第10話 朝のひととき
窓から差し込む朝日が寝台の上を明るく照らしている。白いシーツが陽光を反射して部屋の中は明るい朝の光に包まれた。外では鳥の鳴き声が響き、王都五番街アレイルに暮らす人々が活動を始めていた。
今日は休日だ。普段なら仕事の疲れを癒すためにもっと遅くまで寝ている。昨晩フウカの寝相の悪さに驚いて眠れなくなり、結局日が昇るまで食卓でうとうとしていたので少し眠い。
彼女のために朝ご飯を用意してやらねばならない。早めに起きだして加熱機の上にポットを乗せて湯を沸かす。沸騰するまでの間に棚から干し肉とパンを取り出し、切り分ける。
瓶に載せたドリッパーに湧かした湯を注ぎ込む。コフィルの粉末を通して、ガラス瓶の中に濃い色の液体が抽出されていく。同時に狭い部屋の中はなんともいえない香ばしい香りに満たされ、俺は満足げに目を閉じて鼻腔を膨らませた。
休日の朝、部屋に漂うコフィルの香り。王都で生活する俺にとっての楽しみは、休日のこれと仕事帰りのラーメンくらいのものだ。いつか、毎朝コフィルを沸かせるくらい余裕のある生活をできたらいいと思う。
フライパンを火に当てて干し肉を炙っていると、寝台の横で毛布にくるまっていたフウカが肉の焼ける匂いに食欲を刺激されたのかもぞもぞと起き上がった。
「おはようフウカ」
「ん……、おはよ。いいにお〜い」
食卓を拭いて配膳し、二人で卓を囲んで朝食とした。フウカはパンとカリカリに炙った肉をしっかりと平らげた。よく食べる。
食後のコフィルをすすって一息つく。フウカもカップに注がれた液体に口をつけたが、苦いのは嫌いなのか顔をしかめてカップを置いた。思わず苦笑する。昨晩、死の淵を彷徨ったとは思えないくらい平和な朝だった。
「フウカ、昨日のことは一応治安部隊に報告しに行かなきゃと思ってるんだけど、その……、ついでに君の家も探してもらった方がいい?」
彼女の事情についてはまだ何も聞いてない。なるべく慎重に聞いた。
「うん。わかるといいけど……」
彼女は本当に自分の家を知らないように見える。引っ越してきたばかりとか、実はすごいお嬢様で一歩も家から出たことがないとか、ありえないことではないけど。
俺にはフウカが嘘を付いているようにはどうしても見えなかった。昨日出会ったばかりの子だけど、かなり素直な性格というのが彼女の印象だ。
「君の家名は? 俺は配達局に勤務してるんだ。聞いたことがあるかもしれない」
「『ソライド』……かな」
「ソライドさん、ね」
「たぶん」
フウカ・ソライド。それが彼女の本名のようだ。しかしフウカの言い方はどこか曖昧だ。断言できないってことなのか。俺の中で余計に疑問が膨らんでいく。
ソライドという家名に聞き覚えはなかった。多分配達で行ったことはない。貴族のでかい邸宅に配達に行くこともあったけど、そういう家は記憶に残るものだし。
窓の外で街路樹の葉が風に揺れる音が微かに聞こえた。
「昨日初めてフウカに会ったのは水路に落ちた直後だったな。それより前は何をしていたの?」
「えーっとね、気がついたら公園で椅子に座ってたんだ。見たことないものがたくさんあったから、面白くて色々見て回ってたの」
それで俺が水路に落ちる状況に出くわしたと。しかしそれより前のことは何もわからないらしい。
「何も……思い出せないや」
フウカは少し目を伏せて考え込むように呟いた。
「まさかとは思うけど、記憶がないの……?」
フウカは素直に頷いた。これは思ったよりも厄介なことになってきたな。
昨日の午前中、外を歩いていたフウカに何かが起きた。事故か、犯罪か、別の何か……、とにかくその何かが原因で、彼女は記憶を無くしてしまった。こんなところか?
記憶がないとすれば、家の場所がわからないのも納得だ。幸いにしてフウカは自分の名前だけは覚えているようだし、これは手掛かりになるはず。
「よし、それなら急いだほうがいい。出かける準備をしよう」
フウカには昨日着ていた服に着替えてもらった。着替えて、と言ったらその場でシャツのボタンを外そうとし始めたので慌てて止めさせ風呂場に彼女を押し込んだ。警戒心がなさすぎる。
フウカはまったくの手ぶらだった。手荷物一切なし。身につけていた服だって手に入れようと思えば可能なものばかりだったので、彼女の身元のヒントになるようなものもない。とにかく俺たちは身支度を整えるとアパートの木扉を開いて共用通路へ出た。
「ファアアアアアア――――っっっ!!!」
「うわああああっっ!!!!」
「な、なに?!」
扉を開いた途端素っ頓狂な声が廊下に響いた。びっくりしてこちらも変な声を上げてしまった。通路には誰もいな、いや。視線を下へ下げると膝ほどの高さから皿のような二つの目が俺を見上げていた。
隣の部屋に住むラクーンのカルステンだった。彼は丸い皿に載ったような黒目をくりくりと動かして俺とフウカを交互に見る。口を開いたまま大きな目だけを動かしている。
「カ、カルステンさん。おはようございます」
「カルスでいいよ。ナトリしゃん」
この人とはたまに通路で出くわすのでその時に言葉を交わして既に知り合っていた。ラクーンという小柄で丸っこい種族が皆そうなのかはわからないけど、結構馴れ馴れしい人だった。年上のようなのでくだけるにも遠慮がある。
「それよりぃ! この子はナトリしゃんの恋人? とっても可愛いエアルの子!」
「ち、違っ! そうじゃなくて――――」
カルステンは何かやたらと興奮し始めた様子だった。変な誤解がかかり始めたので否定しようと声を上げたが、ぴょんぴょんと飛び跳ね喚く赤い毛玉となった彼の甲高い声にかき消されてしまう。
「見たっ! カルス見たよ! 寝起きのナトリしゃん! 一緒に寝てるすっごく可愛いエアルの子っ! カルスも可愛い彼女欲しいよ――――――っ!」
早口でまくしたてるとくるりと回れ右してカルステンは脱兎のごとく走り去った。
「………………」
「なんだか可愛いね?」
フウカが横から俺の顔を覗き込んで楽しそうに笑った。
朝から元気な人だ。よくは知らないけど、悪い人ではないと思う。一度焼きたてのイカ焼をお裾分けしてくれたこともある。興奮すると自分の世界に入り込みやすいってだけだろう。
色々訂正したい発言もあった気がするけど、それはまたの機会でいい。ああなっては誰も彼を止めることはできない。あんまり言いふらさないでくれるといいな。間違ってフウカの両親にでも伝わったら酷い目にあうかもしれないから。
静寂を取り戻した共用通路を歩き、アパートの扉を開き俺たちは朝日の降り注ぐ外に出た。
※誤字報告感謝です!




