◇12-2:感情の行方
『すみません、僕は別行動したほうが良さそうです』
座席を占領していた包みが残り僅かになった時、フレッドが珍しく眉根を潜めて呟いた。
『どうかしたか』
『右手の遊歩道を歩いていた商人に見覚えがありました。幸いなことにまだ気づかれていないようですが、一人いるということは複数で来ているはずです』
『そうか。なら、別行動のほうがいいな』
リディア達が乗っている船は運河の左側を漕いでいるため距離は離れているし、遊歩道は行き交う人々で混雑している。この中で瞬時に知人を見つけてしまうなんて流石だ。
『貴方も街歩き楽しんでね。また後で会いましょう』
一足先に遊覧船から降りることにしたリディアは座席に座るフレッドに手を振る。
そうして、停泊所から離れていく遊覧船を見送ってから体を反転させて歩き出そうとしたリディアは、はたと気づいた。
(あら、ちょっと待って。まさかの二人きり!?)
今までだってセシル以外の魔導騎士となら二人で外出することはあった。
けれど、そのどれもが日用品の買い足し等、次の巡回へ向けた準備であって、目的地も買うものもはっきりしていたのだ。
だから、“リディアの目的地についてきてもらう”という、そのままの意味で護衛だった。
(でも今回は……、ううん、同じだわ。違うところなんて、一つもないじゃない。……だって、きっとセシルはこの街を観光したかったわけじゃないもの)
観光をしたかったのは、きっと自分だけだ。
セシルは隣接する侯爵領の後継ぎだし、リオは地元、フレッドは家の手伝いで足を運んでいたことがあるのかもしれない。ウォルトはわからないが、自発的に宿に残ると言った様子を見るに興味はなさそうだった。
リディアの観光についてきてもらっているだけなら。そう思えば、今までと何も変わらない。
ただ、その相手が今回は偶々セシルだったというだけで。
『さあ、行こうか』
スマートに腕を差し出すセシルは、見まごう事なき紳士である。
『……ええ』
その引き締まった腕に手を添えて先ほどまで眺めていた遊歩道を歩きだす。
(まさか、こうして賑わう人混みの中をセシルのエスコートで歩くことになるなんて……)
ここは決して王都ではないけれど。
“リディアとセシル”として街中を歩くこと自体が、絶対にあり得ないことだと思っていた。
不思議な感情がふわりとリディアの足取りを軽くする。
トクトクと高鳴る胸の鼓動は、異国の文化が混じり合う大都市フォスタールを初めて訪れたからだ。
――――そう思うことに決めた。
◇◇◇
『雨が本降りになってきたな。やり残したことはないか?』
『充分過ぎるほど満喫できたわ。今日は付き合ってくれてありがとう』
隙間なく並んでいた屋台と人混みは途切れ途切れになり、市場の終わりが近づいてきている。
運河を跨いだ反対側の遊歩道は眺めるだけで終わってしまったが、限られた時間の中でこれでもかというほど楽しめた。
既に雨はしとしと降り注いでいている。
二人が羽織っているのは水捌けの良いローブだが、それでも長時間雨に当たっていたことでじんわりと沁み始めていた。
『宿に着いたらまずは風呂だな。君、そんなんで夕食を食べれるのか?』
『……食べれる、わ』
リディアの手には小口に切られた果物と炭酸水が入ったグラスが握られている。
きらきらと輝くガラス細工を取り扱った露店を眺めていると、店主からグラスを買えば隣に並ぶ屋台がサービスしてくれると言われたのだ。
そこでは異国でしか栽培されていない果物を仕入れているというので、上手い口車にのせられてつい買ってしまった。
グラスの底は深みのある紺青で、飲み口に近づくほど透明になっていくその色合いにも魅せられたのだからしょうがない。
隣の屋台では切り分けたばかりの果実をグラスの半分ほどまで加え、別な容器で長時間漬け込んで果物の香りと味が移った炭酸水を並々と注がれた。
今は半分ほどまで減っているが、まだまだ果実は残っている。
遊覧船に乗っている間もお腹が膨れるほど食べていたのに、遊歩道を歩き始めてからも甘いスイーツを堪能していて、最後に果物だ。
お腹はしっかりと満たされているが、今日泊まる宿はフォスタールで一、二を争う程有名で、この街に来たことのないリディアでさえもその名を小耳に挟んだことがある。当然、提供される食事も絶品に違いない。
食べれないじゃない、何が何でもしっかりとその味を堪能しなければ。
(まだ夕食までは数刻あるもの。なるべく体を動かしていれば隙間は空くはずよ)
大丈夫だと自分に言い聞かせていた時だった。
突然、セシルの腕がリディアの腰を引き寄せた。
そのまま建物と建物の隙間の道へと引きずり込まれる。
二人が横並びに歩くことすらままならない細道だ。いつの間にか、リディアの背中は建物の壁にくっついていて、その向かいにはセシルがいた。
「セ、セシル……? 突然なに?」
セシルの右腕の手首から肘にかけて、べったりとリディアが背にした壁に張り付く。
目を丸くする間にも、セシルの顔が降ってきた。
サラリと金色の艶やかな髪がリディアの頬を撫でる。耳元にかかる吐息と、続く重低音にビクリと体中が震えた。
「静かにしてろ」
その囁きは吐き出された息となってリディアの耳に届く。
左手はリディアの頭を覆っていた。
「ま、待って! 零れちゃうから!」
突然のセシルの接近に慌てて抵抗しようとするも、グラスを持っている左手の行き場がわからない。
再び注がれた息の根に、今度は肩が竦む。
「構わない」
(貴方が構わなくても、私が構うの!)
一思いにセシルを睨むと、真剣な眼差しがどこか遠くに向けられていることに気づく。
その視線の先が気になって首を回そうとすると、頭を覆われている左手で制された。
同じ方向を見るな、ということだ。
体に入っていた余計な力を抜く。
逆上せそうなほど火照っていた頭も冷静さを取り戻した。
動きを封じられて見ることが叶わないため、瞼を閉じて耳を澄ませることで情報を取り入れる。聞こえるのは雨音が地面を叩く音と、道行く人や屋台を営んでいる人、そして商人達の話し声だ。
(何を気にしているのかしら?)
どうやら、目の前の人物は恋人同士のふりをして怪しまれないようにしたのだろう。
運河沿いにはベンチがあるのだからそこに座るだけでも怪しまれないはずなのに、なぜこんな人目を忍んでいちゃつく真似をしなければいけないのか。
今のセシルは魔導騎士の顔をしている。
その理由がわからないリディアには、言われた通りに大人しくすることしかできなかった。