◇15-4:引き返せない
魔導騎士団棟の屋上に造られた祈祷室は、三角状のガラス窓と天井絵が交互に合わさる屋根が天高くまで鋭く伸びていて、夜に訪れると星の絵物語が広がる。
夜空を彩る星は、ラティラーク王国では言わずもがな聖霊の象徴だ。
大柄な男性が五人集まれば息が詰まる程こじんまりとしているが、聖霊との距離をより近く感じることのできるここは大聖堂とは違った趣があって、一人静かに祈りを捧げるのに適している。
リディアも毎日のように訪れては空を見上げて聖霊に祈りを捧げてきた。
「先日はご苦労様。遅い時間となって申し訳ないね」
「いえ、お忙しい中こうして訪ねてくださり感謝しております。ですが、こちらでよろしかったのですか」
魔導騎士団棟には来賓室があるし、以前エリアスと食事を共にした庭園のガセポもある。リディアが訪れたことがないだけで王宮内には茶会を楽しむような場は多く設けられているというのに、指定されたのはこの祈祷室だった。
使用人が事前に湯気の立つ紅茶と一口サイズの菓子が盛り付けられたケーキスタンドを用意してくれたのだが、見慣れないせいか少々異様に感じる。
「私はここを気に入っていてね。幼い頃は度々こうしていたんだが、残念なことに最近は相手をしてくれる人がいなかったんだ。こうしていると、聖霊と茶をともにしているように感じないかい?」
目を細めて笑うエリアスに、リディアも目元を緩めて口角を上げる。
なぜこのタイミングなのかと思う。エリアスの発想は以前のリディアであれば魅力的だったが、今はその言葉の裏に悪意でないにせよ何らかの思惑が隠れているのではないかと疑ってしまう。
「それにしても、リディア嬢から誘いをくれるとはね。私もようやく一息つけるから有難いよ。今日は私を見ては不機嫌そうに息を吐く彼もいないしね」
この場にセシルはいない。
今朝方、牢獄送りとなったラザル伯爵の移送を供にするため王宮を発ったのだ。
ただ往復するだけなら二日あれば充分な距離だが、同時進行で任せられている後始末があるらしく、数日は戻らないらしい。
エリアスとの場を取り持ってくれたウォルトは扉の外にいる。小窓を解放しているため、声を極限まで潜めない限り祈祷室内での会話は聞こえるだろう。
「それで、私に尋ねたいこととはなんだろう?」
紅茶を優雅に飲むエリアスの横にはレナードが控えている。
王族の護衛である近衛騎士はそれなりの数がいるのに、リディアがエリアスと顔を合わせる時には決まってレナードだった。
(もしかしてと思ったけれど、偶然ではなかったのね)
その理由を仮定してみるとどれも気持ちの良いものではなかったのだが、今回ばかりはリディアにとってこれ程までに都合の良い状況はない。
「先日は祈祷師として貴族の方々と話をすることで、この国を知るより良い機会となりましたわ。ですが、至らぬ点も多いことを身に染みて感じましたの。今後のためにも、ぜひ殿下の立場ならではのお考えを学ばせていただきたく思いまして」
「貴族と王族の主張は必ずしも一致しないものだからね。もちろん、祈祷師はそんな枠組みに縛られる必要はないが、我々にも目を向けてくれるのは光栄だよ。国王と私でも異なる部分はあるけれど、私の考えでよければ、なんでも聞いてくれて構わない」
感心を含んだ気前の良い返事に、つられて霞んだ笑みが漏れた。
「寛大なお言葉に感謝いたします。それでは」
茶会、だなんてただの名目だ。
エリアスの瞳に映る聖霊を視界に収めながら、祈祷師らしい柔らかな声音で口を開く。
「聖霊の加護とは何か、祈祷師とは何かを殿下に伺いたいですわ」
浮かべる表情はぴくりとも変わらない。
想定通りではあるが、実際にエリアスを目の前にすると想像以上に重苦しい。漂う空気の温度が急降下したのが晒された肌から容易に感じ取れる。
「それについては、司教や魔導騎士団から既に説明を受けているだろう? なぜ、私なのかな」
「何事にも表と裏がありますから。……ラザル伯爵方への制裁がその一例でしたね」
思案するように頬に添えた手の指先を流れるように動かして唇に触れる。そして呼吸を整える一息のあとに再び続けた。
「殿下は口外を禁ずる魔術を施されていないでしょう?」
エリアスの細まった瞳から刺さる視線がひんやりと冷気を放つ。負けじと口角を持ち上げて祈祷師らしい笑みを保った。
「つまり、貴女が教えられたものは表向きのもので、実際は違うと?」
「勿論全てがそうだとは思いませんが。あえて私達にも知らせていないことがあるのではないでしょうか」
「あえてと言えるのであれば、その理由も粗方察しがついているんだろうね。貴女が誰から何を聞いたのかは追求しないでおくが、その上でその先を知る覚悟があるのなら、私は貴女の意志を尊重しよう」
これまでのエリアスとは全く異なる、深入りするなと忠告を交えた冷徹な声だ。
引き返せる最後のチャンスだというようにたっぷり間を置かれていて、迸る緊張感から背筋を冷汗が伝った。
ブルーナからもたらされた話が全てではないだろうとは予想していた。けれど、それらは名のない“祈祷師”になったリディアが“リディア”でいられるための根幹を貫いて崩されたような衝撃だったのだ。これ以上酷な話もないだろうと心のどこかで思っていた。
(私が知り得た真実はほんの一部なんだわ)
気づいたところでもう遅い。耳を閉ざして従来通りに振舞うという、最も幸福でいられる選択肢は既に捨てたのだ。
「全て私が選んだことです。覚悟は祈祷師になることを決意した日からとうにできておりますわ」
確かなことは一つある。
祈祷師となる前に真実を包み隠さず伝え聞いていたとしても、祈祷師になる道を選ぶのは必然だった。
それが貴族として生きたリディアの義務なのだ。
貴族の娘が子を産み血を継いでいくことは義務であり使命である。それなのに、子を成せない体であっては伯爵令嬢リディア・クロズリーの価値は皆無に等しい。なれば、例え若くして死ぬとしても、祈祷師となることで義務を果たさなければならない。
(お父様は私に常々言っていたわ。知識を増やして選択肢を広げろと。揺るがない信念を持てと。そして、貴族としての義務を忘れるなと)
見つめ合うなんて言葉が不似合いな視線の交わりが終わりを告げる。
組んでいた足を正して天を仰いだエリアスの「なにから話そうか」という小さな呟きが、霧散した。