第140話 嵐を駆けて
色欲の厄災アスモデウスは時空間に干渉する強大な魔法、『時空迷宮』を行使する。
時空迷宮とは、いわば厄災の領域だ。
それはそのまま奴の魔力の影響範囲を指す。
時空迷宮の規模は国一つをまるごと飲み込めるほどに巨大であり、厄災という常識外の存在をわかりやすく体現していると言えるだろう。
英雄ダルク・トリスタンはかつて時空騎士剣キャスパリーグを手に、たった一人で時空迷宮へと乗り込み、色欲の厄災をマグノリアの地に封印した。
だが、それだけの功績を挙げながら神話における彼の存在感は非常に希薄だ。
その記述は特に少なく、現代に暮らす人々の間でもお世辞にもガリラスのように人気ある英雄とは言えない。
その理由は明白だ。時空迷宮は外から見ることができない。
ダルクの戦いは人々の記憶に刻まれることはなく、彼は時空間の影の中で孤独に戦い、死闘の末に厄災を封印した。
そして彼は誰に祝福されることもなく眠りについた。
長い、あまりにも永い、永遠とも思える時間を波動生命体となり、「贄の楔」として過ごした。
複雑怪奇な亜空間である時空迷宮マグノリアの内部を駆けながら、俺はダルクの話を聞いた。
想像するにはあまりにも——人生経験が足りない。いや、どんなに長生きな奴だってダルク達英雄の心をわかってやることなんてできないのだろう。
それに比べ、俺たち現代人は今の世界を守ってくれた彼らの心も知らずなんとのうのうと生きていることか。
マグノリア城地下に秘密裏に封印された厄災に異変が起きたのは約六十年前。
国の外からやって来た、たった一人の少女によって城下町と城は攻め落とされ、公国は壊滅した。
追い詰められ、一人になった公女の昏い声に呼応し、厄災の意思が封印をすり抜けて彼女に適合した。
そして間接的に発動した厄災の魔法は国をまるごと飲み込み、「時空迷宮マグノリア」が生み出された————。
「その時に公女リッカ以外の生き残りは全員時空間の彼方へ消え去った。あのアガニィも含めてね」
「どうして厄災は外に出られたんだ? ダルクがずっと監視していたんだろ」
「多分リッカの力によるものだね。あの子にはおそらく黒波導の才能がある。それも並みじゃないものが。
でなければ、厄災は封印されたまま時空迷宮を顕現させるなんてことはできない。
迷宮を維持し、時空間に干渉していたのはリッカ自身の力でもあると思う。あの子が厄災を呼び起こしてしまったんだ」
「リッカが黒波導を……」
火や水、風、土なんかはよく耳にする。一般人でもなんとなくどんな力か知っているような波導だ。
だけど黒波導というのはあまり馴染みがない。そもそも使う人間が少ないらしいし。
「黒は時空間に干渉する属性だ。僕は術士じゃないけど黒の属性には多少関わりがあるからわかる。
リッカは無自覚にその力を使って厄災と繋がったんだと思う。アスモデウスにとっても、彼女はこれ以上ないくらいの依代だったろうね」
「俺がリッカと出会った時から、もうあの子の中に厄災はいたのか」
六十年……。神代の時代から世界に存在する厄災にとってはきっと大した時間ではないだろう。
人間の感覚で奴らの思惑を図ろうというのがそもそも無謀な気がする。
「フウカとクレイルの場所、わかりそう?」
「まだ何も感じない。この空間には存在してないみたいだ」
今俺たちが走っているのは、城下町によくある石畳の通りだ。しかし両脇に建物はない。時空嵐の吹き荒れる闇の淵がどこまでも広がっている。
嵐に巻き上げられて民家が丸ごと暗い道の外側を飛び交っている。俺たちは再び時空の裂け目を通って別の空間へ転移した。
「ダルクには時空迷宮の構造が正確にわかるのか?」
「なんとなくはね」
「俺にはなにがどうなっているんだか」
「そうだな……木を想像するといいかもしれない。迷宮内の空間は樹木の繊維みたいな状態になっていて、時空間が折りたたまれて複雑に絡み合ってるんだ。
外からでは一見どうなっているのか想像しずらい。けど伐り倒して切り株にすれば断面が見えるだろ? 今僕たちはそうしてわかりやすくなった時空間の断面という道に沿って走っている状態さ」
「ごめん聞いてもわからない」
「にゃはは。だと思った。僕だってリッカほどに時空間に対するセンスをもってるわけじゃないんだ。ごめん。けどここが迷宮の中、アスモデウスの領域内である以上異物である僕らには必ず————ほら、来た」
影の中を走る俺たちの前方に地面から影が沸き立つ。城で何度も見たノーフェイス共だ。
「こいつらは強欲の眷属の中でも最弱の部類だ。蹴散らしながら進む。いけるかい、ナトリ」
「もちろんだ!」
走りながらリベリオンを手に現す。立ち塞がる影たちを、青い軌跡を描きながら切り裂き、貫き、両断していく。
ダルクも軽やかに身を翻して跳躍しながら次々と影達を斬り伏せていった。
彼の体術はとても流麗で軌道が読めない。きっと卓越した才と、長い研鑽によって身についたものなんだろう。
「やっぱり本物だ。英雄の戦いをこの目で見られるなんて」
「よしてくれよ、恥ずかしいって。それにしてもナトリの動きもなかなか様になってるよ。我流みたいだけどあまり無駄は感じられないし」
「英雄に褒められた!」
「まだ未熟なことに変わりはないからあんまり調子に乗るんじゃない。でもその剣、リベリオンと言ったっけ」
「ああ。俺の相棒だ」
「それにしても不思議な武器だね。もの凄い力のようだけど全然フィルを感じない。何か非常に特別なものみたいだ。僕たちの使う神器に近いものを感じる。
きっとその剣に切れないものは存在しない。その力があれば、ひょっとしたら——僕たちでも叶わなかった厄災の殲滅すら可能かもしれない……」
厄災は俺たちを自らの復活のために利用したつもりかもしれない。そしてそれは奴の思惑通りに運び、ついに封印は解除されてしまった。
だが、今この場にはリベリオンの存在がある。
自らの存在を滅ぼしかねない「刃」を迷宮へと招き入れてしまったこと。それこそが厄災にとっての誤算であり、俺たちの反撃の一手かもしれないとダルクは言う。
影を斬り飛ばし、迷宮内を駆け巡った。時空を歪めて亜空間を渡る。
やがて俺たちは少し雰囲気の異なる場所に出た。
これまでと同じ漆黒の空だけど、そこにはわずかに星が瞬いている。夜空だ。ここには空がある。
風景はかなり自然なものに近い夜の城下町の通りだ。周囲に明かりはないが、民家の屋根越しの空が明るくなっている。あれは炎か?
「ナトリ、この空間には迷宮とは違う気配を感じる。きっと誰かいる!」
「あっちだ。何か燃えてる。行ってみよう」
民家の門を曲がり、通りを走る。大通りに出ると、坂道の下の街の中心街の様子が目に飛び込んで来た。
一面赤い炎。街が燃えていた。坂下から吹き上げてくる熱風に煽られて、俺たちは燃え盛る城下町を見下ろす。
「こんな光景を、僕は数え切れないくらいに見てきたよ」
「…………」
それは迷宮の中で繰り返しアガニィに焼かれた街を指すのか、それとも太古の昔に厄災によって壊滅しかけたスカイフォールのことを言っているのか。
どちらにせよやるせない話だ。
街の中央広場のあたりで、ズズン……と何か大きなものが倒壊するような音が鳴り響いた。
「広場のあたりだ」
燃える建物の合間を駆け抜けて広場へ向かう。
燃え上がる炎に囲まれた広間の中央に一人の人物が杖を構えて立っているのが見える。
「クレイルっ!」
「ナトリ、それにダルクかァ?」
「よかった、無事だったんだな!」
彼の正面にある民家が何の前触れもなく爆音を立てて弾け飛んだ。
天を舐めるように吹き上がる猛火の向こうから巨大な影が這い出してくる。あれはまるで……。
「悪ィがこっちはちと取り込み中でな」
形だけは見覚えがある。忘れもしない。まさにこの広場で死闘を繰り広げたアガニィが、波導によってその身に纏った水の大蜘蛛だ。
しかし目の前にあるそれは、あの時よりもさらに巨大で禍々しい形をしていた。漆黒に塗りつぶされた影のような巨体。これもリッカの記憶の影響を受けた怪物なのか。
「ノーフェイスか!」
「僕らも助太刀するよ」
「いやいい。こいつは俺がやる。お前らの手を煩わせるまでもないやろ」
クレイルの声が聞こえたかのように、民家の高さほどもある影蜘蛛が嘶くように天を仰ぐ。
そして地響きを立て石畳を破壊しながらクレイルへと怒涛の勢いで突進していった。
 




