◆閑話:まるで、じゃなくて
「会わないって言ってるでしょ」
侍女の口から出るその人物の名を聞いたのは、これで何度目だろう。
逃げ出したいだろうに私とともについてきてくれたカリナは、いまでは私にとってただ一人の味方だ。
それなのに、最近のカリナは度々その名を口にする。
一度会う機会をつくってもらったことが、そんなにも彼女には好機と思えたのだろうか。
「お嬢様、私の話を聞いてください」
「聞いてる。何回も聞いたわ」
使用人から聞く話ではとても気の優しい人のようだ、とか。
本を抱えている姿を度々目にするから興味深い話を聞けるのではないか、とか。
またお茶をともにしてはどうか、とか。
あの祈祷師と話した内容はカリナには伝えていない。聖霊の加護が私にあることは知ってるけど、その清らかな名に隠された残酷な結末をカリナは聞かされていないし、言っていない。
だから、話したくても話せない。知られたくない。
ただ気が合わない人だったとだけ言うと、カリナは一度で判断すべきでは無いと風当たりの良い話を持ち込んでくる。
流石に何日も続くと煩わしくなって、あの無知な祈祷師の名が出た途端に突っぱねた。
それなのに、今日のカリナは少し違った。
「お嬢様の望みを叶えると!! リディア様が仰っておられたのです」
侍女としての厳しいマナーを学んでるカリナが声を荒立てる姿を目にするのは初めてだった。
その様子に真っ先に驚いて、次にその内容に目を瞬く。
私の望みとはなんだろう。
恋をして、好きな人と結婚をして、子を産み育てたい。
小さい頃から憧れていた、誰しもが望む当たり前のことがしたい。
しかし、聖霊の加護が与えられてしまった私にはもう死を待つしかない。何もしたくない。何にも関わりたくない。
それでも、死にたくはないのだ。
聖霊の加護だなんて名ばかりのこんなもの、いらない。
「『私は会わなくても構わないけれど、貴女はきっと後悔する』と。そう伝えてくれとおっしゃられました」
早口で言い切ったカリナは、今度は視線を彷徨わせてから呟くように声を絞り出す。
「私には、リディア様はお嬢様にお会いしたくないようにも見受けられました」
どういうことかと顔を顰めた。
会いたくないのなら、そもそもカリナに声をかけなければいいのに。
私の望みを叶える?
私の為に祈りの力を使うということだろうか。
「それでも、私はもう塞ぎ込むお嬢様を見ていたくはありません。……お嬢様に新たな道を示してくれるのはあの方ではないかと思ったのです」
震える声で切実に話すカリナに、応えるように首を僅かに振る。
「また……会う機会をつくってくれる?」
聖霊信仰を体現していたような無知な祈祷師は、濁った真実を知って、今度は私に何を語るというのだろう。
その身を犠牲にして私の願いを叶えてくれるのだろうか。
そもそも一介の祈祷師に叶えられるようなことなのだろうか。
それでも、望まずにはいられない。
まだ何もしていない。やりたかったことはこれからの日々に詰まっていたのだ。
伯爵令嬢という身分がなくなった私から聖霊の加護すらなくなった時に、どう生きればいいのかわからない。
それなのに諦めきれないだなんて、愚かなことなのだろうか――
◇◇◇
「こんばんは、ブルーナさん」
にこりと穏やかな微笑みを浮かべて挨拶をする彼女は、以前会った時と何も変わらなかった。
全てを聞かなかったことにしたのかという疑問が浮かんだが、この人は違うと理解もしていた。
「私の望みを叶えるって、どういうこと?」
挨拶もそこそこに直球で聞く。
またもや目を細めて微笑んだ彼女を見て、気付いた。
「言葉の通りよ。聖霊の加護がいらないのでしょう? その願いを聖霊様に祈りましょうか」
彼女は私と同じ伯爵令嬢ではなくて、もう祈祷師様なのだと。
全てを理解して、それでも祈祷師として生きることを選んだのだと。
差し伸べられた白い手のひらへと手を伸ばして体を持ち上げる。
触れる手前で、ぴたりと止まった。
「本当に、そんなことできるの?」
「――貴女が迷いなく望むのなら」
薄暗い部屋の中で相まみえた彼女の瞳は揺らぐことがない。
「貴女はもう伯爵令嬢には戻れないのよ。それでも聖霊の加護がいらないと断言できる?」
意志の籠った眼差しに魅入られる。
そこからは慈愛の念しか感じられなくて、もしも聖女が実在するならば彼女ではないかと思えた。
握った手のひらは見た目の通りひんやりとしていて、漏れ出そうな思いを噛みしめる。
「安心して。聖霊様は必ず聞き届けてくださるわ。……目を閉じて、心の中で祈るの」
言葉のままに瞼を閉じる。
両手で包み込まれた右手に左手を添えて、額を近づけた。
「私はね、聖霊の加護は必要とする者の元に渡ればいいと思うの。その力を国の為に使える者に。聖女様の意志を継いで、国を平和へ導く者に」
そうだ。
私は確かに必要としていた。
ジュードが薬師になる道が絶たれそうだったから。これ以上成長を見込めないと見切りをつけられたから。薬師見習いでなくなったジュードは伯爵邸を去ることになるから。
だから、聖霊様に強く祈ったのだ。
ジュードのために、という言葉の裏には他でもない自分のためにという思いが埋め尽くされていた。私は自分のためになるから、ジュードの願いを祈れたのだ。
自分を犠牲にした上での他人の幸せなんて、祈れない。
もう使うことのない力なのだから、それを欲している人の元へ行けばいい。
「私も、貴女も。聖女様の意志を継いでいるのだから、聖霊様は必ず聞き届けてくださるわ」
古くから続く言い伝えだ。
それなのに彼女がたおやかに紡ぐ言葉を心の中で復唱すると、すとんと胸に落ちてくる。
確証もないのに信じてしまう。
不思議なことに、私の願いは必ず叶うと分かるのだ。
「私達の想いを届けましょう。――――エクラシア・フィデラーレ」
彼女が唱える言の葉に合わせて心の中で祈る。
繋いだ手がじんわりと温かな熱をもつのを感じた。
瞼を閉じていても、柔らかな光を感じれる。
この既視感の正体はなんだろうかと、ふと疑問に思うと添えていた左手の甲に雫が落ちた。
――――泣いていた。
慈愛に満ちた笑みを浮かべながら、零れ落ちた雫が頬を伝っていた。
淡い紫の柔らかな光は、彼女の体に触れると溶け消えていく。
この光を私は見たことがある。私の内に宿っていた聖霊の加護だ。それが、今は彼女の元へと流れている。
私が望んだ。私達がそう祈った。
目が眩むほどに美しいはずの光の中で、息苦しい嗚咽が漏れた。
◇◇◇
「では、貴女には聖霊の加護が消えたことに思い当たる節がないんだね?」
「私も殿下から聞いて驚いているのです。……しいて言えば信仰心がないから、ではないでしょうか?」
親が親なら子に信仰心が根付いていなくて当然だ。そもそも、聖霊の加護が与えられたことが不思議でならないのだから。
「そう……」
顎に手をあて考え込む仕草をする殿下を向かいに、戸惑いつつも安堵を隠しきれない風を装う。
「殿下、聖霊の加護がないのなら……私がここに留まる理由はないですよね?」
「まあそうだね。けれど、伯爵令嬢でもない貴女が王宮から離れてやっていけるのかい」
「ここに残りたいとは思いません。それに、私には共にいてくれる侍女がいますから」
「そう? 騎士を一人つけておくから、なんでも頼ってくれて構わないよ。今はなくとも聖霊の加護が与えられた者の意志を我々は尊重しよう」
「ご厚意に感謝いたします」
存外あっさりと認められたことに胸を撫で下ろす。
騎士をつけるといっても、護衛としてよりかは監視の意図だろう。それでもいい。
行きたい場所ができた。学びたいことができた。
その先のことなんてわからない。
それでも、私は私を救ってくれたあの人が生まれ育った地をこの目で見て、知りたい。
そう思えることが何よりも嬉しいのだ。