◇17-3:揺らぐ世界
窓から射していた室内を照らす光が紅く染まって、余韻を残して消えていく。
光を浴びていた金色の髪が闇に埋もれていく。
風の音さえしない、ただ二人の呼吸音だけが鳴る静寂の中で扉の軋む音がした。
「リディアさん……? お食事にしませんか? 具沢山のスープを作ってくださいましたよ。薄味なので食べやすいと思います」
静寂に潜ませてそっと落とした声の主はフレッドだ。
橙色のか細い炎を閉じ込めたランタンの灯りは、暗がりになれた目にも優しい。
「ごめんなさい、今は食欲がないから明日にいただくわ」
「そう、ですか。無理はなさらない方がいいですからね」
身体的な面でいえば食欲がなくとも食べるべきだ。それでもリディアの精神面を優先してくれるフレッドのおかげで、冷えていた体温から力が抜けるのを感じた。
「副団長もきっと明日には目を覚まされますよ。ラティラーク王国の祈祷師様がお二人もついていますから」
フィリスが村の宿に戻ってからもセシルの傍を離れないリディアを気遣っての言葉に微笑む。
「ええ、ありがとう。私ももうすぐ部屋に戻るから、あまり心配しないで?」
自分がここに居続けることで魔導騎士も気が休まらないだろうとはわかる。けれど、それがわかっても動き出せない。
一分先か、一時間先か、一日先か。
どれほど後になるかはわからないが、それがリディアにとってのもうすぐだった。
「――わかりました。ランタンに火を灯しておきますね」
「大丈夫。暗がりに目が慣れたから、月明りで部屋まで戻れるわ」
なるべく平然と、柔らかな口調で伝える。
そうして、ゆっくりと丁寧なお辞儀をして扉の奥へと消えるフレッドに「ごめんなさい」と心の中で謝る。
(今だけは――)
幾分か体温の低い骨ばった手首へとそっと手を押し当てる。
「……セシル」
触れた肌から伝わる拍動を感じて、静かな呼吸音へと耳を澄ませて、ただただその名を呼んだ。
◇◇◇
キィ……と扉が軋む音がして目を覚ます。
そして、絶句した。
思考が追い付かず声すら出なかったが、視界の奥に立っている人物も同じだった。
大きく口を開いて、けれど片手で塞いで飛び出そうになる大声を必死に抑えているリオは確実に誤解をしている。
違う、と言いたいのに上手く口が回らなくて声がでない。
そうしている間にもリオは「俺、誰もこの部屋に入れさせませんから! 安心してください」と言い残して、足早に出て行ってしまった。
室内は窓から射し込む日差しで明るい。
元居た場所へと視線を移すと、腰掛けていた椅子には厚手のストールが落ちていた。
昨日まではなかったものだ。
そのまま寝てしまったリディアに、様子を見に来た魔導騎士の誰かが用意してくれたのだろうと察せられる。
(どうして……)
背後からは規則正しい拍動が聞こえる。
背中を覆うのは広い胸板で、固く引き締まった右腕がリディアを覆うようにだらりと垂れている。
布団の温かさとは異なる、じんわりと熱をもつ人肌に包まれている。
リディアが寝ている間にセシルが起きて今の状態になったとも考えられるし、意識のないまま自ら布団にもぐり、寝返りをうったセシルによって偶々今の体勢になったのかもしれない。
そんな、どちらともとれるくらいの隙間が空いた距離だった。
(とりあえず、起きないと。少し腕を持ち上げたらすり抜けられそうだわ)
音をださないように注意を払いながら深く深呼吸をして、胸の前で力なく垂れている腕へと両手を添える。
そうしてゆっくりと押し広げようとするも、びくともしない。それどころか僅かに押し返されているような気さえする。
「……セシル? 目を覚ましたの?」
呟くように小さく問う。
何度かゆっくりと呼吸を繰り返して待っていたが返事はなくて。
やはり勘違いだったかと再び両手に力を入れると、今度は力強く引き寄せられた。
手のひら一つ分開いていた距離が隙間なく埋まる。
規則正しく鳴っていた拍動は、いつの間にか激しく鳴り響いていた。
ずるずるとセシルの額が肩口へと埋まる。
首筋を撫でる金糸の髪が少しくすぐったくて、恥ずかしい。
「セシル、お願いだから返事して」
返事はなかった。
吐息も聞こえない。
ここにいるという、ただそれだけのことを確認するように、静かに耳を澄ませて肌で感じていた。
昨日の私だと気づいた。
ようやくだ。
不思議だった涙が滲んで、映る世界が緩んだ。