第42話:ノワール、未来に小さな希望を見つける
【慶長20年(1615年)五月一日 妲己 2715歳 ノワール 430歳 伊勢国 度会郡 宇治 伊勢神宮ダンジョン 三階層 】
ノワールを抱きしめたまま、あたしはそっと息を整えた。
さっきまで、腕の中の身体は小刻みに震えていた。
指先も冷たく、力が入りっぱなしで、まるで何かに必死にしがみついているみたいだった。
それが――少しずつ、ほどけていく。
吐く息が長くなり、肩の力が抜けていくのが分かる。
額があたしの胸に預けられたまま、重さがほんの少し増した。
……落ち着いてきた。
そう思った瞬間だった。
ノワールの視線が、ゆっくりと動く。
あたしの肩越しに、時の大樹の枝葉の方へ向かっていく。
「……」
声を出さず、ただ見つめている。
その様子に引かれて、あたしも振り返った。
枝の先には、前に見た未来の映像が浮かんでいる。
輪郭だけで形作られた、あのぼんやりした未来。
相変わらず、はっきりした姿は見えない。
――でも。
あたしは目を凝らした。
輪郭の内側に、ほんの小さな光が滲んでいる。
淡くて、弱くて。
だけど確かに、色だと分かる。
まるで闇の中に灯った、小さな灯火みたいに。
心臓が跳ねた。
「……あれ……?」
ノワールがかすれた声を出す。
「さっきまで……輪郭だけだったのに……」
その指が、ぎゅっとあたしの服を掴む。
「少し……色が……?」
あたしは言葉を失った。
だって、本当に変わっている。
ほんの一滴ほど。
未来の輪郭の中に、色が生まれている。
何が映っているのかは、まだ分からない。
でも――空っぽじゃなくなった。
さっきまで、何もなかった場所に。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
ノワールの体温も、さっきより少しだけ温かい。
あたしはその小さな変化を、逃さないように見つめ続けた。
まるで、希望が芽吹く瞬間を見ているみたいで。
淡く滲んだ色は、ゆっくりと形を結び始めていた。
輪郭の内側で、ぼんやりとした光が揺れている。
まるで水面に映った影のように、不確かで、それでも確実に“何か”の情景だった。
あたしは息をひそめて見つめる。
すると――
その中で、小さな二つの影が向かい合った。
片方は、間違いなくノワール。
細い肩のラインも、揺れる髪も、見慣れた姿だった。
そして、もう一人。
輪郭は淡く、顔もぼやけているけれど。
ノワールと向き合って、楽しそうに笑っている。
未来の中のノワールは、今まで見たことがないほど柔らかい表情をしていた。
口元がほころび、目が細められて――
幸せそうに、笑っている。
「……」
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
次の瞬間、情景が揺らいで変わった。
今度は、二人の影が並んで歩いている。
その手と手が、そっと重なる。
指が絡まり、離れないように繋がれているのが分かる。
その仕草は、とても自然で。
まるでずっとそうしてきたみたいだった。
さらに映像はまた滲み――
今度は、誰かがノワールの頭を撫でている。
褒められているのか、照れたように視線を逸らしながら、でも嬉しそうに笑うノワール。
その笑顔が、胸に刺さるほど眩しい。
そして――
あたしは気づいてしまった。
輪郭が曖昧なのに。
色も淡いのに。
それでも、なぜか分かる。
ノワールの隣にいるその“誰か”は。
……あたしだ。
立ち方。
手の差し出し方。
ノワールを見る時の距離。
全部、あたしの癖と同じだった。
心臓が強く跳ねる。
(これ……未来……?)
(しかも……あたしと……一緒……?)
嬉しさと同時に、怖さが込み上げる。
だって、そんな未来――
ノワールが望んでくれているなんて、考えたこともなかったから。
腕の中のノワールが、かすかに身じろぎする。
じっと見つめているけれど、困惑した気配が伝わってくる。
きっと、見えているのは。
色と光と、動きの断片だけ。
誰と一緒なのかまでは、分からない。
「……未来が……」
ノワールが、小さく呟く。
「少しだけ……見えるようになった……?」
その声には、驚きと戸惑いが混ざっていた。
あたしは何も言えなかった。
ただ、胸の奥が熱くなっていくのを感じながら、淡く揺れる未来の情景を見つめ続けていた。
淡く揺れていた未来の映像は、ゆっくりと輪郭だけの光へと戻っていった。
色はまだ、完全には消えていない。
けれど、さっき見えた笑顔や仕草は、霧の向こうに隠れるように薄れていく。
ノワールはしばらく黙ったまま枝を見つめていた。
小さな胸が、上下にゆっくりと動いている。
何かを考えているのが分かる。
やがて、ぽつりと声が落ちた。
「……妲己様が……」
その名を呼ばれただけで、胸が跳ねる。
「さっき……励ましてくれたから……」
ノワールの視線は、まだ枝葉に向いたままだ。
「少し……元気になったから……」
指先が、ぎゅっとあたしの服を掴む。
その小さな力に、切なさが滲んだ。
「だから……未来が……、少しだけ……見えるようになったんじゃ……ないかな……?」
その声は、どこか安心したようでもあり、同時に自分を納得させるようでもあった。
あたしは、言葉を失う。
(そう……思うよね……)
(自分の気持ちが原因だなんて……、そんなふうに考えられるわけ……ないよね……)
ノワールの中では、すべてが整理されていく。
あたしの言葉。
抱きしめた腕。
伝わった体温。
それが不安を和らげてくれて――
その結果、未来が少し見えるようになった。
とても自然な考え方だった。
だって、誰だってそう結びつける。
まさか。
自分の心の奥で芽生えた、
『妲己と一緒なら未来が欲しい』
その想いが、
時の大樹そのものを動かしたなんて――
思いもしない。
ノワールは、ほっとしたように小さく息を吐く。
「……よかった……」
「未来……ちゃんと……あるんだね……」
その安堵の声に、胸が締めつけられる。
嬉しいはずなのに。
なのに、あたしの中には言いようのないざわめきが広がっていた。
(違う……)
(それだけじゃ……ない……)
けれど、それを口に出す勇気はなかった。
だって、もし勘違いだったら。
もし、あたしの思い上がりだったら。
ノワールを余計に混乱させてしまうかもしれない。
あたしはただ、そっとノワールを抱き寄せる。
その小さな背中に、確かな温もりを感じながら。
そして心の奥で、静かに思った。
(……ノワールは……まだ気づいてない……)
(未来を動かしたのは……、あたしの言葉じゃなくて……)
(ノワール自身の……気持ちなんだ……)
ノワールを抱き寄せたまま、あたしはもう一度、時の大樹の枝葉へと目を向けた。
淡い光。
輪郭だけだった未来の中に、確かに混じった色。
その変化は、ほんのわずかだったけれど――
見間違えるようなものじゃなかった。
そして、あたしは思い出してしまう。
色が滲んだ、その瞬間。
ノワールの胸の奥から、かすかに漏れた音を。
言葉になる前の、感情そのものみたいな、小さな音。
――すぅ……と、息を吸うような。
――きゅ、と胸が締まるような。
まるで心が動いた証みたいな、あの音。
(……今の……)
(ノワールの……心の……音……?)
その直後だった。
未来の枝が、色づいたのは。
偶然だと思おうとした。
けれど、視線を凝らした先で、さらに気づいてしまう。
色づいた未来の断片の中。
誰かと笑うノワール。
その隣に――
(……あれ……)
ぼんやりとした輪郭。
淡い光の中に浮かぶ、見慣れた姿。
長い髪の影。
耳の形。
そして、ノワールへ向けられた視線。
(……あたし……?)
はっきりとは見えない。
でも、間違えようがなかった。
あれは――あたしだ。
胸の奥が、どくん、と強く脈打つ。
(ノワールの心が動いた瞬間に……)
(未来が色づいて……)
(しかも……そこに……あたしが……)
点と点が、静かに繋がっていく。
音。
感情。
未来の変化。
あたしの姿。
(まさか……)
(ノワールの……“気持ち”が……)
(未来を……動かした……?)
そう考えた瞬間、全身に鳥肌が立った。
もし、それが本当なら。
未来は、決まってなんかいなくて。
輪郭だけの運命じゃなくて。
ノワールの心ひとつで、変わっていくものだということになる。
そして、その最初の色は――
あたしと一緒にいたい、という想い。
(……そんな……)
胸が苦しくなるほど、嬉しくて。
同時に、怖くなる。
(でも……)
(本当に……そうなの……?)
(ただの……偶然かもしれない……)
希望が大きすぎて、信じきれなかった。
もし勘違いだったら。
もし、あたしの思い上がりだったら。
ノワールにそんな気持ちを背負わせてしまったら。
(……恥ずかしい……)
(それに……ノワールを……困らせるかもしれない……)
あたしは唇を噛みしめる。
言いたい。
聞いてみたい。
でも、今は――できない。
まだ確信がない。
この小さな変化が、真実だと断言できない。
だから。
あたしは何も言わなかった。
ただ、ノワールの手を強く握る。
離さないように。
確かめるように。
その温もりがここにあることを、何度も感じながら。
(……今は……)
(そばにいよう……)
(答えが分かるまで……)
ノワールは、未来を見つめたまま小さく息をしている。
何も知らずに。
自分の心が、世界を動かしたことに気づかないまま。
その横顔を見つめながら、あたしは静かに沈黙を選んだ。
ノワールは、しばらく枝葉を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。
「……未来が……」
小さな声。
震えはまだ残っているけれど、さっきよりほんの少しだけ落ち着いている。
「少しだけ……見えるようになった……」
その言葉に、あたしの胸がきゅっと締まる。
ノワールは、ただそう思っている。
未来が変わった理由も。
そこに映っていた“誰か”の正体も。
何も分からないまま。
ただ、輪郭だけだったものに色がついた――
それだけを受け取っている。
「妲己様が……励ましてくれたから……」
「少し……元気になったから……」
「だから……きっと……未来も……」
ノワールはそう言って、かすかに笑った。
その笑顔は、まだ不安を抱えたままの、弱いものだったけれど。
それでも、希望を見つけようとする顔だった。
あたしは、何も言えずにその横顔を見つめる。
(違う……)
と言いそうになるのを、必死でこらえる。
(元気になったからじゃない……)
(ノワールが……)
(あたしと一緒にいたいって……思ったから……)
その気持ちが、未来を動かしたかもしれないなんて。
そんなこと、簡単に口にできるはずがなかった。
もし間違っていたら。
もし偶然だったら。
ノワールに期待を持たせてしまうだけだ。
(……まだ……分からない……)
(確かめるまでは……)
あたしは、ただ静かに頷く。
「……うん」
「少し……見えるようになったんだね」
それ以上は、言わなかった。
ノワールの手を握ったまま。
あたしの中に芽生えた疑念と希望を、胸の奥にしまい込む。
ノワールは未来の変化を“結果”として受け取り。
あたしは、その“原因”かもしれないものに気づいている。
同じ景色を見ているのに。
見えている意味は、まるで違っていた。
その小さなズレは、今はまだ静かで、穏やかで。
けれど――
きっとこの先、大きな波になっていく。
あたしには、なぜかそれが分かってしまった。
ノワールの知らないところで。
未来はもう、動き始めている。
そしてその中心にあるのは――
ノワールの心。
あたしは、その手を離さずに、そっと決意する。
(……このズレの答え……)
(いつか……ちゃんと……見つけよう……)
そうして、二人は同じ場所に立ちながら、ほんの少し違う未来を見つめていた。




