◇11-7:滴る毒
「リディアさん? もう今日は終わりにしましょうか」
「うぅん、だめ……。まだやるの……」
駄目だと言いながらも瞼は閉じている時間の方が遥かに長いし、コクリコクリと船を漕いでいる。
眠気と戦いながら紡ぎだされた声は舌足らずで甘ったるい。
テーブルの上にはリオの下敷きにされてバラバラに散らばったトランプと、三つのグラス。そして数本の酒瓶の他には、向かい合うリディアとウォルトの間にチェス盤が置かれている。
初めは三人でのんびりとカードゲームをしていた。公爵から受け取った酒を大事に味わいながら飲んでいたのだが、それがとてつもなく絶品だったのだ。海を感じる爽やかな香りと、舌にのせた時にしっとりとまろやかに広がる甘味。喉を通り過ぎた後に残るのは、すっきりと透き通おる余韻だ。瞬く間に空になるグラスに注ぎ足す手が止まることはなかった。
そうして、アルコール度数も気にせずに飲み続けた結果が今の状況だ。
リオは早々に全身を真っ赤にして酔いつぶれ、テーブルに突っ伏して寝息を立てている。
三人から二人になってしまい、それならチェスをしようと室内の飾りにもなっていたチェス盤をテーブルへと持ってきては交互に駒を動かしていた。
リディアが駒を動かすまでの間が徐々に延びていき、ウォルトが声をかけても俯いたまま反応しなくなった頃。
しゃがみ込んで下から仰ぎ見てみれば、虚ろな目をしばしばとはためかせ、目元をほんのりと紅く染めたリディアがいた。
どうやら酒を飲んでも顔が赤くなりにくいタイプだったらしい。いくら飲んでも肌は白く透き通ったままだったし、酔いで気分が高揚している様子も見られなかったので、酒に強い女性だと思ってしまっていた。
よくよく見れば、垂れ下がった髪から僅かに覗く耳も赤みがかっている。
「またいつでもできますよ。部屋に戻りましょう」
優しく声をかけて自室へ戻るよう促すも、いやいやと首を振られるばかりだ。
「やだ……だって、まだ勝ててないもの」
そうして駒を動かし、「早く」と急かすリディアにどうしたものかとチェスの盤面を見てはさっさと駒を動かす。止めようと言いつつもチェスを続けたウォルトににんまりと笑ったリディアはまた黙考し始めたが、ついに限界が訪れたようだ。
必死に彷徨わせて駒を動かそうとしていた手がだらりと垂れる。
「……さて、どうしましょうか」
今は祈祷師といえども、貴族令嬢であった彼女をここまで酔い潰したとなればなんと言われるか。
リディアの気落ちしていた気分を晴らすという当初の目的はこうして達成できたわけだが、肝心のリオが真っ先に脱落している。
この場に副団長がいなくてよかったと心から思った。
(それにしても……)
目の前の少女はどうやら無防備が過ぎるようだ。
自分から誘った手前こんなことを思うこと自体どうかしているが、貴族のお嬢様が酔いつぶれるまで飲むとは思っていなかった。
「んぅ……」
微かに開いた口からは悩まし気な吐息が漏れる。しっとりと湿った唇は赤く色づいていて艶やかだ。
露出を抑えた夜着の首元から覗く鎖骨がウォルトに女性らしさを訴えてくる。
リディアが夜着に気を配っていることは知っていた。
遠方巡回にでてからは宿泊する部屋が室内扉で繋がっていることもあって頻繁に夜着姿のリディアとも顔を合わせるが、そのどれもが長袖で襟ぐりが比較的狭い、露出を最小限に抑えたワンピースだった。生地も薄すぎず、体のラインがはっきり出ないものばかりだったように思う。加えて、大抵はその上からストールを羽織っている。
だから余計に思い込んでいたのだ。
しっかりと貞操観念を備えた身もちの固い少女だと。
(どうやら勘違いだったようですが)
この様子をみる限り、既に誰かしらに忠告されていたのかもしれない。祈祷師になる前に身内から言われたか、それとも――
(なにはともあれ、この状況のままではまずいですね)
あの男が戻ってくる前に、リディアを隣部屋の寝台で寝かさなければならない。そのためには、早急に立ち上がり彼女を運ばなければ。
そうは思っていてもなかなか目が離せない。
リディアは絶世の美女というわけではないが、決して不細工ではない。
誰もが美人の部類に入れるだろう。それに程々にスタイルも良い。
けれど、ウォルトにとっては今まで“貴族のお嬢様”という印象しかなかった。
凛とした佇まいと、セシルに意見をぶつけるはっきりとした物言いがより強くそう感じさせていた。女性らしい色気なんて感じたことがなかった。
(困りましたね)
静かに手を伸ばす。
横髪が顔にかかって邪魔そうだから。
僅かに開いた唇に入りそうだから。
だから、抱えて運ぶ前に耳にかけてあげよう。
――それだけの理由だ。
爪先がふわりと空気を含んだ軽やかな髪を揺らした、その時だった。
心臓を握りつぶされるような殺気が一瞬でウォルトを抑圧する。
「――――触れるなよ?」
いつからそこにいたのか。
視界の隅にある室内扉はいつの間にか開いていて。
腕を組んで壁にもたれかかるセシルが口角を上げたまま、こちらを鋭く射通していた。
リディアの横髪を掠める手を静かに降ろして、ゆっくりと立ち上がる。そうして両手をひらひらと振って降参を示した。
「いやだな、副団長。勘ぐりすぎですよ。私が彼女に手を出すわけがないでしょう」
はははは、といつも通りの笑みを浮かべて、今しか言わないだろう言葉を繋ぐ。
「まさか彼女がこの手のことに全くの無知だったとは思いもよりませんでしたが」
「――ウォルト」
「もちろん、私は何もしませんよ」
目の前の男から冷気が立ち上っている幻覚すら見える。
それほどまでにこの少女が大事なのだろうか。一体、この少女のどこに目の前の男が入れ込む価値があるのだろう。
「それはそうと随分と時間がかかってましたね。あの息子は大人しくしていたんですか」
「ああ。随分とやせ細って気力を失ったようだ」
「いいことではないですか。王都まで連れて行くのも楽でしょう」
「餓死しなければいいがな」
公爵領からここに戻ってくるまでの数日間行動を共にした騎士達がウォルトの頭を過ぎる。
「その心配はありませんよ……」
海の男と称するべき逞しく豪快な隊長ディックに何度食事を山盛りにされたことか。馬で駆けている間は吐き気との闘いだった日々を思い出すだけで胸焼けがしそうだ。
「そうそう、副団長に公爵様から手紙を預かっています。なんでもゆっくりと来いとのことで」
壁にかけていた騎士服の内ポケットから取り出した手紙を、チェストの引き出しに入っていたペーパーナイフとともに渡す。
手慣れた手つきで封を開け、中に入っていた便箋に目を走らせたセシルは眉間に皺を寄せて大きな溜息を吐いた。
「なんと書いてありましたか」
無言で戻された便箋にウォルトも素早く目を通すと、耐えきれない笑いが小さく零れた。
「いやぁ、どこに行っても何事もなく終わることはないですね」
それはもう、つい笑ってしまうほどに。
誰かが異教の悪魔とやらに取りつかれているのではと思ってしまうほどに。
「公爵にとっては、君が一足早く公領に行ったことは喜ばしいことだったんだろうな」
言い終わるやいなや、リディアを割れ物を扱うように両腕で抱えて歩き出したセシルが背を向けながらウォルトに問う。
「それにしても、なぜ君たちはこんなことをしていたんだ?」
「副団長が祈祷師様を置いて行かれたからですよ。落ち込んでいた彼女を励まそうとしたまでです」
これは本当のことだ。セシルが初めから優しく対応していれば、ウォルトもリオもこのような企画は立てなかった。夕食時のリディアがあまりにも気落ちしていたから、運良く手に入れた値の張る酒で気を晴らそうとしたのである。
「そうか。……そういえば、君に言ってなかったな」
金色の煌めく後ろ髪がサラリと揺れて、半身を振り返ったセシルは含みのある笑みを浮かべている。
しかし、その瞳は冷え切っていた。深く薄暗い宵の森のように、人々に恐れを抱かせる闇だ。
「彼女は殿下のお気に入りだ。手出しするようなことがあれば、君が望んでいる昇進の道は途絶えるだろう」
「――それはそれは。あり得ない話ですが、肝に銘じておきます」
パタンと音を立てて閉まる扉を、苦い笑みを浮かべながら眺める。
(まさか、副団長だけでなく殿下まで気に入られているとは思いもよらないだろう……)
一時の気の迷いは全て酔いのせいだと結論付けたウォルトは、思わず頭を抱えたくなった。