◇17-4:行き過ぎた代償
腕の中で心地良く続く呼吸音を体中に取り込んで息をする。
起こさないように少しずつ体勢を変えて起き上がると、体中を回して筋肉を解す。
自分の身体を動かしているのに違和感があり、一体何日間意識を失っていたのかと溜息を吐いた。
騎士服へと袖を通し、音を立てずに廊下へと出る。リオが待機していた。誰も部屋に入れない、と宣言した通りに扉の番人を務めていたらしい。
「苦労をかけたな」
寝ぐせの残る茶髪をぐしゃぐしゃと撫でると、強張っていた表情がぐしゃりと歪んだ。
「ううっ、ご無事で何よりです……。あれ? リディアさんは……」
金属音が小さくぶつかる音にリオが問う。
鍵を閉めていても内からは開けられるので特段問題はないのだが、態々閉める必要があるのだろうかと扉へと視線を向けた。
「眠っている。言っておくが、手は出していないぞ」
「え! いやぁ、わかってますよ! 大丈夫ですって!」
身振り手振りで主張しながらも目が泳ぐリオを一見したセシルは、誤解を訂正するのも面倒だと階下へと足を下す。
「それで、これまでの経緯はどうなっている?」
「俺とフレッドさんは別行動となった翌日に一度塔に戻りました。その後に、ウォルトさんが団長とフィリスさん達を連れて戻られたので大規模な捜索を始めたところ、気絶されたお二人を発見しました。それから三日経った昨日にリディアさんが目を覚まされた次第です」
「そうか」
道理で身体が鈍っているわけだ。
身体中に受けた傷が残っていないのは祈祷師の祈りのお陰だろう。フィリスに礼をしなければならないなと考えていると「それで、ですね」と口篭った声に足を止めて振り返る。
真剣な表情で数段上にいるリオを見上げたセシルを前に、リオの眉がへにゃりと下がった。
「三日三晩フィリスさんには副団長の快復を祈っていただいたのですが、大分淀みの影響を受けていたので、外傷は治っても精神への作用にあまり効果が見えなかったんですけど……昨日……」
息が浅くなる。
護衛だなんだと言いながら、結局最終的に守られる側に立つのは祈祷師ではなく魔導騎士なのだ。
「リディアか?」
「はい……。フィリスさんの祈りが副団長を救うのだと仰られていたそうで……その、俺たちとの想いの差だとしたら面目ないのですが」
「気にするな。私も生き延びたことに驚いているんだ。それよりも、団長とフィリスの護衛小隊は今いるのか?」
反転して再び階段を下る。音が響きやすい造りになっている塔だが、二人の足音以外には音がしない。
「いえ、団長はお二人を発見した後に王都に戻られました。当分休暇を与えるので一度戻ってくるようにとのことです。フィリスさん達は村の宿に部屋をとっているので、朝食を取られたら来られると思います」
「そうか。なら、私は軽く湯浴みを済ませてくる。朝食はこれからだろう?」
「はい。副団長も朝食……食べられますよね?」
「もちろんそのつもりだが? どうした」
随分と当たり前のことを不安そうに語るリオを怪訝な顔で見返す。
「リディアさん、昨日の昼前に起きたんですけど、食欲がないと仰って食事を一度も取られなかったので……。でも副団長もこうして目を覚まされましたから今日は大丈夫だといいのですが」
「そうか。食堂に来ないようなら後で私が部屋まで持って行こう。彼女には聞かなければならないこともあるしな」
呼吸が乱れた様子も、嗚咽もなかった。しかし、一度だけ僅かに肩を震わせたリディアの頬には涙の乾いた跡があった。
そんなことにも気付けずにいた私が彼女の真意を汲み取れるのか、とセシルは思う。
リディアは随分と変わった。自分を含めた魔導騎士に対する態度に変わりはない。それはリディアがそうしているだけなのだ。
今の彼女が何かを隠し通そうと思ったのならば、幾らでもそうできてしまう。
淑女らしく刺繍も好むが、難解な本を読み知識を増やしいてる時がより生き生きとしている。
体を動かしたいと言って、男だらけの訓練に加わることもしばしば。馬を難なく乗りこなすし、若手の魔導騎士にはさり気ない気配りもできる。
極々普通の令嬢とは異なる面も多々あるが、花を愛でることを最も好む。
咲く過程を楽しみ、香りを身体中に取り込み、散りゆく姿を惜しむ。
それがリディアだ。
それでも、祈祷師となることを決意したリディアしかセシルは知らない。
その決意は例えセシルが何を言ったとしても、既に揺るがないところまで強固になってしまっている。
(考えておく、か――。君にそんな選択肢は元々ないだろうに)
いつかの返事に呆れが出る。
にっこりと口角を上げて細めた蜂蜜色の双眸には既に迷いなどなかった。
最初から伸ばした手を取る気など彼女にないのだ。いくら頬を染めようとも。いくら恋滴る眼差しでこちらを見ていようとも。
祈祷師で居続ける選択肢しか、その目になかった。
情を増やし、嫉妬を募らせ、狂気を孕ませて。理性を失う歪んだものに変えてでもこの手を取らせたかったが、そんな時間もないらしい。
まだ会話すらしていないというのに、残される者の気持ちを少しは理解できたのかと勢い任せに罵ってやりたい気分だった。
◇◇◇
「最後になりますが、ブルーナ様から聖霊の加護が消えました。それについては殿下から祈祷師方へ伝えるとのことで、他言無用と仰られていました」
朝食を終え、締め切った応接室でウォルトを筆頭にされた状況報告が終盤に差し迫った頃だった。
過去にない話に顔を顰める。
「消えた? それはどういうことだ?」
「わかりません。ブルーナ様が王宮に着いた際は一度殿下と顔を合わせていますので、それから魔導騎士団棟の自室に篭っていた期間に消えてしまったようです」
「では、彼女は今どうしている?」
「殿下から加護が消えていると聞くなり王宮から出て行くと仰られたようで、侍女とともに旅立たれました。殿下の用意した護衛をつけていますし、金銭面は護衛が全て支払っているようですね」
ラザル伯爵邸で姿を見たブルーナの様子と照らし合わせる。伯爵令嬢として必要以上の教養を身につけさせずに育て上げた、気の弱そうな雰囲気のある娘というのがセシルから見た印象だ。
市井に出て職を探すことはおろか、馴染めもしないだろう。後ろ盾もない中で王宮を去るというのは、余程先のことが見えていないのか、侍女への信頼が強いのか、はたまた、後ろ盾を既に見つけているのか――
「行き先は?」
「元ラザル伯爵領に向かっているようなので、侍女の身内の元を目指していると思われます」
行き先を明言はしないが隠すつもりもないらしい。
ひとつ、呼吸を置いた。
「――リディアが関わっていると殿下は想定していたか?」
「可能性の一つとして。流石に部屋の監視まではしていませんでしたが、一度は行き来があったのではないかと思われている口振りでしたね」
前例にない事が起きた原因を想定する際、真っ先に浮かぶ人物がセシルにとってそうだったように、エリアスも思い至った。
だからこそ、耳に入っていない状態での反応をエリアス自身が確認したいのだ。
「彼女の動向を整理する必要があるな」
セシルが離れていた期間の出来事については既に報告を受けている。けれど、それがブルーナとどう繋がるのか時々の言動も含めて今一度見直しておく必要がありそうだ。
これまでの話を一旦整理するためにも思考を巡らせると、これまでウォルトの報告に横から一、ニ口を挟む程度だった男が手を挙げた。
「あー、すまん。ひとつ報告が遅れてしまったことがあるんだがいいか」
「なんでしょうか? ジェイク隊長」
「実はな、昨日フィリスが真っ先にそちらの祈祷師殿にブルーナ殿の件を伝えてしまったのだ。私とウォルトが入れ違いになっただろう? その時にな」
それが親切心から切り出した訳ではないことは容易に想像がついた。
後悔を滲ませた息を吐くウォルトが瞑目して謝罪を口にする。
「すみません、フィリスさんの性格を考えて動くべきでした」
祈祷師の言動を縛ることはできない。
その点に文句をつけられる者はいないが、その場にリディアにつく護衛騎士が誰も居なかったというのは少々厄介だ。
「ジェイク隊長から見て、どう映りました?」
「素直に驚いていたぞ。そんな話は司教からも我々からも聞いていないとな。ブルーナ殿が祈祷師になることを拒んでいることは伝えていたのだろう? 良かったと安心していたな」
ジェイクの話を聞き入れながら想像する。
驚き、耳にしたことがないと口にして、ブルーナにとって良かった事だと安心する。それはリディアが見せる反応として妥当だ。
「その後に、加護がなくなってほしいかと問われてな。フィリスは嫌だと答えたのだが、フィリスが逆に聞き返した時には『分からない』と頭まで下げられた」
(『分からない』か……)
フィリスに問うことも不思議ではない。しかし、聞き返された際の答えが引っかかる。
答えは既に決まっているはずだ。聖霊の加護にまつわる真実を知り、その上でエリアスの願いを祈り届けたリディアが今更ただの伯爵令嬢に戻ることを願うだろうか。
――あり得ない。
それがセシルが知るリディアであって、本心にせよ取り繕ったにせよ「祈祷師で在り続ける」と答える場面だ。
それなのに「分からない」と答えた。
つまり、それだけは本心といえる。
「が、すまん。フィリスが気掛かりでリディア殿にまで注意を向けられなかった」
「いえ。彼女が敢えてそうしたのなら、違和感を抱くことはないでしょうから」
常時行動を共にする護衛騎士であっても見逃してしまうほどの些細な変化しかないのだから、顔を知っている程度の間柄では酷だ。
「それでフィリスが気掛かりとは?」
祈祷師で居続けることを願うのは彼女の境遇を考えれば不自然ではない。
身につけた教養や負けん気の強い性格を考えれば、祈祷師でなくなっても待遇の良い職に就いて生活していける。しかし、幼少の記憶が災いして、魔道騎士が評価していてもフィリス本人は気休めとしか思っていない。
「いやぁ、祈祷師は碌な死に方をしないと気づいていてな。エレナ様の一件を間近で見ていたのだから致し方ないが、子を望めないことまで知っていたのだ」
「そうですか……」
「なんとかフォローしようとしたのだが『誤魔化そうとしなくても気にしていない』と怒られてしまってだな」
「祈祷師様の御心は計り知れないですね」
何よりも他者の意を汲んだエレナに、祈祷師でいることを己に課すリディア。ここを逃げる場所にしたカロリナに、祈祷師でいることにしか己の価値を見出せないフィリス。
そんな彼女達だからこそ聖霊の加護が与えられているのなら、‟加護”だなんて祝福されるものではない。
彼女達はまさしく、国を維持する為の生贄なのだ。