◇余談:クレマチスに捧ぐ
私にとっての祈祷師とは、聖母のような存在だった。
血の繋がった父も母もいる。しかし、その者達は国王と王妃なのだ。
物心ついた時には厳格な作法を求められ、日々王族たるに必要な知識と教養を延々と求められた子どもが、穏やかで優しい祈祷師の元へと安らぎを求めて足を運ぶようになるのは必然とも言えよう。
何よりも、清らかな淡い光が彼女たちの身を包んでいるのだ。幼心なりに尊敬と憧憬、そして興味を抱くのは当然だった。
取り分け懐いていたのは、ヨハンナという祈祷師だ。
私の王太子という身分にも臆することなく会話をしてくれるし、悪いことをしたら叱りつけてもくれた。
そんなヨハンナを実の母よりも母親のように慕っていて、全ての授業を終えた夜に魔導騎士団棟の祈祷室に菓子を持ち寄って、たわいもない雑談をするのが何よりもの幸福だった。
けれど、そんな日々が長く続くはずもなかった。
ヨハンナが王都を離れている間は昼夜問わずひたすら予定を詰め込む。
朝は剣の鍛錬を行い、昼からは複数の教師から学び、夕食後は自主鍛錬や予習復習、そしてあらゆる文学を読む。
その繰り返しの日々を苦痛には思わなかった。
それが日課だったし、頻繁に同年のセシルと肩を並べて何かにつけて競い合っていた。そして、詰め込んだ分だけヨハンナが王都に戻ってきた際に時間をつくることができるのだ。
今日も今日とて鍛錬をしようと裏手の庭園に足をむけていたら、一人の近衛騎士に名を呼ばれた。
国王専属の騎士だった。
促されるままに王宮の隠し通路へと踏み入る。
手元の灯りを頼りに幾度も隠し扉をくぐると、灯りひとつない暗闇に紛れるように国王が居た。
案内役だった近衛騎士をその場に残して、今度は国王が隠し扉を開く手順を口にしながら奥へと進んでいく。
最後の扉を潜るなり、湿った空気と舞う埃に口元を覆った。
息の詰まる閉ざされた小部屋には壁を埋め尽くす本棚と書類、そして掃除のされていない書斎机と一脚の椅子だけ。
明け方の空の瞳をもつ王族のみがその存在を知る禁書庫らしい。
そうして国王が重い口を開けたのだ。
祈祷師にまつわる真実を読み解けと。歴史の積み重ねによって今が在る。変遷の過程を知り、理解をして、明け方の空の瞳を有する王族として相応しい行いをしろと。
月日が経ち、長いこと遠方巡回に赴いていたヨハンナが戻ってくるなり、私はいち早く真実を伝えた。
知らせるべきだと思ったのだ。
一人の女性として、人として知っておくべき内容で、その上で祈祷師として生きるか否かを選択しなければ後悔する。
情報を秘匿するのは何よりも国の利益を重要視しているからで、一個人を尊重していないのだと。
そして、私にとってのそれは第一にヨハンナに知らせる事案だった。肯定してほしかったし、考えが及ばなければ優しく諭してくれるだろうと。
とはいえ、知らずにいたら後悔したと感謝されると思っていた。
この時の私は、父の言葉ひとつ、表情や声音に微細に滲んでいた情のひとかけらも気にもとめていなかったのだ。
厳重な隠し部屋への驚きと、踏み入れることのできる優越感、自分なら不憫な扱いを受けているヨハンナを救えるという思い上がりに満ちていた。
だから、全てにおいて浅はかすぎた。女性にとってのそれが如何に重要で人生を左右する事柄なのかを全くもって理解できていなかったのだ。
ヨハンナはただ静か耳を傾け、私がもう話すことはないとわかると「風に当たりませんか」とだけ言った。
祈祷室は魔道騎士団棟の屋上にある。そして、フェンスはあるが、それはあくまでも外観を整えるためのもの。
私の前を歩いていたヨハンナは、いつものように柔らかに微笑むなりこう言った。貴方様の決断こそが私達を死に追いやるのです、と。
舞う光とともにフェンスの向こうに消えていくヨハンナを声もなく見送ることしか出来ずにいた。
王太子である私が単独で行動しようとも、身を隠した護衛は必ずいる。
幸いにして、その者が発動した魔術によってヨハンナは軽症で済んだが、当の本人にとってはそれこそが地獄だった。
自ら望んでも国によって阻止され、けれども国から与えられた使命によって確実に迫り来る。
逃れる選択肢を与えられてはいても、その先に幸福を見出せない。そんな彼女がただ流れに身を任すまま言の葉を唱えたところで、祈りの力が発動することは終ぞなかった。
ついには聖霊様にまで見放されてしまった、と空虚な眼差しで過ごすヨハンナに何を言ったところで手遅れだと気づいた時、ようやく父の言葉の意図を理解し、祈祷師との距離を見誤るなといった類の警告だったことを知った。
けれども年を経るにつれて、やはり納得のできない感覚が膨れ上がるのも事実だった。
今の在り方が続くラティラーク王国の王位に立ちたいとは思えない。海を挟んだ他国の発展に目を向ければ、気づく者は多いはずなのだ。
停滞し続ける国の行先が陰り始めていることに。
だからこそ、歴史が深く、魔術が発展した神聖国レディツィオーネへと留学できるよう様々な手段を模索した。
けれど、いざ留学する時に父の息のかかった者がそばにいては動きづらいし、そうでなくとも聖霊信仰に意を唱えない者では困る。
セシルと共であれば何よりだったが、祈祷師や聖霊の加護にまつわる真実と、私の行動によって祈祷師でいられなくなった者の末路を伝えられずにいた。
そうして見つけたのがレナードだ。
元々、祈祷師エレナに対する思いが他の者が抱く崇拝とは異なることに気づいていた。そこにあったのは尊敬と恋慕で、エレナも少なからずその気持ちに応えていたのだろう。
隊長への昇格を打診する場に同席してみると、事の真相を知ったレナードは動揺することも感情を面に出すこともなく、ただ私を見てはこう言った。ご満足しておられますか、と。
言葉とは異なり否定を表していた。冷静に私を見定めて、戒める。そんな役に彼は適当だった。
諸々の手回しに時間はかかりはしたが、私は近衛騎士に据えたレナードと共に海を渡った。
私にとっての幸運は数々あるが、その最たるは隣にいる男の存在だろう。
柔らかな陽光とともに宙を舞う色とりどりのクレマチス。その姿を追って視線を下げれば、集まった群衆が両手を広げて、心浮き立つ華やかな音楽とともに歓声をあげてくれている。
「まったく。君の挙式だから来てあげたけど、金輪際俺を呼びつけないでほしいな」
愛想良く笑みを浮かべながら、そう不満を漏らすのは神聖国レディツィオーネの枢機卿リヴェルタ・ヴィッセンだ。
「そんな冷たいことを言わないでほしいな?」
隣合って手を振っていた花嫁が少し離れた途端に詰め寄ってきたリヴェルタは、待ち切れないとばかりに声が弾んでいる。
「それで、君たちの聖女様はどこにいるのさ」
「ああ……ほら、あそこ。肩を並べている女性が今の我が国の聖女様だよ」
陽の光に当てられて一際目立つ男をひらりと手のひらで指差す。
真上からだと彼の周りは他よりも一線空いているし、周囲を陣取る貴族はやはり若い女性が多い。既に婚姻済みの男でも、滅多に社交界に顔を出さないその姿を拝んでみたいということだろうか。
同時に羨みや嫉みが彼女に集中しているのだろうが、そんなものを全く寄せ付けもせずに穏やかに微笑んでいるだろうことが遠目からでも分かる。
「どれどれ……って、うわっ……こんな距離あるのにあいつに射殺されそうだ」
「セシルは彼女を君に会わせる気はないからね」
「君があいつと聖女様を引き離してくれさえすればいいんだけど〜? それにしても、さ」
あの時と変わらないな、と苦い笑いが込み上げそうになる。聖霊は悪魔に似ていると告げた時と同様に、無邪気な好奇心を1ミリも隠しもしない。
「聖女様の御子はただの人間かい?」
疑問を投げたリヴェルタは否定されることを期待している。
セシルと契約をした今の彼女は、人としてのありふれた生涯を送る、ただの人間だ。
それは聖霊の加護が与えられていた者たちも同様で、特別な力のない女性が産み育てる子に特殊な力が宿ることはない。
聖霊にも直接確認した事実の価値は、彼にとっては如何程か。
おーい、と間伸びした声で返答を急かすリヴェルタに対して何方とも言える笑みで返すと、色彩鮮やかな花びらが揺れる清々しい空を見上げた。
漂いながら落ちてきた花へと手を伸ばす。純白、と呼ぶに相応しい、暖かな陽光が花弁を透かして艶を放つ真っ白なクレマチス。
瞼を閉じて、口元へと寄せる。
清廉な香りを纏うその花は、国を支え続けてきた祈祷師そのものだ。
洗練された花を咲かせるが、その内には毒を秘めている。蔦をなめらかに絡ませて成長するたびに存在を増していく華やかさにばかり目を奪われた人間は、美しく咲き誇るその花が儚く散った瞬間に気づくのだ。
彼女達は内包する毒に侵され続けていたのだ、と。
彼女にとっても、それは毒だったはずだ。けれども毒をもって毒を制した彼女にとっては、それが毒か否かなんて考える必要のないことなのかもしれない。
「貴女に。この先も誓うよ」
香り立つ柔らかな芳香が風に揺れる。身を任せて指先の力を緩めると、再びふわりと宙を舞って、白く眩い陽光の中へと消えていく。
ラティラーク王国を導いてきた祈祷師が再び現れることは、もうない。
けれど、彼女たちを忘れ去る者はいないだろう。
道行く先々で咲き誇るクレマチスが国に与える彩りは、決して変わることなどないのだから――
リディアたちの物語に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!
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