◇16-5:『聖』なる乙女
曰く。
数百年も昔、ラティラーシアは人間が戦禍とした現在のラティラーク王国全土に渡り魔紋を描き、戦をしていた人間全てから記憶の一部を犠牲にして悪魔を呼び出した。そして、願う。
――自らが望む国で在り続けることを求め、その対価にこの身を差し出すと。
それは到底均衡が取れないものだが、聖霊にとっては都合が良かったそうだ。
その理由を要約すると「隠居したかった」の一言になることには思わず気が緩んでしまった。まるで年老いた老人のようではないか。
悪魔が居を構える世界はどうやらこの世界と大差ないらしい。階級による上下関係があり、執行できる力も違えば召喚に応じる際の渡り賃や契約の対価に何を求めるかの嗜好も様々。人間同様に思考が多岐に渡る分、寿命のない悪魔にとってはしがらみが多く窮屈だというのが聖霊の言い分だ。
そうして、聖霊はラティラーシアの望みを叶えることと引き換えに、ラティラーシアを宿主にしてこの地に留まっている。
「この女が望んだ国に必要なのが魔獣とお前らだ。人間同士の諍いが絶えないのならばそれ以外の共通の敵を。そして、己を崇めさせる信仰が存える象徴を」
聖霊から語られる聖女の姿に、呼吸を飲み込む。
国をまとめるために敵と信仰が必要だという思想は一応は理解できる。国同士の戦があるうちは内乱は起きにくいことを他国の歴史が物語っているからだ。信仰も同様で、思想の違いは争いを生む。エリアスが語った通り、信仰を深く広めるためには絶対的な象徴が不可欠で、だからこそラティラーク王国は内乱のない平和な国で在り続けられたと言える。
けれど、それを実現するためにとった方法は余りにも犠牲が多くて。
リディアは思わずにはいられない。
果たしてそれは『聖女』なのだろうか、と。
「私は精霊の人間に対する憎悪に相応しい器を与えた。精霊も思うままに動かせる実体を手にしたことで人間を滅ぼせると喜んでいたぞ」
嬉々として語っていた聖霊の瞳が逆さ三日月に歪んだ。その口振りに愛想を取り繕うともせず眉根を寄せるが、聖霊は浮かべた表情とは裏腹に恨めしく言葉を吐き出す。
「しかし、人間が信仰によって争いを好まなくなると、精霊も変わってしまうものなのだな。数百年と経った今では憎んでいたはずの人間に助けを求める始末だ」
意志があるのだから、当然心境も移ろいゆくものだ。
それなのに聖霊は数百年間変わることなく、そして今後の長い月日も同じように『隠居』することを望んでいる。
リディアには寿命のない永遠を生きる聖霊の心情を計り知ることはできないが、精霊とも異なる存在であることを悲しんでいるようにも見えた。
「わかるか? お前が魔獣を元の姿に戻してしまえば、完全に消え去る。そうなれば、この女との契約が成り立たなくなり、私はこの地を去らなければならない」
「――貴方の都合は分かったわ」
精霊が人間を憎まなくなった。だから、新たな魔獣を生み出すことは叶わない。
リディアが精霊を魔獣で在り続ける苦しみから解放した結果として聖女との契約を終えることは、隠居を望む聖霊にとっては都合が悪い。
しかし、ラティラーク王国にとっては悪くない話ではないだろうか。
魔獣の脅威を恐れる必要がなくなるのだから。
精霊が数百年の時を経て心変わりしたのと同様に、人間の心持ちも変わっている。再びこの地を戦火にと考える者がいたとしても一握りだろう。誰かが侵略を試みても、それらを抑えられる力は既にラティラーク王国内にある。
そこまで考えて、はたと気づく。
聖霊が聖女との契約を終えて消え去った時に、聖霊の加護は消えてくれるのだろうか、と。
「どうやら少しは理解ができたようだな」
瞳も頬も、口元も。表情をつくる全てがにたりと歪んだ。
(優位になんて。立てないわ……)
投げかけられた眼差しだけで実感する。
いくら聖霊の都合を知ろうとも意味をなさないことなのだと。
「言っておくが、お前がこれまで救った魔獣はほんの一握りだということを忘れるな。仮に、お前が全ての魔獣を救ったとしよう。私はこの地を去らなければならん。――しかし、それでいいのか? 私の力を与えた人間はいくらだ? 私が消えても既に与えた力は残るぞ。そしてお前は私の力が及ぼす影響を知っている」
笑い声こそないが、愉快で堪らないといった聖霊が見下ろす。
「どうだ? 見過ごせなかろう。そういう人間に私の力を与えているからな」
清らかな声で朗々と語る姿は聖女の形をした『悪魔』そのものだ。
「そう決めたのはお前たち人間が聖女と崇めている女だぞ? 他者のためならば自己犠牲を厭わない者が最も適任だとな」
握りしめた手のひらからじわりと血が滲む。
カロリナとフィリスだけなら、ブルーナと同様に聖霊の加護の譲渡ができるかもしれない。
けれど聖霊の加護があることに気づかれていない人を救うことはできない。
聖霊の言うとおり見過ごせない。したくない。
だからといって、どうすればいいのだ。
それでいいもなにも、救う手立てなんて一つもないではないか。
「そう怒るな。お前に選択肢をやる」
リディアへと聖女の手が差し出される。
真っ白で穢れを知らないような清らかなそれは、きっと『悪魔』の囁きだ。
「私の新たな契約主となるがいい。私が定める条件は一つ。永久に続く契約を結び、私の宿主となることだ。お前が望むのなら、この女と同様にお前にとって都合の良い国に創り変えてやろう」
空気が冴えている。
血脈が騒ぐ様子も、指先から凍りつく感覚もない。
聖霊が出した条件は双方に都合の良いものなのだから二つ返事で返せばいいだけのこと。
それでも、薄く開いた口から返事を返すことはなかった。
聖霊の加護なんてなくなればいいと思う。
魔獣に変わってしまった精霊を救いたいと思う。
思いとは異なり、手の届く範囲には限界がある。
だから、最大限出来得ることをしようと心に決めていた。それが祈祷師として生きる私の使命だと。
けれど――
聖霊との契約を結べばどんな願いでも叶うのならば、手が届く最大限の範囲は一体どこになるのだろうか。
「次にこの森に足を踏み入れた時に返事を聞く。精霊どももお前を見逃すとは思えん。望みが叶うまで森から出させないつもりだろうからな。――なぁに、死にたくなければ来なければいいだけの話だ」
死にたくなかったのだろう? と嬉々として言い放った聖霊が伸ばした手の指先をひらひらと払う。
青白く煌めく眩しい世界から一転、黒に染まる紫煙の宵闇に呑み込まれた。
その色合いが何度も向かい合った深い宵の瞳に酷似していて。
あの時差し出された手に応えていれば良かったと、今更ながらに悔いた。
◆◆◆
ぼんやりと、霧の奥から姿を現したのは探していた当本人だった。
慌てている素振りもなく、のんびりと俯きがちに歩いてくるその姿に焦燥が憤りへと変わっていく。
「君は今まで何処にいたんだ!? 一体なにが……聞こえているのか、……リディア?」
早足で詰め寄り両肩を掴むも一切返事がない。
それどころか顔をこちらに向けることすらなかった。
腫れ物に触れるように恐る恐る顎に手を添えて顔を合わせる。
それなのに、目が合わない。
虚ろなのだ。
開かれた瞼から見えるはずの蜂蜜色の瞳が、そこにない。思考が追いつかずに息を呑んだ。
「リディア、私の声が聞こえているのなら返事をしてくれ」
温もりを感じるはずの淡紫が光を伴わない瞳となって、私を射抜く。
何度も目にしてきた眩い煌めきだ。
祈祷師の祈りとともに宙を舞う淡い光。
(……明らかに早すぎる。もしや、あの光の影響なのか!?)
考えられるのは魔獣を消し去った目の眩む閃光しかない。
あれが聖霊の加護によるものという仮定が正しかったのであれば、リディアが力を使ったのは二度。
たったそれだけで、祈祷師の一生涯に匹敵するとでもいうのか。
この期に及んで、まだ己に都合の良い先しか見ていなかったことに気付かされる。
いつの間にか、リディアの肩を握りしめる手に強い力が加わっていた。
軋む肉体に痛みを覚えるだろうにそんな感覚はないらしい。
違和感に目を向けると僅かに冷静になれる。
握りしめた肩からも、触れた頬からも焼け付くような熱は感じられない。熱くはない。逆に冷えすぎているくらいだ。
意識がないからなのか苦しむ様子もなく、身体中が眩い光に呑み込まれることもない。
祈祷師エレナも辿った、機密事項として記されている祈祷師の終幕とは似て非なるものだ。
そう、例えばこれは警告のような――
唐突に無機質な淡紫が消える。
同時に魂が抜けたように崩れ落ちたリディアを即座に支えると、温かな体温がローブ越しに伝わった。
ようやく本当の意味で彼女が戻ってきたらしい。
安堵すると酷使していた体が悲鳴を上げた。意識のない彼女とともに、ずるずるとその場に膝をつく。
トクトクと静かに伝わる心音で迫り来る緊張が僅かに緩んだ。
「君は、祈祷師になってはいけなかった」
あの日の後悔が再び圧し掛かる。
止めるべきだったのだ、何をしてでも。私の身が滅びようとも。
気づけば辺りを囲まれていた。
気配は微塵も感じなかった。
突然その場に出現したかのように瞬く間に周囲を取り巻いた魔獣の大群に、後悔という沼の中に漬かっていたことを忘れかけていた己を再び呪った。