第148話 恋人と悪魔
アスモデウスの鋭い爪に体を引き裂かれて、気がつけば私は闇の中を墜落していた。
おそらくここは、アスモデウスの中に存在する強大で底知れぬ闇の世界。
耳元で深淵から吹き付ける暗黒の風がごうごうと鳴り響く。
私が厄災と一つになったのは一方的に支配されたことだけが原因ではなかった。
私自身もそれを望んだ。停滞した世界の中で、過去、既に失われた人々を呼び戻すために。
影の中に心を沈めて安寧を得るため、私は彼女の誘惑を受け入れ、その力に縋った。
そして色欲の厄災はそれに応え、私という存在を完全に影で塗りつぶすことなく時空迷宮の中心へと隔離した。
私の中に彼女が流れ込んできたのと同じように、彼女の中にも私が入り込んだのだ。
最早、切り離すことはできそうにない。
アルノート=リッカ・マグノリアという存在は厄災そのものとなってしまった。
でも、完全に一つになったわけじゃない。同じ存在でありながら私たちは二つの側面を持ち合わせる。
「これがあなたの本質……。あなたを突き動かすもの」
どこまでも、どこまでも広がる終わりの見えない深淵。一切の光を失い横たわる果てしない闇。
人の力で、人の心で、果たしてこんなものを理解できるのか。
「……それでも。それでも私はあなたと向き合うってもう決めたから」
私を取り囲む闇が荒れ狂うように呻る。
私を飲み込もうと、影が身体の内側に入り込んで来る。私の体を、存在そのものを侵されていくような感覚。
……怖い。視界が影に覆われていく。呼吸が浅くなり、苦しい。
そのとき、闇を切り裂くように白い光が溢れ出した。
ダルクから渡された盟約の印が光っている。手首に文様が浮かび上がり激しく光を放つ。
私を包み込んだ闇は突然の白光に怯んだようにざわざわと引いていく。
ありがとう、ダルク……。これがなければ、きっと私はこの闇に飲まれてしまう。
ダルク、ナトリさん、みんな。
目を閉じて必死で厄災と戦っていた人達の顔を思い浮かべる。みんなのためにも、私は……。
目を開け、遥かなる深淵を見下ろす。
「私は弱くて力もないただのエアル。なんとかできる、なんてとても言えないけど……。それでもあなたの内側で暴れ狂っているこの闇を、なんとかする方法を探してみようと思う。それが私が、ううん、私たちが歩むべき道だと思うから」
体の力を抜き、墜落するがままに任せる。
闇を恐れる必要はない。この闇はもう、私自身でもあるのだから。
「だからお願い。今は私に全てを委ねて」
「図にノルな。塵芥」
周囲の世界そのものが私に憎悪という牙を剥く。
体の芯まで染み渡るような負の感情だ。
全身に鋭い牙をあてがわれているような錯覚、じっとりとした汗が噴き出す。
でも……、引けない。私が厄災をなんとかしなきゃ。
「ダルクの『印』は、あなたの力を抑える枷。でも、私の命が尽きればあなたはどのみち自由になってしまう。あなたにとっては人の一生なんて大した時間ではないんでしょう? だったら、あなたはただ時を待てばいい」
「忌々シイ神の力……。それサえなけレば貴様ナど」
「……私があなたをどうにかできる方法を探す。見つからなければ私は死に、その時あなたは自由になれる」
「矮小ナる者、我に取引ヲ持ちかケるか」
怨嗟の感情が噴出し、爆発的に世界を覆う。体が軋みを上げ、火がついたように熱くなる。
持ちこたえてみせる。ダルクや、ナトリさん。みんなが私を守ろうと一生懸命に戦った。
そして私も一緒に戦うことを選んだんだから。
「……楽ニ死ネると思ウな。お前のチからガ弱マった時、そノ四肢ひキ裂いてヤる。——せいゼい足掻け。にンげん」
「私は最後のその時まで足掻くよ。……私の罪は消すことができない。それが、私が公国のみんなにできる唯一の贖罪だから」
ナトリさんなら、きっとそんな風に言ってのけるはず。
私の選択はきっとこれから多くの人々を巻き込む。到底一人で背負い切れるものじゃない。
それでも彼は言ってくれたから。自分にも背負わせろと。
私はナトリさんを信じる。ダルクを信じる。
これは覚悟。振り返らない、未来へと歩むための……。
全てを覆っていた闇のざわめきが収まっていく。闇が晴れていく。
やがて周囲は乳白色の柔らかい光に満たされていき————。
「————ワすれルな。いツもお前ノのド元にかカる牙ヲ」
♢
厄災に胸を貫かれたリッカの元に駆けつけ、奴の腕を切り落とそうと剣を振りかぶった時、ふいにアスモデウスの姿が揺らいだかと思うと次の瞬間にはすうっとその姿が消え失せた。
支えを失い倒れそうになるリッカを受け止める。
地面に座らせ、上半身を支えながら問いかけた。
「リッカ! 傷は……」
貫かれた胸の辺りを確認するが、どういうわけか傷は見当たらない。
何かの術で凌いだのか? 体から力は抜けているけど、彼女は無事なようだった。
「すみません……。ナトリさん」
「厄災の姿が見えなくなった。どこからか現れて攻撃してくるつもりだ」
「それは大丈夫、です。もう襲ってこないはずです」
「え?」
リッカは少しだけ安堵したような表情を浮かべ、俺を見上げる。
その瞳には何か決意でも秘められているかのように強い光が宿っていた。
「色欲の厄災は私の中に。私じゃ彼女を封印することはできないけど、力を抑えることはできる。それに、今は大人しくしててやると言ってました」
「厄災が……? それじゃ、もう……大丈夫、なのか?」
「はい……」
彼女は俺を安心させようとするかのように微笑んでみせる。
優しい笑顔だった。それを見て、俺も少しだけ力を抜く。本当に……戦いは終わったのか。
「すごいよ、リッカ。あの伝承の厄災と渡り合って、押さえ込んでしまうなんて。君はスカイフォールを救ったんだ……」
「……私、少しは成長できたでしょうか?」
出会った時の頼りなげな様子からは想像もつかない。リッカは自らの道を選び取り、運命に立ち向かった。その意思の高潔さは賞賛されるべきものだ。
「もう誰もリッカを半人前だなんて思わないさ。本当によかった。君が無事で」
「…………」
この細い体の確かな温もりが腕の中にちゃんとある。
大きくて綺麗な青い瞳と目が合う。しばし彼女と見つめ合った。
すると彼女は頬を赤くして顔を背ける。
クレイル達に、リッカの無事と戦いが終わったことを伝えてやらなければ。
「リッカ、立てそう?」
「あ、あの、その……、できれば、もう少しこのまま……とか。だめで、しょうか……?」
「ん、ああ。無理しないで」
彼女はまだ体に力が入らないのか、俺に抱きかかえられたまま寄りかかってくる。ここまで密着しているとさすがに緊張するな……。
彼女の横顔に浮かぶ安らかな笑みを見つけて俺もやっと気を抜く事ができた。
リッカは厄災と一体化した。きっと、彼女と厄災との間で激しいせめぎ合いがあったんだ。
そして彼女は今、これまでと同じリッカととしてここにいてくれる。
君の選択は絶対に間違ってなんかいない。それをこれから、証明していこう。




