◇11-6:移った情は戻らない
ウォルトがベルナール領へと旅立ってから、七日が過ぎた。
その間リディアは聖堂や治療院、都市から少し離れた村落を巡回し、時には自宅で療養している者のところへと足を運んだ。
イグレス領で生活している領民には目立って裕福な者は数少ないが、食べるものにありつけないほど困窮した日々を送っている者もいなかった。
時々、気の良い農民に「もう領主様にはあったか」と聞かれる。微笑みで肯定をすると「我々は領主様に感謝しているんだ」と思い思いに口にした。税の取り立ては天候や害虫による農作物被害の状況によって丁寧に見直してくれているし、領内での困りごとを相談すると可能な範囲で改善もしてくれるらしい。
領民から領主に対する感謝の意を聞くたびに、チクリと痛む。
これ以上の大きな問題を起こさなければ、イグルス子爵の爵位がはく奪されることはないだろう。あの日以降そうであってほしいとリディアは祈っている。決して声に出すことはできないが、心優しい子爵が救われることを心の中で願うことくらいは許されるはずだ。
陽が落ちる頃に宿へと戻ってくると、裏手にある厩舎の辺りに碧の騎士服を着た騎士が数名集っていた。薄暗くなっていたことで気づくのに遅れてしまったが、その中には一人だけ深い紫の騎士服で身を固めた、よく知った人物がいる。
「祈祷師様、副団長。只今帰還いたしました。ベルナール公爵様から騎士五名のご助力をいただいております」
馬車から降りた二人を敬礼で出迎えたウォルトが真っ先に報告すると、碧を纏う騎士の中で目立って体格の良い男性が前へと出る。
「ディックだ。小隊長を任されている。公爵様の命により馳せ参じた」
「魔導騎士団副団長を務めていますセシル・オルコットと申します。此度の協力要請に応じていただき、大変感謝します」
「国を支える魔導騎士団に協力できて光栄だ。この後のことは我々に任せてほしい」
「有難いお言葉です。夕食はこれからですか」
「いや、君らの騎士とともに済ませたところだ」
「そうでしたか。それでは、このまま子爵に挨拶に行きましょうか」
セシルが横に立つリディアを横目で見た。
ウォルトが戻ってきたということは明日にはこの地を去るということだ。子爵に巡回の報告も併せて済ませるのだろう。行きましょうと意味を込めて頷くと、なぜかセシルからは爽やかな造り笑みが戻ってきた。
「出立前に祈祷師様が王都までの無事を祈りたいと仰っておいでです。よろしいですか」
「もちろん! 我々の無事を祈っていただけるとは、大変光栄なことです」
快活な騎士ディックから隊員を一人一人紹介され、流れに身を任せるまま祈りを捧げていく。
元々駆け付けてくれた騎士の無事を祈るつもりだったが、明日の朝、王都への出立を見送る際だと思っていた。これではまるでリディアが公爵家の騎士とここで別れる雰囲気だ。
疑問を持ちつつも最後に小隊長のディックを祈り終える。
すると、下ろしかけた手をセシルによってとられた。
「私は祈祷師様を送り届けた後戻ります」
「ああ、我々も荷をまとめておく。祈祷師様、またお会いできる日を心待ちにしておりますぞ」
早々と歩き出そうとするセシルに急かされ、慌ててベルナール公爵家の騎士達へ会釈をしたリディアも後を追った。
◇◇◇
「私も行くわ」
「君は来なくていい」
宿の自室に入るなり口を開いたリディアを余所に、セシルによって手慣れた手つきで腕輪を外されていく。
昨夜と同じ宿に泊まるため、室内の確認は既に済んでいる。この様子ではすぐにセシルは体を反転させて子爵の元へと向かうだろう。
「子爵への報告も併せて済ませるのでしょう? 私が伝えたいの」
「君の祈祷師としての役目は既に終わっている。すべきことがあるとすれば、明日に備えて寝ることだ。……ウォルト、疲れているところ悪いが後は任せる」
「構いませんよ」
頭を優しく叩かれ、早々と扉の向こう側へと消えたセシルに返す言葉がなかった。
本来ならばリディアも祈祷師として行くべきである。巡回した際に目にした領民達の様子や想いを領主に伝え、今後の安寧を祈るのだ。
それなのに、リディアは子爵への挨拶が不要だと言い渡された。
ハリソンが起こした事件がある。
子爵にも何かしらの処罰が下されるのだから、当事者であるリディアが再び赴くのは好ましくないことだ。それはリディアも理解できる。けれど、それだけではないだろう。
(私が巡回に行くたびに情が湧いていたから、よね)
「リディアさん、夕食の準備は整っているとのことです。行きましょう」
入れ違いに戻ってきたフレッドに頷く。
(今の私が行ったら、子爵にうっかり期待をもたせてしまうかもしれない)
だからこれでよかったのだと自分自身に言い聞かせて、純白のローブを脱いだ。
◇◇◇
隣の部屋に続く室内扉からコン、コンと控えめなノックが鳴る。
「どうぞ」
針を刺していた手を止めて声をかけると、ラフなシャツを着たウォルトが顔を覗かせた。その手には小振りの酒瓶が握られている。
「おや、刺繍をされていたのですね」
「そうしようと思ったのだけど、何も思い浮かばなくて。この通りよ」
手元に持っていた布をウォルトへと掲げる。所々色のついた糸が道をつくっているが、なんの模様にもなっていない有り様だ。
苦笑いしたリディアと掲げられた布をみて、ウォルトは「それなら良かった」と言葉を続けた。
「まだお疲れでないのならカードゲームでもどうです? 公爵様から貴重な地酒をいただいたんです。副団長が戻られる前に飲み干してしまいましょう」
人差し指を口に当てたウォルトは、さながら些細な悪巧みに手を染める子悪党だ。
それがリディアを気遣ってくれてのことだというのは明白で、リディアも目を細めて立ち上がった。
次回はイグレス領編の最終話です。
7月18日の夜に更新を予定しています!