第153話 帰途
眼前には蒼穹がどこまでも広がっている。
俺とクレイル、リッカの三人は並んで久しぶりの青い空に浮遊船の手摺越しに見入っていた。
空が青に戻ったということは、船はミルレーク諸島を抜けてイストミルの空域に入ったことになる。
そう、この船はカナリアではなくプリヴェーラのあるガストロップス大陸に向かう船だ。
「これが……青い空、なんですね……」
「おう、リッカは初めてやったな」
青空を見てリッカが感嘆の声を漏らす。
「はい。……すごいです。こんなにも澄んでいて綺麗な青、初めて見ました」
「ミルレークじゃ何もかも黄色や茜色に染まっとるしな。青色なんて珍しいやろ」
「青い空を見るの、ずっと夢だったんです。忘れてしまっていたけど……」
俺とクレイルが甲板に設置されたラウンジテーブルまで引き上げても、リッカはしばらくふわりとした金髪を風に靡かせながら空の向こうに思いを馳せるかのように手すりに手を置いてじっとしていた。
§
「本当に、よかったの?」
「はい。もっとオリヴィアと過ごしたい気持ちはあります。でも、私の行動には彼女を含めた多くの人々の命が懸かってる。そう考えたらあまりゆっくりしているわけにもいかないなって思いました」
「そうか」
「それに」
リッカは決意に満ちた表情を少し曇らせると、俺に聞いた。
「大丈夫ですか……、ナトリさん」
「うん、俺は大丈夫」
「…………」
正直なところ久しぶりの青空を見ても気分は晴れなかった。
腹をさする。まだ痛みは消えない。この鈍い痛みは昨日の出来事を思い起こさせる。
港へ向かう途中に突然現れ、俺たちを襲撃した三人組。
白いローブを着込んだ、身なりの良く整った顔をしたオッドアイの青年と二人の黒衣。
奴らによってフウカは……あっさりと連れ去られてしまった。
俺たちは立てるようになってすぐ奴らを追って港へ向かった。しかし港へ入ったときには、すでに一隻の浮遊船が遠く空の向こうへ港を離れていくところだった。
「奴らの行き先はおそらく王宮や」
離れていく船を見て焦る俺の隣で、クレイルが呟いた。
「王宮だって……?!」
「ああ、お前らも聞いたやろ。あのキザ男、レイトローズと呼ばれとった。『殿下』ともな」
「ええ、聞きましたけど……」
エイヴス王国の王家には六人の王子がいて、その中の一人がレイトローズという名であるとクレイルは語る。
当の王子は女性のように美しい容姿をしており、赤と青のオッドアイであると庶民の間でも有名な人物なんだそうだ。
身なりもよく、あの男は外見からでも育ちの良さが窺えた。
高貴な家の出であることは間違いないだろうし、あの赤と青の瞳は強烈に印象に残る。
「王族……」
クレイルの意見を聞いて、俺たちはすぐに船を追う気にはなれなかった。
本当に王家の人間だったら俺たちにはどうすることもできない。
なぜ王宮の人間が、それも王子直々にフウカを探していたのか。
結局俺たちはその理由を知ることもできなかった。
俺はもう二度とフウカに会うことはできないのだろうか。あれが今生の別れになってしまうのか。
「…………」
テーブルを囲む俺たちは黙り込んでしまう。フウカを奪われてしまったことで各々の気持ちが塞いでいた。
俺は何もできなかった。無力感が胸中を苛む。
これからどうするか、その話し合いの口火を切ることすらままならず、俺たちは言葉少なに青空と流れていく白い雲を眺めていた。
§
「ここがナトリさんのお家……」
「うん。遠慮なく上がってよ」
一週間ほどかけて水の都プリヴェーラの自宅へと帰り着き、リッカを部屋へ案内した。久しぶりの我が家だ。
「わぁ、素敵なお部屋。プリヴェーラって何もかもが可愛くて、すごくおしゃれな街なんですねっ!」
リッカは目を輝かせながら部屋の中を見て回っている。
ミルレークから連れてきたリッカをいきなり宿に一人押し込むのは忍びなく、俺の部屋は元々フウカと二人で暮らしていたから十分な広さもあったし、しばらくウチに住んでみてはどうかとダメ元で提案してみた。
断られるだろうと思ったけど、彼女は二つ返事で了承してくれた。
リッカは少しそわそわしているように見える。そのうち慣れてくれるといいんだが。
旅の荷物を片付けているとフウカの使っていた道具が目に入る。
橙色の長い髪が絡まった櫛や、衣装箪笥に入れられたお気に入りの服。
思わずそれらに手を伸ばしかけたが、思い直して静かに棚の扉を閉じた。
簡単な片付けが済むと二人で居間の椅子に腰掛け、沸かしたお茶で一息入れる。
「早速だけど、俺は明日から狩人の仕事を再開しようと思う」
お金には多少余裕があるとはいえ、遊んでいるわけにはいかない。この家は結構家賃も高いし。
「モンスターを狩るんですか?」
そういえば、彼女には俺が狩人をやっていることを説明していなかった。俺はリッカに本来の稼業が狩人であることを説明した。
「そうだったんですね。勝手に配達のお仕事だと思ってました」
「実際数ヶ月前までは王都で配達員をやってたんだけどね」
「動きが普通の人と違ったのは、日頃からモンスターと戦っていたからなんですね」
「まだまだ駆け出しの狩人だよ。それで、仕事の合間に厄災や神様のことについて調べていこうと思うんだ」
リッカを縛る色欲の厄災アスモデウスから彼女を解放するため、俺達はもっと厄災について知る必要がある。
調べていけば、何か現状を変える鍵になるものが見つかるかもしれない。
ほんのり湯気を立てるカップを両手で抱えたリッカは、それを聞いて少し安堵したような顔になる。
「ありがとうございます。ナトリさんがいてくれると……すごく心強いです。あの、私もついて行ってもいいですか?」
「リッカも狩りに行くってこと?」
「はい。厄災をなんとかするために、自分の波導や盟約の印の力をもっと知ることが必要だと思うんです。それに、お世話になりっぱなしじゃ悪いですから私もお金を稼ぎたいです」
「すごく助かるよ。わかった、明日は一緒に行こう」
リッカの黒波導はとても強力だ。一緒に来てくれるなら心強い。
フウカは今頃王宮にいるのだろうか。同じ日にリオネラを発っているから、直行していればもう着いている頃だろう。
きっと知っている人が誰もいない場所にいきなり連れていかれて途方に暮れている。酷い目に遭っていないだろうか……。
思わず考え込んでしまう。フウカが思い出したという新しい記憶。その中には王宮らしき場所があったと言っていた。
彼女は元々王宮にいた。だから王子様一行はフウカを連れ戻しにやってきた。
そう考えるのが自然だ。レイトローズ王子からの扱いを見るに、彼女自身もかなりの身分であることが窺える。
フウカは本来いるべき場所へと帰ったのだ。もしそうなら、俺が彼女にできことは本当にもう何も無い。
何も……ない。
「ナトリさん」
不安そうな顔でリッカが俺を覗き込んでいた。
「ごめん。ちょっと考え事してた」
「フウカちゃんのこと、ですよね」
「……やっぱりわかるよな」
「私にできることがあれば、なんでもお手伝いしますから。お料理もちょっとはできますし、頼りにしてもらえると嬉しいです……」
リッカの優しさが身にしみるようだ。
もしかしたら彼女は、俺を気遣って一緒にプリヴェーラまで来てくれたんだろうか……?
だめだな。もっとしっかりしないと。リッカは俺以上に大変な境遇にある子だ。
側にいる俺が頼りなかったら彼女は困ってしまう。
「私はいつでもナトリさんの側にいますから……。これからどうすればいいのか、私も一緒に考えたいです。ナトリさんが私にそうしてくれるみたいに」
リッカの健気さに思わず涙が出そうになる。
やっぱり俺はまだ、フウカと別れたことで動揺しているのかもしれない。
「……俺のことは大丈夫。ありがとなリッカ。これから色々大変だと思うけど、二人で頑張ろう」
「はい……っ」




