第1話 飛べない男
俺は「飛ぶ」ことができない。
飛ぶっていうのはこの世界じゃ誰もが当たり前に持っている「空の加護」の恩恵による身体強化のなせる行為だ。
離れた場所まで風になったようにひとっ飛び。
動作も俊敏、全身の筋力に補正がかかって空気に対して強い抵抗を得られるんだとか。
だが俺にはその「空の加護」が一切無い。これっぽっちも、パンくず一欠片分も無い。
今までそんな人間を見た事は一度もない。
老人にすら力負けし、亀のように鈍重。そんな奴に居場所なんてない。
俺の人生は生まれながらにしてハードモードだった。
§
物体の落下は一切の抵抗を許さない。些かの容赦なく、固い地面は俺の体を打ち据える。
今度こそ終わった。確かにそう思った。
着水の衝撃があり、水の中に沈み込んでいくのを感じる。落ちた先は水路だった。
どうやら命拾いしたらしい。
落下の勢いが消え、痛みと浮遊感と目眩を感じつつ、息を止めがむしゃらに手足を掻いて上を目指した。
やっとのことで水面に顔を出すと水路の端まで泳ぎ、へりに手をかけて重たい身体を引き上げた。
「げほっ! げほっ……ぐっ」
全身ずぶぬれだ。おまけに鼻から逆流した水が入って気持ち悪い。
水路のへりに腰掛けて激しくむせる。落下の際に水面に強かに打ち付けた体が痛んだ。
視線を感じて顔を上げると往来から道行く人々がこっちを見ていた。あきれ顔に、クスクスと笑い声も聞こえてくる。
「何あれ。水浴び?」
「さあ」
落下によるダメージは思ったより浅かったが 、気分は水路の中にとり残されたみたいに沈んでいく。
「くっそぉ……」
治安部隊が通りかかると色々面倒だ。さっさと退散しよう。
そう思ったところで財布を尻ポケットに突っ込んでいたことを思い出した。
すぐにポケットに手を当てるが、ぺたりとして膨らみがない。何も入ってなかった。
慌てて水路に目をやるが、既に何事も無かったように水面には波紋一つない。
落下する途中でどこかへ飛んで行ったか、それとも水底へと沈んでいったか。
俺は水路のへりから身を乗り出したままがっくりとうなだれた。
不幸は重なるものだ。不幸……いやこんなのは普通、日常茶飯事。
俺の人生はずっとこんな感じだ。財布と俺の気分を水底から引き上げることはもう不可能に思えた。
「これキミの?」
唐突な声に振り返ると女の子が屈んで俺を覗き込んでいた。それも可愛らしく透明感のある美少女。
二つの赤い瞳に思わず心臓の鼓動が跳ねる。透き通るような薄紅色、珍しい瞳の色だ。
長い髪は明るい橙色で、様々な種族が往き交うこの王都でもかなり目立つ容姿である。
彼女は差し出した右手に俺の財布を載せていた。
「あ、うん……俺の。ありが、とう」
突然目の前に現れた美しい少女に驚き、さらにその特異な容姿からまじまじと彼女を見つめてしまった。
我に返り、しどろもどろになってお礼を言う。
「あは、よかった!」
女の子がにっこりと笑った。まったく含むところのない純真無垢な笑顔だ。
彼女は暗色のブラウスとスカートというその容姿に反して少し地味な装いだった。
俺が財布を受け取ると、彼女はその場でくるりと振り返ってそのまま通りをずんずんと歩き去っていく。
俺は惚けたままその後ろ姿が見えなくなるまでぼんやり見送った。
「いい笑顔だったなぁ……」
周りからの嘲笑や沈んだ気分はいつしか消え去っていた。少女の笑顔が俺の心の中の澱んだ物を吹き飛ばしてくれたらしい。実に気持ちのいい笑顔だった。
王都へ来てからというもの、あんなに素直な感情を向けられたのは初めてかもしれない。
あの笑顔を忘れずに今日一日を過ごす事にしよう。
そうすれば嫌なこともやり過ごせるはずだ。きっと。
「おい邪魔だァ!」
すぐ後ろから怒声が響いた。何事かと振り向こうとするが、ふいに体に加わる衝撃。
不意を食って身体のバランスを崩す。反射的に手を突き出して体を支えようとするが、手は空を掻いた。
「は?」
状況を把握した時には体は落下の途中。さっきまで足を付けていた地面、というか街区が遠くなっていく。
なんであんなところに穴が。
「はああああああああーーーー?!」
本日二度目の墜落を経て、俺の体と心は再び貯水池の底へ沈んだ。
都会は怖い。でも、俺にはもう帰る場所なんて無いんだ。