◇小話:警備塔の由来
「純粋に疑問なのだけれど、この塔ってどうして名前がないの?」
とある日の午後、警備塔の書斎にやってきたセシルにリディアは問いかけた。
用意したコーヒーを彼の前に置くと、湯気の立つ熱いコーヒーを冷ますことなく口にした彼が見上げる。
「今更なぜ私に聞く」
返ってきたのは仏頂面な言葉だ。
忙しそうに見えなかったので声をかけたのだが、表に出していなかっただけなのかもしれない。邪魔をしてしまったのなら申し訳ないと一言添える。
彼が今更というのは、祈祷師になる前から警備塔を知っていたリディアが、祈祷師や魔導騎士団に関する説明を聞き終えても、警備塔に着いてからも尋ねなかったからだろう。
無言のままで続きを促したセシルに、リディアは口を開く。
「貴方なら知っていると思って。なんとなく気になっていたのだけれど、特に重要なわけでもないから、いつも忘れてしまうのよね。今、ふいに思い出して聞いてみただけなの」
国として造り、管理し続けている塔なのだから、由緒ある名前がつくものではないだろうか。
実際、王宮は区域によって様々な名前がつけられている。王宮内を歩き回る機会なんてほとんどないのに、全てを覚えるようにと地図を渡された時には眉を寄せたほど。
それなのに、だ。
この塔には名前がない。
魔導騎士が宵の森の警備で滞在する塔、それゆえ警備塔と言われているだけである。「警備塔」と呼ぶ者と、「塔」としか呼ばない者もいるし、そもそもこの塔を話題に出すのは何かしらで関わる者だけで、遠方に住んでいる民は存在を知っているかも怪しいのでは、とリディアは最近思うのだ。
「名をつける、という行為はそれが特別で唯一のものであるという証だ。良くも悪くもな」
「名前を決めないほうがラティラーク王国とって良いと判断されたのね?」
「だろうな。塔が建てられたのは遥か昔だから知る人はいない。気になるなら殿下にでも聞くといい」
「こうした話ができる機会があるとは思えないわ」
「あるさ」
そうして不敵に笑うから、彼が言うならそうなのだろうとリディアは思うことにした。
◇◇◇
馬車に揺られるリディアは、一定のテンポで鳴る馬の蹄の音や空を飛ぶ鳥の鳴き声に耳を傾けながら、見晴らしの良い田園や木々の奥を埋める崖を眺めていた。
距離が離れている分、崖上の高木が聳える宵の森が見える。
クロズリー領と王都を行き来する際に、必ずといってよいほど通る見知った景色である。
(結局、殿下には尋ねるタイミングがなかったのよね)
祈祷師となってからの日々は馬車旅が多くて何もしない移動日も多いのだが、行く先々で問題が起きていたので目まぐるしかった。
祈祷師としての最後の任務に向かう道中は穏やかな分、過去を振り返って感傷的になりがちだ。
そんな折にふと思い出した、彼との会話。
あの時はまだ彼と打ち解けてはいなかった。
無愛想な言葉で、けれども誠実に返事をくれ、その上で少しばかり意地の悪い。
セシルのことだから、どのタイミングで尋ねたとしても同じような返事を返していたのではないか。
そう思うと、リディアはつい音を出して笑った。
「何を考えている」
やはり彼は今でも不愛想だ。
過去を打ち明けてくれて、誰から見ても好き合っている間柄なのに普段の態度は変わらない。
「前に貴方に聞いたでしょう? 警備塔に名前がない理由」
「そんな話もしたな」
「なんとなく思い出したのよ。殿下に尋ねるタイミングを逃してしまったわね」
「合流したら聞けばいいだろう」
魔獣の掃討のために近衛騎士や魔導騎士を引き連れて、エリアスはクロズリー領に遅れて到着する。
その際に話すタイミングは幾らでもあるだろう。
「ううん、いいの」
けれど、リディアは首を振った。
「前にリオに話したことがあるの。宵の森や魔獣が物語のような遠い存在に感じるのは『良いこと』ではないかしらって」
魔獣への恐怖をもたない生活を営めることを、クロズリー伯爵当主の父も国も望んでいる。
宵の森に切り替わる崖に接する領地の主も皆同じ気持ちだと、祈祷師として相対したリディアは知っている。
「警備塔に名前がついたら、悲しい記憶が積み重なっていくわ。魔獣の討伐に命を懸けた魔導騎士や祈祷師を悼む象徴になっていたはずよ」
他の事例を挙げれば哀悼を捧げる記念碑をつくる場合が多いし、それを否定しているわけじゃない。大事なことだと思っている。
けれど、警備塔に関してはリディアは同じように考えれなかった。
「私だったら、そうなってほしくないと思ったの」
悲しみの象徴が警備塔だったなら、必然的に恐れが宵の森に蓄積されていたはずだ。
「警備塔に名前をつけないことで存在感を薄めて、悲しい記憶として残らないようにしたかったのではないかと思うのよ」
魔獣の住処であって、精霊が隠れた先で、聖霊が隠居を望む場所。――人が精霊を追いやった場所。
意志の疎通が叶わないからこそ、人々の宵の森に対する畏怖は止まることなく増していくのだろう。
彼らが過ごす宵の森を恐れないでほしいと、リディアは思う。
精霊はもう人間を憎んでいないのだから、これ以上対立してほしくない。
「君らしい考えだ」
彼が口角をつり上げて笑うから、リディアも安心して微笑む。
当時の警備塔を建設した頃はまだ、戦の跡が色濃く残っていただろう。自分たちが精霊を宵の森へ追いやったと後悔をしたはず。
だから警備塔に名を付けないことで、いつかの未来に、精霊との和解を願ったのではないか。
想像の域を出ないけれど。
それでも、きっとこの気持ちは遥か昔から願い継がれてきたものなのだろうと、リディアは信じることにした。
前半のシーンを本編に入れたかったのですが、分量がなくてお蔵入りになったお話です~
時系列でいうと◇19-2~◇20-1の間(王都→クロズリー領)の道中で、◇8前後(一度目の宵の森巡回期間)での会話を思い出してる形になっています。