揺らすのに、胸の奥では激情とも言える感情が渦巻いている。
感じるのは身を焦がすほどの激しい怒りだった。
「勝手に思い込みで襲ってきやがって――。言いがかりでフウカを殺す? クソが! お前らにはもう散々な目に合わされてんだよ……ッ!!」
無言でナイフを構える女を睨みつける。
「フウカは何も悪くない! それどころか記憶をなくして困ってる。そんな子を思い込みで殺すだと? 許されるわけないだろ……お前らがやってきたこともだ! お前らのせいで……、なんの罪もない子供が、二人も! 死んだんだ!!」
自分のことは、とうの昔に諦めた。
それでも誰かが、身近な者が、俺に親しみを向けてくれる人が理不尽に虐げられるのは許せない。
フウカの肩に震える手を置く。
「……こんな外道に負けるな、フウカ。こいつらは人としてやっちゃいけない事をした。大人しく殺されてたまるかよ……!」
「ナトリ……!」
最後まで抵抗してやる。思い通りにさせてたまるか。
ふらつく足で後ろを向く。男の方は被ったフードの隙間から憎しみに淀んだ赤い瞳でこちらを睨めつけている。
殺人者の目だ。俺と男の間にもうっすらと透明な壁が現れた。フウカの波導だ。
フウカを守りたい。でも俺は守られてばかりだ。できるのは壁になることくらいだが、それでも彼女だけは死なせてなるものか。
彼女を助ける。それが俺の選択だ。そのために、どう行動すべきか……。
意識が霞み始めていた。
その時突然右手の違和感、いや異物感を自覚した。
手を持ち上げてその正体を確認する。
俺の右手には三日前バラム遺跡で拾った後、落として失くしたはずのたはずの星骸の杖が握られていた。
何故これが今ここに。いや、それはいい。これが、フウカを守る力が今確かに俺の手の中にある。フウカに小声で語りかけた。
「フウカ、まだ飛べるか」
「はぁ、はぁ……、うん、大丈夫……!」
フウカの消耗が激しい。あと少しだけ我慢してくれ。
「さっきの合図で思いっきり大通りまで飛んでくれ。大丈夫。今度はきっと上手くいく」
「わかったよ」
彼女の返事を聞き終わると同時に女の方を振り返り、フウカの肩越しに白銀の杖を構えて狙いを定めた。女の血色の目が見開かれる。
「この波導障壁がある限り、そんなもの————」
思い切り杖の引き金を引く。
確かな反動と迸る閃光。杖から放たれた輝きは二枚の障壁をあっさりと貫通して一直線に女の胴体へと突き刺さり、そのまま体を通り抜けた。
「なっ」
女はがくんと膝を落とし、床に手をついた。
「スカーレット!!」
フウカの壁を侵食していた女の波導壁は微かに揺らいでふっと消滅した。
すぐにフウカの手を握る。抜けそうになる力を腕に集めてそこだけは離さないようにと気を張った。
フウカが両足で地面を蹴って飛ぶ。民家の屋上で蹲る女とそれに駆け寄る男の姿が瞬く間に遠のく。
俺達は街に散らばる家の明かりを見渡せる高さまでぐんぐんと上昇し、頂点に達した後ゆっくり弧を描くように落ちていく。
その先は明るい黄色の光が埋め尽くす街の大通り。光の世界はすぐそこだ。
逃げ切った。ほとんど力の入らない体でフウカに手を引かれるままに飛び、風を掻き分けて落ちていく。
見上げる天上は星屑の川だ。
どこまでもその中を落ちていく。どこまでも、どこまで、も…………――――――。