第43話:ノワール、過去を一緒に見ることを選ぶ
【慶長20年(1615年)五月一日 妲己 2715歳 ノワール 430歳 伊勢国 度会郡 宇治 伊勢神宮ダンジョン 三階層】
時の大樹の枝葉に浮かぶ未来の輪郭は、静かに揺れていた。
淡い光の中に、わずかに混じった色。
はっきりとした情景には程遠いけれど、さっきまでの空白とは違う。
ノワールはゆっくりと息をしている。
肩の上下も穏やかで、震えもない。
さっきまでの取り乱した様子は、もう見えなかった。
あたしはその横顔を盗み見る。
顔色も良く、少なくとも今は落ち着いているように見えた。
……よかった。
胸の奥で、静かに息を吐く。
未来の映像も、ほんのわずかとはいえ変化している。
あたしの言葉が、少しは届いたのかもしれない。
ノワールはしばらく黙ったまま立ち尽くしていた。
そして、ゆっくりと自分の手を見つめる。
まるで、何かを確かめるように。
「……」
小さく息を吸う音が聞こえた。
その瞬間だった。
ノワールの指が、ぎゅっとあたしの袖を掴んだ。
思わず目を向ける。
関節が白くなるほど、強く握りしめている。
顔が、みるみるうちに蒼白になっていく。
唇が震え、喉がひくりと動いた。
体が、小刻みに震え始めている。
さっきまで落ち着いていたはずなのに。
「ノワール……?」
声をかけた瞬間、
ノワールは必死に何かをこらえるように、ぎゅっと目を閉じた。
そして、震える声を絞り出す。
「わ、私……」
息が詰まる。
言葉が続かない。
それでも、必死に続ける。
「……したいことが……」
「……分からなくて……」
その瞬間、胸が強く締めつけられた。
ノワールの体が、はっきりと震えている。
目には涙が溜まり、今にもこぼれ落ちそうだった。
未来を失ったから怯えている――
さっきまでのそれとは、明らかに違う。
今、ノワールが恐れているのは、自分自身……“したいことが分からない”という状態そのものだ。
あたしは息を呑む。
(……そんな……)
(それって……)
胸の奥に、嫌な感覚が広がる。
思い出してしまった。
二階層での、あたし自身のことを。
あの時。
恥ずかしさ、恐れ、そして『守り守られたい』気持ち
いくつもの感情が混ざり合って、自分でも分からなくなって。
理解できない感情に押しつぶされて、暴走した。
“わからない”という状態が、どれほど恐ろしいか。
あたしは、身をもって知っている。
今のノワールは――
まさに、それだ。
理由も整理できないまま。
ただ、自分の中の異変に気づいてしまって、怯えている。
ノワールは必死にあたしの袖を掴んだまま、震え続けている。
耐えるように。
壊れないように。
必死に踏みとどまるみたいに。
「……こわい……」
かすれた声が、ぽつりと零れた。
その一言が、胸に突き刺さる。
(放っておけるわけ……ない……)
でも――
どうすればいい?
未来がないわけじゃない。
枝には、確かに色が戻り始めている。
それなのに、ノワールは苦しんでいる。
あたしは、ノワールのことを何も知らない。
何が好きで。
何を望んで。
どんなふうに生きてきたのか。
それなのに、ノワールは。
二階層で、あたしのことを知らなくても助けてくれた。
あたしの混乱を受け止めて、支えてくれた。
なのに、今。
あたしは、この子の苦しさを前にして、何もできずにいる。
(……そばにいるだけじゃ……足りない……)
胸が苦しくなる。
助けたい。
理由なんていらない。
恩義もある。
それ以上に、このまま震えているノワールを見ていられない。
でも、言葉が見つからない。
どう声をかければいいのか分からない。
未来を励ます言葉も。
したいことを見つける方法も。
何一つ、分からない。
ノワールはまだ、必死に震えながら耐えている。
その姿が、あまりにもはかなくて。
胸が締めつけられる。
(……何とか……)
(何とかして……助けたい……)
答えは見えない。
でも、動かなきゃいけない気がしている。
何もしないままじゃ、いけない。
(でも、どうすればいいの?)
あたしは、ふと二階層のことを思い出した。
感情がごちゃまぜになって、押しつぶされそうだったあの時。
暴走して、何も見えなくなっていたあたしを――
ノワールは、ただ抱きしめてくれた。
複雑な感情も、守られたい気持ちも、あたし自身なんだって認めてくれた。
それだけで、あたしは救われた。
(……そうだ……)
(あの時と同じように……)
今のあたしにできること。
今すぐできる、いちばんの安心。
あたしは迷うことなく、震えるノワールをそっと抱きしめた。
細い体が、腕の中に収まる。
「……大丈夫……」
小さく囁きながら、背中に手を回す。
「ここにいる……」
「一人じゃない……」
ノワールの体が、ほんの一瞬だけ緩んだ。
強張っていた肩が、わずかに下がる。
呼吸が、少しだけ整う。
(……よかった……)
届いた。
ちゃんと、伝わった。
そう思った――その直後だった。
ノワールの体が、再び震え出す。
さっきよりも、はっきりと。
抑えきれないみたいに。
呼吸が浅くなり、胸が小刻みに上下する。
抱きしめているのに。
温もりはあるのに。
不安が、消えていかない。
「……っ……」
ノワールが、何か言いたそうに口を開く。
でも、すぐには言葉にならない。
喉が詰まるように、何度も息を吸っては止めて。
そして、ようやく絞り出すように呟いた。
「……妲己様が……」
震える声。
「……そばに……いてくれるのに……」
指が、さらに強くあたしの服を掴む。
「……どうして……」
息が詰まりそうなほど、苦しそうに。
「……こんなに……怖いんだろ……」
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「……どうしたら……」
「……いいのか……」
かすれた声で。
「……分からない……」
その言葉が、静かに落ちた。
抱きしめている。
離れていない。
拒まれてもいない。
それなのに。
震えは止まらない。
不安は消えない。
(……どうして……)
頭が、真っ白になる。
(……あたし……)
(ちゃんと……抱きしめてるのに……)
二階層では、これで救われた。
あたしは、これで立ち直れた。
なのに――
ノワールには、届いていない。
好意が足りないわけじゃない。
そばにいないわけでもない。
拒絶されているわけでもない。
それなのに、救えない。
胸の奥に、初めてはっきりとした焦りが生まれる。
(……どうして……)
(あたしじゃ……)
(届かないの……?)
答えが見えない。
ただ、腕の中で震えるノワールだけが現実だった。
あたしは強く抱きしめ続けることしかできず、
その小さな体が壊れてしまいそうで――
どうすることもできずに、立ち尽くしていた。
腕の中で、ノワールはまだ震えていた。
強く抱きしめても。
離れずにいても。
声をかけ続けても。
不安は消えてくれない。
あたしの温もりは、確かに届いているはずなのに。
それでも、この子の心は楽にならない。
(……違う……)
胸の奥で、何かがはっきりしてくる。
(ノワールが苦しんでいるのは……)
(未来が無いからじゃない……)
枝葉には、もう色が戻っている。
ほんのわずかでも、未来は存在している。
それを見て、あたし自身は少し安心できた。
なのに。
ノワールの不安は消えていない。
むしろ、はっきりと形になっている。
(未来があるって分かっても……)
(それでも、怖いままなんだ……)
胸が、じんと痛む。
(じゃあ……)
(この子を縛っているのは……何……?)
答えは出ない。
いくら考えても、分からない。
ノワールの心の奥。
あたしには、そこが見えない。
見えないまま、ただそばにいるだけでは――
この震えは止まらない。
(……分からないままじゃ……)
(安心させてあげられない……)
唇を噛みしめる。
助けたい。
でも、やり方が分からない。
このまま抱きしめ続けても、
このまま声をかけ続けても、
根本が分からなければ、同じことを繰り返すだけだ。
(……ノワールが……)
(こんなに苦しんでる理由……)
(それを……知らなきゃ……)
心臓が、どくんと強く鳴る。
そのとき、ふと浮かんだのは――
大樹の根。
過去を写しているらしい、あの“根”だ。
他人の“これまで”を覗く行為。
踏み越えてはいけない気がしていた領域。
あたしは無意識に、腕に力を込める。
(……嫌がるかもしれない……)
(怖がるかもしれない……)
自分の過去を見られるなんて。
誰だって、気持ちのいいものじゃない。
ましてや、今はこんなにも不安定なのに。
(……あたしが……)
(傷つけるかもしれない……)
一瞬、ためらいが胸を満たす。
このまま何もせず、
そばにいるだけの方が楽かもしれない。
踏み越えなければ、傷つけることもない。
でも――
腕の中で震える、小さな体。
必死にしがみついてくる指。
こわい、と絞り出した声。
それを思い出した瞬間、
胸がぎゅっと締めつけられた。
(……このままじゃ……)
(この子は……苦しみ続ける……)
傷つけない選択が、
救わない選択になるなら。
それは、あたしには選べない。
ゆっくりと、ノワールの背中を撫でながら、
あたしは小さく息を吸った。
「……ノワール……」
震える体に、優しく声を落とす。
「……ごめんね……」
しばらく迷ってから、言葉を紡ぐ。
「……あたし……あなたを……安心させたいの……」
腕の中の温もりを確かめながら。
「……でも……今のあたしじゃ……」
「……どうしてこんなに苦しいのか……分からない……」
胸が苦しくなる。
それでも、逃げずに続ける。
「……だから……」
「……あなたの……これまでを……」
小さく、震える息。
「……見せてほしい……」
沈黙が落ちる。
あたしは祈るような気持ちで待つ。
拒まれるかもしれない。
それでも――
覚悟は、もう決まっていた。
(……踏み越える……)
(この子を安心させるためなら……)
それがどんな過去であっても、ノワールが、こんなにも苦しんでいる理由を――
必ず、突き止める。
少しの沈黙のあと、ノワールは顔を上げてあたしの目を見て答えた。
その瞳はまだ揺れていて、呼吸も浅いままだったけれど――それでも、逃げずにこちらを見ている。
「……一緒……がいい!」
一瞬、きょとんとしてから、胸の奥で何かが弾けた。
――そうか。 その手が、あったんだ。
何て言ったってノワールのことだもの。
自分で過去を見れば、きっと分かる。
彼女がどこで引っかかって、こんなふうに立ち止まってしまったのか。
「良いわ!」
思わず、声が弾む。
「それが一番よ!」
ノワールはびくりと肩を揺らしたまま、少し困ったように視線を彷徨わせる。
「……た、たぶん……」
「……私……ちゃんと……見れない……かも……」
途切れ途切れの声。 それでも、必死に言葉を探しているのが分かる。
「……だから……」
「……妲己様……にも……」
「……見て……ほしい……」
小さく息を吸い、震える唇で続けた。
「……私じゃ……」
「……気づけない……こと……」
「……ある……かも……しれない……から……」
――ああ。 そんなふうに言ってくれるんだ……。
頼るだけでも、任せきりでもない。
一人で抱え込むつもりもない。
一緒に見て、一緒に考える――
ノワールは、ちゃんとそこに立とうとしている。
「ふふ」
自然と笑みがこぼれた。
「もちろんよ」
「二人で見ましょう」
ノワールの過去を。
ノワール自身の目と、あたしの目で。
「パニックでキツいかもしれないけど……」
あたしは一歩近づいて、そっと視線を合わせる。
「それでも、一緒なら大丈夫」
ノワールは小さく、こくりと頷いた。
まだ震えは止まらない。
未来の映像も、相変わらず薄く揺れている。
それでも――もう、一人じゃない。
「……妲己様……」
「ええ」
どんな過去でも。 二人で見て、二人で考えて、二人で掴む。
「必ず、救うヒントを見つけてみせるわ」
――二人で。




