◆3:神聖なる獣
エリアスから受け取ったニ冊の本は、留学していた間に書き溜めた手記だった。
得た知識の他に、会話をした人物の特徴や仕草、建物の構造まで事細かに記されている。
一見すると内容自体は二冊とも同じだが、所々に差異がある。エリアスとレナードがそれぞれ記したためだ。
端的に書いているつもりでも主観は含まれる。
その為にエリアスはレナードにも同様に記させたのだろう。
神聖国に至るまでの長い旅路の中で、二冊の手記を何度も読み、照らし合わせて異なる点を念頭に置く。
そうして読み飽きた頃に、神聖国の聖都へと着いた。
聖都の街を歩きながら道行く人々の会話に耳を傾けて、ついでにと頼まれた内偵の任を全うする。
神聖国レディツィオーネとラティラーク王国の言語は共通点が多い。それはラティラーク王国をつくり上げたラティラーシアが故郷の言語を望んだからなのだろう。
表現の異なる言葉はその後の数百年の歴史の中で生まれたり、変化したといえる。
大神殿の門番へと紹介状を渡すと、目的の人物の部下だという神官が現れた。
セシルが発つ前にエリアスが文を送ってはいたが、用務の都合で当分は顔を合わせられないらしい。
大神殿の案内から始まり、エリアスが学徒として滞在していた神官育成機関であるレディツィオーネ神学術院へと通される。
院内であれば、講義の聴講や図書の閲覧、講師である高位神官との対話まで自由に行動して構わないと高待遇の接待を受けたので、存分に有効活用する日々が続いていた頃だった。
――長らく待ち望んでいた人物がセシルの前に現れた。
腰掛けていた椅子から立ち上がり、深々と礼をする。
「お会いできて光栄です、リヴェルタ・ヴィッセン枢機卿。私はラティラーク王国の王太子であられるエリアス殿下の命により参りました、セシル・オルコットと申します」
神聖国の神官服は身分によって色が異なる。茶色混じりのくすんだ赤から始まり、高位神官に近づくにつれ鮮やかな赤になる。そして、枢機卿が纏う神官服は濁りのない艶やかな赤紫だ。
現れた人物が纏う赤紫と、白と見紛う銀髪に、赤紫の澄んだ瞳。会うたびに青褪めた肌。それらは全てエリアスから聞き及んだ特徴と一致している。
そして、手記のとおり枢機卿という身分でも護衛や部下は一人もつけていなかった。魔術に相当な自信がある神官は身ひとつの他国の騎士を警戒する必要もないということだろう。
「う〜ん、俺は『祈祷師様』を呼んだつもりなんだけどなぁ……」
「我が国の祈祷師様は一人残らず聖女様の元に還られました」
大袈裟な身振りで首を傾げたリヴェルタにセシルが端的に伝えると、再び大袈裟にぽんと両手を打つ。
そして、両手を手放しに広げて歓迎を露わにした。
「ああ、そういうこと? エリアスからの文に、俺に教えを請いたいだなんて書かれていたんだよ。一体全体どうしたんだろうと思ってさぁ」
その眼差しからは過剰な好奇心が窺える。
ラティラーク王国に異常な興味を抱いている人物だというエリアスの評価は最もだったらしい。
「内容によっては教えてあげられることもあるかもね。もちろん、エリアスの使いなら俺を楽しませてくれる話だって期待していいよね?」
「そうですね、必ず満足されることでしょう」
にっこりと、セシルは人当たりの良い笑みを浮かべる。
それに満足したリヴェルタはどさりとマナーもなく長椅子へと背中から倒れ込んだ。彼にとっては、あくまでも自身の知識欲を満たすための興味本位の好奇心。こちらの話など昼寝前の暇潰し程度だと態度で表している。
「で、君たちの国になにがあったの? まずはそこから話してみなよ」
リヴェルタはエリアスが記した「教えを請いたい」という言葉のとおり上の立場にいる。
ラティラーク王国の現状を洗いざらい話したところで、愉快な話だったと満足させるだけで終わってしまうだろう。神聖国にとって神獣の召喚に関わることは国家機密なのだ。そう易々とは口を割らない。
まずはそこから正さねばならないな、と腕を組む。
「私はまどろっこしく語り合う気はありませんので、単刀直入に言います。まずは貴方が召喚した神獣と話をさせていただきたい」
「エリアスの部下にしてもさ、不躾な頼みだって自覚あるよね?」
陽気だった声音が棘をもつ。
けれど、怒りを露わにしたリヴェルタに相対するセシルは相変わらず爽やかな気品さえ感じる余裕を保っていた。
「神獣は古くから白く輝く毛並みに赤い瞳をもつ動物を依代にしているとか。そして、今代の神獣様は長く伸びるツノまで真っ白な、牛に似た体躯の動物だそうですね」
「神獣はそう都合良く人前には現れないんだよ。どうして他国の人間が神獣と会話ができると思っているのか不思議でならないなぁ」
「ヴィッセン枢機卿が神獣をお呼びしてくださらないのでしたら――」
セシルが一切変わらない笑みのまま、左手を伸ばす。
他国からの客人であるセシルには帯剣や刃物の所持が許されていない。だというのに、その手のひらには今し方できたばかりの真新しい切り傷があった。
――――私が呼ばせていただきます。
そう続けるセシルの言葉とともに、傷口から滲み出した雫がぼたぼたと落ちる。
「……はぁ??」
磨かれて照明を反射する床に赤い血が滴り、小さな水溜まりをつくりだす。
その光景を目にしたリヴェルタは両目を開いて固まり、次いで目の前の事態に素っ頓狂な声をあげると、背もたれに全身を預けていた体勢から慌てて立ち上がった。
ラティラーシアの話は紛れもなく真実のようだ。
勢いよく動いたことでふらついて片膝をついたリヴェルタの姿に、セシルは口角を持ち上げた。
確信をもって、何度も脳内で繰り返していた言の葉を口から紡ぐ。
「彼の血により結ばれし神、エーヴィヒ・サン・プレディツィオーネよ。我が血から姿を現し、全知を映す瞳が語る真実で我々に進むべき道を示せ」
「ちょっと!? どこでそれを――!!!」
足元にできた小さな血溜まりが湧き上がって浮かび上がる。
その様はまるで魔獣の淀みだと思いながらセシルが眺めていると、宙で蠢いていた血液が収縮して弾けた。
そうして姿を現したのは真っすぐに伸びる長い角をもった、一匹の光り輝く生き物だった。
「見ぬ顔だな? お主、この国の者ではないな」
脳内に直に響くその声は、目の前の神獣によるものだろう。
濁りのない純白の毛に覆われた体躯と陶器のように光沢を見せる白い角。発光しているように映るそれらは神聖国レディツィオーネが神の化身と崇めるのも頷ける。神秘的だと納得しつつも、向けられた赤に染まる瞳がやはり魔獣と繋げて見てしまう。
「私は海を挟んだラティラーク王国から参りました。ラティシア・グラークという女性神官を覚えておいでですか? その者が生み出した国です」
――ラティシア・グラーク
聖女ラティラーシアが神聖国に捨ててきたという本名だ。
「ああ、あやつか。勝手なことをしたせいで国から追い出された愉快な女だったな。そうか――」
セシルに向けられていた眼差しが彼方へと移ろう。
瞳を埋め尽くす赤がより一層透き通った。
「ま、待って!! 神獣様、そいつと話さないで!」
ようやく立ち眩みが治まったリヴェルタがセシルと神獣の間へと割ってはいって大きく手を振ると、焦点の戻った神獣が一瞥する。
どうやら全知を映す瞳というのは、その全てを見渡している時は瞳の色が透けるらしい。
セシルがラティラーシアからもらった褒美は神獣を呼び出す方法と言の葉、そして教えを乞うための対価である。
依り代となり得る動物を数体用意し、数多の神官の鮮血をもって神獣召喚の儀を行う。その中から気に入った依り代に宿り、好みの生き血を有する者を契約主に定めるという。
そして、教えを乞う対価に契約主の血を奪う。その価値によって対価となる生き血の量が変動するらしく、ラティラーシアが神官だった頃は召喚に成功しても呆気なく死ぬ者が後を絶たなかったとか。
けれど、褒美に神獣の性格までは含まれてはいない。
契約主以外の者からの呼びかけにも応じるとは聞いていたが、ラティラーク王国にいる聖霊という名の悪魔はエリアスが声を上げるのを封じていた。
ここは無暗に口を開かずに一旦様子を見ておいたほうが良いだろうと二人の挙動を目で追う。
「騒々しいぞ」
「こいつは異国人だよ!? 俺の許可なく勝手に神獣様を呼び出したの!」
「それがどうした? お主の側で我を呼んだのだから、何も問題あるまい」
「大ありだよ!」
「して、異国人よ。我に何を聞きに来た? なんでも答えてやろう」
リヴェルタは砕けた口調で神獣と話してはいるが、なんとか説得しようと必死だ。
そして、神獣は契約主であるリヴェルタに耳を傾けることなく、セシルを話の相手にすることに決めたらしい。
こうも難なく話が進むとは思っていなかったが、ラティラーシアは全て予期したうえで神獣の性格を黙っていたのだろうか。
神聖国レディツィオーネは神の化身である神獣の予言によって、度重なる戦や自然災害から国を守っている。
その予言が神獣の全知を映す瞳によるものだとラティラーシアによって知ることができたセシルは、今後の方針に検討をつけることが容易になった。
最善なのは契約主であるリヴェルタの協力の元で複数回に分けて神獣に教えを乞い、リディアを取り戻すための手段を模索する方法だ。
けれど、それが叶わない場合はこの場に全てがかかっている。
セシルが求める教えの価値が契約主を死に追いやるものかはわからないし、そうなった場合に次の神獣の召喚が成功する時を待ってるほど気も長くない。
それに、神獣を呼び出すには契約主の近くにいなければならないらしい。セシルが神獣を呼び出せる機会が今後訪れる保証はないのだ。
それならば契約主に求められる血の対価を気にすることなく、一度の問いかけで全てを聞き出すほかない。
リディアに知られたら見損なわれるかもしれないが、要は知られなければいいのだ。結局のところ、目的のためには多少の犠牲は必要だと切り捨てる点はエリアスと何も変わらない。
「私は――」
「ちょっと!! さっきから俺を無視してなんなの!? 俺を殺す気!?」
神獣に相手にされないと分かるなり、鬼気迫る勢いでリヴェルタが歩み寄る。
小柄な体躯の青年だ。会うたびに青褪めた肌というのも、急な動きでふらついたのも全て、神獣の予言によって血を抜き取られているからだろう。
必然的にセシルはリヴェルタを見下ろした。
「貴方を害するつもりはありませんが、私には神獣に問わねばならないことがあります」
「それだよ! ここまで知ってるんなら、その対価が何か知らないはずないよね!?」
「貴方の生き血だそうですね」
「君ねぇ……!!」
握りしめた拳がぶるぶると震える。
さらりと何事もなく告げるセシルに、リヴェルタは怒りとともに身の危険を感じていた。
取り敢えずは何を神獣に問うか分からないという危機的な状況を回避しなければならない。
「わかったよ! 君に最大限協力するから、まずは俺が相談にのるよ。俺が知ってることは話せるし、神獣様の予言はそれからでいいと思わない?」
親身になってやって隙ができた時に魔術で拘束してしまえばいい。口封じは簡単にできるし、最悪、帰国の途中で野盗にでも襲われて死んだことにしてもいい。
この場でそんな魔術を発動したら確実に神獣にはね返されて報いを受ける。
神獣は好物の生き血を喰らいつくす機会を今か今かと待っているのだ。
神獣の気に触らぬように注意を払いながら、双方にとって都合の良い話を持ちかける。
二つ返事で頷いてくれと願ったリヴェルタだったが、人当たりの良い、けれど企みを多分に含んでいるであろう笑みを向けられた。
「しかし、私はこの国では剣の一本も持つことが許されない身です。貴方が言葉の通りに協力してくれる確証がないのですから、この場で神獣様に尋ねておきたい」
「我に答えられないものはない。言ってみろ」
「だめだめ! 確証!? 俺を疑うなんて君ってほんと失礼だよねぇ! なら、従属の魔術でも刻めばいいっての!?」
一向に引く気のないセシルと神獣に青ざめたリヴェルタは、自分の身を守ることを最優先に捲し立てる。
神聖国レディツィオーネとラティラーク王国は現状敵対していない。どちらかと言うと友好国である。
それならば恩を売っておこう。そう思うことにして、セシルの満足するであろう確証を固めることにした。
「従属ですか……。そうですね、それと一連の出来事をこの国の方々に他言しないこと、その魔術が本当に効力を発揮する代物なのか神獣様に確認させていただきたい」
「つまらぬな。それだけか?」
「神獣様には後日改めて教えを伺いますから! 今日はもうこれで満足してくださいぃ!!」
素早く発動した魔術とともに己の身に刻まれた魔紋の真偽を確認してもらうと、姿を消す神獣を見送る。
存在するだけで肌身に感じる神獣の圧が消え、流石に従属の魔術はやり過ぎだったのではないかと我に帰ったところに、初対面だというのに今日で何度も耳にした聞こえの良い声が降り注いだ。
「では、仰られていたとおり、まずはラティラーク王国の現状をお話ししますね」
――――悪魔め。
そう呟いたリヴェルタは僅かにしか血を抜き取られていないというのに、貧血になって長椅子へと倒れ込んだのだった。