◇19-1:上澄みで息をして、
「ねぇ、リオ。昨日の夜のことなのだけれどね、どんな様子だったのかしら。……セシルは怒っていると思う?」
カタカタと揺れる馬車の中で、向かいに座るリオへと小声で話しかける。
ぱちぱちと瞬きをするリオの隣では、夜番を終えたウォルトが窓枠へと頭を預けて寝入っていた。
「う〜ん……俺と二人の時は普段と変わりませんよ。元々あまり雑談する方じゃないですし」
ツンツンと跳ねる髪を押し潰して頭を掻きながら、ううんと更に唸るリオの言葉の続きを必死に待つ。
「怒ってる? 訳ではないと思いますけど……何というか……こう……いやぁ、わかんないです」
どう言葉で表現したら良いのかと悩んでいたリオは最終的には申し訳なさそうに、にへらと笑った。
「そう……」
耐えきれない溜息が口から漏れる。
当の本人は馬に乗って先陣を切っている。ようやく時間を共有できるというのに、その姿を見続けることすら叶わないとは思いもしなかった。
リディアは長くもって一年、最悪、魔獣掃討作戦の決行日に命が尽きると明確にエリアスから示されている。セシルもその場にいて全てを聞いていたのだから、残り僅かの時間くらい一時も離れず側にいてくれてもいいじゃないか。
それなのに距離をとるのだ。もう愛想尽きてしまったのだろうかと思うと、やりたい放題の自分を棚に上げて悲壮感に浸ってしまう。
王都から離れると果樹園や田園が広がるが、それらを過ぎると人の手の加わっていない自然豊かな風景へと切り替わる。領地同士を繋ぐ広めの通りから見渡す景色はリディアにとっては見慣れたものだった。
その行き先はクロズリー領。
魔獣掃討作戦の前に巡回をしたいとリディアが願いでたからだ。
加えて、魔獣掃討作戦の決行もクロズリー領で行うという条件を入れた。
少数精鋭の魔導騎士の勤務配置を調整してかき集めるより、クロズリー伯爵家の騎士に助力してもらう方が効率もいい。領内を巡回をする間にセシルが伯爵家の騎士団との統制を取り、後ほど合流するエリアス率いる魔導騎士団と共に宵の森へ赴くことに決まった。
そうして王宮を発ったのが昨日のこと。
打合せや日程調整で慌しく顔を合わせることすら出来なかった数日が過ぎて、ようやく隣にいられると思ったら、淡々と赤の他人と接するような他人行儀な顔を向けられたのだ。話しかけようとしても、つくり上げた完璧な笑みでさらりと交わされる。
そんな一日が終わって、二日目となった今日は同じ馬車に乗ってすらもらえなかった。
魔導騎士団棟でセシルの姿を見かけることがなかったのは避けられていたからなのだろうかと、今になって思い至ったところだった。
「また馬に乗って気分転換されてはいいのでは?」
「……え?」
伏せていた瞼を上げる。
先ほどまで眠っていたはずのウォルトがにっこりと頬を持ち上げていた。
「そうすれば二人きりで話ができますよ」
「でも……他の誰かに任せて、馬車に乗ってしまいそうだわ」
次の休憩時にセシルに申し出たとして。
決して駄目とは言わないだろう。けれど、昨日のように完璧なつくり笑顔で「祈祷師様を任せたよ」と誰かしらに言う様が思い浮かぶ。
「あり得ないでしょう」
呆れたというようにウォルトがぴしゃりと否定する。リディアは首を振って否定をした。
「あり得るわ。だって、あからさまに避けられてるんだもの」
「リディアさん、俺もその心配はしなくていいと思いますけど……」
「リオまでそんなことを言うの?」
二人から言い切られてしまえば、見方を改める必要がありそうだった。
祈祷師として行動している間は一人で馬に乗るわけにはいかないので、二人乗りは必須だ。
それは「隊長の役目」だとウォルトは当初言っていたが、ただ隊長が最も適任というだけで厳格な規律なんてものでは全くない。実際にセシルが離脱した遠方巡回の後半は、臨時の隊長を務めていたウォルトだけでなく他の面々とも二人乗りをしている。
加えて、セシルは全てにおいて最善を尽くすほど真面目な性格でもない。書類仕事にしたって疲れた時には思い切りサボるし、上司であるはずのルイスに突き返すのだ。適当な理由をつけてリディアと同じ空間にいないようにすることなど容易いだろう。
一から考え直しても、やはり結論は変わらない。
「よく考えてみてください。リディアさん」
「ん? ええ」
もちろん考えている。
「一頭の馬に二人で乗るんですよ」
「そうね?」
何を当たり前のことを言うのかと首を傾げた。
リオとウォルトは示し合わせたかのように顔を見合わせた。二人して苦笑いして、困ったとでも言いたそうだった。
「近すぎると思いませんか? 副団長がその座を譲ってくださるなんて、あり得ないですね」
「……次の休憩で聞いてみるわ」
そう言うなり、すぐに二人から顔を逸らした。
ぴったりと密着するほど近くはない。けれど、触れそうで触れない体温と気配が伝わる距離だ。後ろに跨る騎士が握る手綱に力を込める時は特に、抱きしめられると錯覚してしまいそうなほど。
ひとりで乗馬ができるようになるまではクロズリー伯爵家に仕える騎士との二人乗りをしていたため意識したことがなかった。そういうものだと気にしないようにしていたら、気にすることを忘れていた。
冷えた空気が窓の隙間から流れているのに、体温が上がっていく感覚が手に取るようにわかった。
◇◇◇
どきどきと、恋を楽しむように胸を高鳴らせていたのは想像の中だけで終わりを告げた。
実際に物申した後のセシルの表情を一度目にしてしまったら、浮ついた気持ちは呆気なく消え去る。
かといって、「大人しく馬車にいる」と取り消すことはしたくなくて何とか二人乗りするところまでは漕ぎ着けたものの、振り返って顔を合わせることが難しい分、どんな話題をしたらいいのか分からない。
気持ちそのままに視線が下がると、手綱を握るセシルの手が視界に入る。
抱きしめられているような温もりを凍てつく冷気越しに感じるのに、全然違う今の状況がとてつもなく孤独だ。刺さる風が目に痛くて、泣くつもりはないのに潤む。
「……苦しいか」
ぶっきらぼうな問いかけに小さく首を縦に振る。
「私もだ」
どうせ顔を合わせられないからと、唇を噛み締めた。
「君が殿下の要請に応じると分かっていたさ。だが、君はもう戻ってこれないと知っているような態度だ」
雲一つない晴天なのに、黒く分厚い雲に覆われているのではないかと思うほど息が重い。
「こうして、心残りをなくすためにクロズリー領の巡回をして」
一言一言が黒ずんだ鉛のようだ。
「それなのに全てなかったかのように何事もなく振る舞う。――常に私を探しているのに、君が自ら私の前から消えようとしている」
リディアの選択がセシルに与えた重石だった。
「それが、私には我慢ならない」
泣く資格なんてない。
セシルが目を覚まさないと知って、苦痛な呻き声や呼吸ひとつに安堵してしまうほどの、失うことへの恐怖を感じた。
それなのに自らセシルの前から姿を消そうとしている。いつ消えるかも分からない恐怖を与え続けている。
「君から離れていても、触れそうなほど近くにいても苦しい」
セシルの吐き捨てた吐息が耳に残る。
「君を攫ってやろうかと馬鹿みたいに考えているんだ」
鼻で笑う音が聞こえた。
自分自身に呆れて、馬鹿だと蔑んでいる笑い方に聞こえた。
――そうさせているのは、紛れもなく私だ。
「私は貴方に酷いことをしている。貴方を追い込んでいるのは私だって分かっているわ」
好きになったひとを傷をつける恋をしてしまった。
彼から与えられる優しさを取りこぼすことなく受け取って、言葉で縛り付けて痕を残す。
清らかさの欠片もない。華やかな色がちっとも混じらない。暗くて深い宵の奥深くに沈み込むような、そんな恋だ。
セシルにとっての『悪魔』は、私自身かもしれない。
「それでも、傍にいて欲しいの。最後まで。ずっと、隣にいてほしいの」
前に回されているセシルの腕に力が入る。
僅かに縮まったたった数センチの距離で、抱きしめられていると錯覚してしまう。
錯覚していいと言ってくれるような、熱をもつ吐息が耳に届く。
何も考えずにセシルの手をとって、逃げ出してしまいたいと何度も思った。
それでも。
何度悔いても、それは私じゃないと思ってしまうのだ。
私は、セシルが護ってくれたリディアでありたい――