第135話 黄昏の国
「オイオイ……何がどうなっとる」
「なんだよあの黒いのっ?!」
そこら中に突如出現した巨大な黒球が街を飲み込んでいく。
現実とは思えない光景だった。
空中に発生した闇は少しずつ拡大していた。ボロボロと壁紙が剥がれるみたいに闇が広がって行く。
住民たちもこの事態に度肝を抜かれ、街はにわかに騒がさを増す。
「なんなんだ……これ」
『何者かによる時空間への干渉』
「とにかく避難しなきゃ!」
「オリヴィアさんが心配だ。リッカの家へ行こう」
「はい!」
俺たちは通りをリッカの家へと急ぐ。
街の混乱は次第に大きくなっていく。先ほどまでの長閑な日常は失われ、マグノリア公国は謎の影に蝕まれようとしていた。
足元の地面が揺らぐ。その原因を確かめる前に、地面に亀裂が走り暗い深淵が口を開けた。
「うおあっ!!!」
みんなから遅れて走っていた俺の足元が突然影に飲み込まれ、足が空を蹴る。
「ナトリ!!!」
地面に入った影の亀裂に墜落しかけ、その淵にしがみつく。
クレイルが俺の腕を掴み、ひょいと引き上げてくれる。
「おい大丈夫か?」
「助かったよクレイル……。大丈夫だから」
「みんな、急いで!」
あの影は危険だ。落ちたら一体どうなってしまうのか想像もつかない。
走っているとそこかしこから悲鳴のような声が聞こえ、屋根越しに黒い影が膨れ上がっていくのが見える。
「ひどい……」
リッカの家が見えてきた。玄関先に白髪の少女が立っている。
オリヴィアはこちらに気づき、不安と安堵の混ざった表情で俺たちを迎えた。
「リッカ、ダルク! ナトリ君も無事だったか」
「オリヴィアさんっ! よかった……」
「話しとる暇はねえ。とっとと逃げんぞ」
「ああ、行こう!」
オリヴィアを加え、俺たちは街から離れるように走った。
亀裂に巻き込まれることもなく郊外にある野外劇場跡まで辿り着いた。
幸いこの辺りは影の影響が少ないらしい。
そこそこの広さがあるこの円形の遺跡には街からの避難民がすでに集まりつつあった。みんな着の身着のままでここまで逃げてきていた。
乱れた呼吸を整えようと体を落ち着けながら、互いの無事を確かめ合った。
「全く大変なことになった。……一体なんなんだこれは」
オリヴィアの言葉はこの場の人間全てが思っていることだろう。
石造りの劇場跡は円形をしていて、外周に近づくほど客席部分が高くなる構造だ。ところどころ崩れたその客席部分の高いところに人が集まっている。
なんとか息を整えた俺たちもそこへ登っていく。
集まっている人々はそこからマグノリアの城下町を見下ろしていた。
「あ、ああ……」
「そんな。街が……」
空も、地面も見境なく漆黒の影が出現し、街を飲み込んでいた。
影に飲まれて傾いでいく家や塔。
俺たちはしばらく唖然としてそれを眺めた。
「こっちはまだそれほど亀裂が広がっとらんが、城下町は壊滅的か」
「国外に避難しようにも、多分俺たちはこのマグノリア公国から出られない」
「いずれこの場所もあの影に……」
周りを見回す。不安げな表情、悲観げに俯く者、蹲り絶望する者。
避難が間に合わず、影に飲まれて犠牲になった人もすでに出ているはずだ。
徐々に広がりを見せる空間の歪み。やがてそれはこの国全体を覆い尽くす。そしたら俺たちも……。
「ナトリ、行こう!」
顔を上げフウカを見る。この絶望的な状況の中にあっても、彼女は声を上げる。
「フウカ……」
「このままじゃ、みんなあれに飲み込まれて死んじゃうよ!」
「わかってるけどさ……。でもどうすれば」
「私たちでなんとかするの」
その薄紅色の瞳には確かな意思が宿っていた。
彼女は本気で言っているようだ。こんなの俺たちに何かできるのか……?
「フウカちゃん……」
「ナトリ、さっき言ってたでしょ。もしこれが厄災っていうののせいなら、私たちがやるしかないと思う」
「お前の話、信じられんとは言わんが厄災の話は流石に受け入れ難いな。
……やけど正直他に説明できるようなもんがないのも事実か。目の前で起きとるこれをな。俺ら、ホンマにその厄災とやらとやりあったんか?」
「た、たぶん……!」
「多分って……」
ダルクが不安そうな表情で見上げてくる。
仕方ないじゃないか。覚えてないんだ。
「私たちならみんなを助けられるかもしれない。それなら迷うことなんてないよ。そうでしょ?」
彼女のあまりに素直な言葉。フウカは恐怖を感じていないのだろうか。
『私達が生存するためには時空間の歪みの原因を排除する他はない。彼女の主張は正しい』
俺たちが死ぬことで時間の巻き戻しが必ず起こるなんて到底思えない。普通は死んだらそれまでなんだから。
第一そんなものに頼っていたら、いつまで経っても俺たちはここから先へ進めない。既に選択の余地はないのか。
それに俺はリベルを信頼すると決めた。
たとえ俺自身が自分の過去を覚えてなくても、こいつがそう言ってくれるなら……、きっとそれが今の状況にとって最善なんだろう。
「……フウカの言う通りだ。原因が厄災なら俺たちでなんとかするしかないんだろうな」
「ま、なんもせず大人しくくたばる趣味はない。こいつをなんとかできる手段があるんやったら、俺もやれることはやったる」
「そのためには、この事態の原因を特定しないことにはどうにも」
「お城」
「城?」
フウカは影の渦に沈みつつある城下町の向こうに聳える夕暮れのマグノリア城を指差す。
「あの影が現れ始めてから、急に感じるようになったの。あのお城には何かある。とても強くて大きな……そんな何か」
「城? 俺は何も感じねえが……。いくら気力型の俺でもこんだけ明らかな異常があればわかると思うが」
確かにマグノリア城に近づくほど影の侵食が酷くなっているようには見える。
でもあんな危険な場所に本当に何かあるのか? 安易に街に戻るのは危険すぎる。
「あの、私も同じ……。お城からは何か、直接心に訴えかけてくるような不思議な感覚を覚えるんです」
「リッカも?」
「うん。何か、あそこにはとても大事なものがあって、私はそこにいかなければいけないような……、そんな気がするんです。自分でも不思議ですけど」
「…………」
フィルの気配じゃない。ドドである俺にはその感覚がないからさっぱりわからないけど、城から発せられる何かそれとは別の強い波長を二人とも感じているようだ。
「あそこに行けば、この事態が起きた原因がわかるってのかい? 二人の直感はあてになるの?」
「ちょ、ちょっと待って!」
リッカが声を上げる。
「何かあるとは思うんです! でも……危険すぎます。人にどうにかできるものにはとても……。
命からがら街から逃げてきたんです。もしまたあの影に飲まれてしまったら……」
「僕もお城に行くのは反対だ。見なよ、あと一、二刻もすれば街全体が完全に影に飲み込まれちゃいそうじゃないか。
行ったら最後、戻ってこれないかもしれない。それにもし城に何もなかったら? 何かあってもどうにもできなかったら……」
二人の言い分はもっともだ。街へ戻ろうなんて自殺行為、普通はしない判断だ。
「私はお城には絶対に何かあると思う。間違いないよ」
フウカが確信に満ちた目で言い切る。
「それは、あの黒い影が発生した原因になってるものなの?」
「うん。あれだけの力……、関係ないはずない」
フウカとリッカにしか感じ取れない強大な力。二人ともそれを直感し、一方は立ち向かおうとし、もう一方は恐れを抱いている。
……普通は怖い。俺だってそうだ。
「フウカちゃんは、あれが怖くないの?」
「私も怖い。でも、みんなが犠牲になるのはもっと怖いから。それに、ナトリがいてくれるならきっと大丈夫!」
その俺に対する信頼感は一体どこからくるものなんだろう。俺にはそんな期待に応えられるものなんて何一つ無いっていうのに。
「……どうして」
「?」
「フウカちゃんは、どうしてそこまでナトリさんを頼れるの? 記憶もなくなっているのに……」
神妙な顔でリッカはフウカに問いかけている。それに対してフウカは笑顔で、ごく自然に答えた。
「なんでかなぁ。実は私にもわからないんだよね。でもね、心とか、きっと記憶よりも大事なところでナトリのことを覚えてるんじゃないかって思うの。その繋がりを考えるとね、胸の奥がふわって暖かくなる」
「そう、なんだ……」
リッカは何故か少し寂しげに見えた。
二人の話に耳を傾けていた俺は、体をぐいっと引っ張られる。クレイルが俺の肩に腕を回して体の向きを変えさせてきた。
「ナトリ、お前さんもなかなか罪な男やなァ。お前ら見とるとムズ痒くなってくんで」
「なんのことだよ。そんなことより今は」
「わぁーっとる。俺も城に行くべきやと思うぜ。ここで手ェこまねいとっても何も解決せんからな。
確かにあそこは怪しい。だったら一番怪しげなとこを目指して突っ込んだらええ。単純でええやないか」
こいつもなかなか無茶苦茶なことを言う。
「たぶん時間もそれほど残されてない。迷っていたら手遅れになるかもしれない。いずれにしろすぐに行動を起こすべきだと思う」
「せやろ。俺らなかなか気が合いそやな。だから一緒に旅しとったんか? カッカッカッ」
無茶苦茶なのは俺も一緒か。フウカたちの方へ振り返る。
「だから行こ、ナトリ! みんなも私に力を貸してくれたらすごく嬉しいけど……」
二人は俺の話したリベルの話をあっさりと信じてくれた。だから俺も信じる。きっとその直感は正しい。
俺には大した力なんてない。けど俺にはリベルがついている。
こいつの力が厄災に対して有効だというのなら、俺が行動しないことはもはや許されないんだろう。
「行こうフウカ。みんなを守るために」
言葉には責任が伴う。足がすくむのなら、逃げ道なんて自分から塞いでしまえ。
恐怖を燃やせ。そして気合いを振り絞れ。
「もちろん俺も行くぜ。お前ら二人じゃ不安やしな」
俺は一人じゃ無い。フウカも、クレイルもリベルもいてくれる。
頼りになる仲間が一緒なら。
「リッカとダルクはここでオリヴィアさん達と待っててくれ」
「本当に……城に行くつもりなのかい、ナトリ」
「どうにも俺たちがやらないとダメらしいんだ。それに俺もみんなのことを守りたいから」
胸の前で手を組み合わせて俯くリッカにも声をかける。
「行ってくるよ。俺たちを信じて、なんて言えるほど自信があるわけじゃないけど……、なんとかやってみる」
「あ……」
リッカは苦しげな表情をして俺を見る。
何か言いたいことがあって、それをなんとか口に出そうとしているみたいだった。
俺は彼女が口を開くのを待つ。
やがてかすれるような小さな声でリッカは呟いた。
「……すごい、です」
「?」
「三人とも、すごいです。あんなところに向かおうだなんて……。私にはとても」
「それが普通だよ。どうかしてるのは俺達の方さ」
「わ、私だって、みんなの力になりたい……! でも、あんなものに向かっていくって思ったら、足が……」
彼女は震えていた。城にある何かの力を直感で感じるからこその恐怖、なんだろうか。
そういう意味では彼女がこの場でもっともこの国を襲う脅威の大きさを理解できているのかもしれない。
「ようやくわかりました。あの占いの意味が……」
夜市でやった占いのことか。
リッカは近く、何か大きな選択を迫られるとかそんなことを言われていた。
それが今行動するか、しないかという選択を指しているってことなのか。
「私たちはきっと、生きていく上で常に何かを選んでいるんです。その選択はきっと無自覚にも行われていて……。
私はこの、マグノリア公国が好きです。ずっと、変わらない平和な日々が続けばいいなって、そう思ってました。
それはきっと、希望の願いだった。でも……、いつしかその願いは色々なものを諦めるための言い訳になっていました」
「…………」
「力のなさや、不安、失敗……。そんなものの言い訳です。
変化を、選ぶこと自体を避けようとして、自分の中に閉じこもって……。でもそんなの関係なしに世界は変わっていくんです。ナトリさんと出会って、私はそのことを知った」
劇場の床材を静かに見つめるリッカは、自分に言い聞かせるように話す。
彼女の中にはきっと俺の想像を超える葛藤や悩みが存在する。
それをわかってやれるなんて思い上がりはない、けどわかりたいとは思う。
リッカの心に近づくために。
だから俺は聞いた。
「君は何を選ぶ?」
「私も——、みんなを守るためにお城に行きます」
リッカはまっすぐに俺の目を見てはっきりとそう言った。もう彼女は震えてはいなかった。




