第41話:妲己、心の奥の〝助けて〟を暴露する
【慶長20年(1615年)五月一日 妲己 2715歳 ノワール 430歳 伊勢国 度会郡 宇治 伊勢神宮ダンジョン 二階層 】
尻もちをついたまま、あたしは胸を押さえていた。
呼吸が浅くて、うまく吸えない。
心臓が暴れて、身体の奥が勝手に震える。
《……ッ……? ……ッ……!》
濁った音が空間に散っていく。
さっきまで響いていた〝……そばに……〟の余韻は、もうどこにもない。
ノワールは、ただあたしを見ていた。
何も言わず、動かず、でも――逃げる気配が一つもない。
その視線が、苦しくて、怖くて、どうしようもなくて。
「……っ……はぁ……っ……」
あたしは顔を覆った。
見られたくない。
でも、見られている。
そんな矛盾が胸の奥でぐちゃぐちゃに混ざって、心音がさらに跳ね上がる。
ドクンッ……ドクンッ……!
ノワールが、そっと息を吸った。
「……さっきの……あの澄んだ声……妲己様の“強い気持ち”なんだ……」
あたしは顔を上げた。
何を言っているのか分からない。
でも、ノワールの目が――変わっていた。
驚き。
痛み。
優しさ。
そして、何かを決めたような静かな光。
「……妲己様は、私を庇って…… でも、本当は……誰かに支えてほしくて…… その気持ちが強すぎて、苦しんでいる……」
何を……言って……?
あたしは首を振った。
そんなはず、ない。そんなこと、思ってない。
思ってるわけ――
ドクンッ……!
胸が跳ねた瞬間、空間が震えた。
〝〝〝〝〝……助けて……〟〟〟〟〟
「――っ!?」
あたしじゃない。
でも、あたしの声。
あたしのどこかの奥から、勝手に漏れた声。
なんで……? なんでそんな言葉が……?
恥ずかしさ。
混乱。
プライド。
ノワールの表情を見た揺れ。
“そばに”と願った延長。
そして―― 守られたい。
そんな気持ち、知らない。
知らないはずなのに。
ノワールは、その声を聞いた瞬間、 まるで何かを決めたように目を細めた。
「……妲己様は、助けを求めている」
その声は、静かで、揺るぎなくて。
「なら……私が支えなければ」
ノワールが一歩、こちらへ踏み出した。
胸の奥が、また跳ねる。
ドクンッ……! 世界が揺れた。
――そしてあたしは、次の瞬間、 ノワールの腕の中に引き寄せられることになる。
〝〝〝〝〝……助けて……〟〟〟〟〟
自分の声じゃない。
でも、確かにあたしの奥から漏れた声。
「……え……?」
理解が追いつく前に、空間が震え、心臓が跳ね上がる。
ドドドドドドドドドッ!!
息が詰まる。
胸が痛い。
頭が真っ白になる。
その瞬間――
ドンッ!
強い足音。
次の瞬間、肩と背中を同時に掴まれた。
「――っ!?」
そして、考えるより先に、あたしは抱きしめられていた。
ノワールの腕が、衝動そのままの強さであたしを包み込む。
「ひゃああああああああああああああああ!!」
空間がそのまま反響する。
《ひゃあああああああああああああああ!!》
心音は暴走した。
ドドドドドドドドドッ!!
顔が熱い。
呼吸が乱れる。
手が震える。
なのに――
突き放せない。
「……なんで……こんな……」
《……なんで……こんな……》
〝〝〝〝〝……でも……いやじゃ……ない……〟〟〟〟〟
いやじゃない。
いやじゃないなんて……そんな……。
胸の奥が、ぐちゃぐちゃに混ざっていく。
ノワールの腕は緩まない。
あたしの震えを受け止めるように、
ただ静かに、強く。
耳元で、ノワールの声が落ちてきた。
「……妲己様のままで、いいんです」
ドクンッ……!
胸の奥が跳ねた。
痛いほどに。
「……あたし……ずっと……誰かを……守りたくて……でも……ほんとは……」
言葉が喉で震える。
自分の声なのに、自分のじゃないみたい。
その瞬間――
〝〝〝〝〝……まもってほしかった……〟〟〟〟〟
「……んだ……」
言ってしまった。
言ってしまった……。
胸の奥で、何かがほどけていく。
ドクン……
ドクン……
トクン……
心音が静かに落ち着いていく。
「……こわく……ない……」
《……こわく……ない……》
〝〝〝〝〝……まもられてる……〟〟〟〟〟
「……これが……まもられる……って……」
ノワールの腕の中は、苦しくない。
「……あ……れ……?苦しく……ない……?」
《……苦しく……ない……》
〝〝〝〝〝……あったかい……〟〟〟〟〟
心音は完全に安定していた。
トクン……トクン……
空間の震えも、
すべて静かに消えていく。
あたしはまだ抱きしめられたまま、ただその温かさに身を預けていた。
ノワールの腕の中で落ち着いた心音は、もう乱れる気配を見せなかった。
トクン……トクン……
ノワールがゆっくりと腕をほどく。
その手はまだあたしの肩に触れていて、支えている。
「……もう、苦しくない……」
《……苦しくない……》
〝〝〝〝〝……あったかい……〟〟〟〟〟
顔が熱い。
でも、もう逃げようとは思わなかった。
ノワールは、あたしの変化を確かめるように静かに息をついた。
それから、そっと手を離した。
ノワールは一歩だけ下がり、胸に手を当てて深く息を整える。
さっきまでの勢いが嘘みたいに静かで、迷いのない目をしていた。
「……行きます」
ノワールがハープを構える。
弦に触れた瞬間、二階層全体が静かに震えた。
音は言葉ではない。
でも、意味だけが胸に届く。
〝〝〝〝〝……助けて……〟〟〟〟〟
〝〝〝〝〝……まもってほしかった……〟〟〟〟〟
〝〝〝〝〝……こわくない……〟〟〟〟〟
「……あたし……こんなに……」
胸の奥がじんわり熱くなる。
もう恥ずかしさじゃない。
“受け入れた自分”を確かめるような、静かな温かさ。
演奏が終わった瞬間、足元の音の足場が安定し、通路の奥が光へと変わった。
「……終わった……のね」
心音は穏やかに刻まれ、あたしは前を向いた。
ノワールがあたしの手をそっと取る。
「……っ」
一瞬だけ顔が熱くなる。
でも、もう振り払わない。
「……守りあう、そうね。それが良いわ」
ノワールは何も言わず、ただ静かにあたしの言葉を受け止めていた。
光の前で、ノワールが小さく呟く。
「じゃあ、私の“したいこと”は……?」
「何か言った?」
「いえ……」
あたしは光の方へ向き直る。
「……行くわよ」
二人は並んで、光の中へ歩き出した。
【慶長20年(1615年)五月一日 妲己 2715歳 ノワール 430歳 伊勢国 度会郡 宇治 伊勢神宮ダンジョン 三階層 】
――静かだ。
あまりにも、静かすぎる。
風も、水も、木々のざわめきもない。
聞こえるのは、あたしとノワールの呼吸だけ。
「……妲己様、なんか変じゃない?」
ノワールが小さく声を落とす。
「ええ……音が、ないわね」
自分の声だけが、やけに鮮明に響いた。
その異様さが、胸の奥をざわつかせる。
あたしは歩き出す。
足音は、確かに響いた。
続いてノワールも歩く。
けれど――
「……あれ? 私の足音……してない……?」
ノワールは小さく笑おうとして、すぐに口を閉じた。
戸惑いが、その仕草に滲んでいた。
「……何かがおかしいわ」
「うん……」
意味は分からない。
ただ、ノワールの音だけが消えていくという事実が、不安をじわりと広げていく。
あたしは、音が消えていく“方向”を探った。
そこへ向かうほどに、空間の輪郭が薄れていく。
壁は線だけになり、 床は影だけになり、 世界が“枠”だけを残して溶けていく。
「……ここが、中心……?」
あたしの視線の先に、それはあった。
巨大な樹。
幹は半透明で、淡く揺らめいていた。
根は地面に溶け込むように広がり、枝葉は光の粒をまとって揺れている。
「……木……なの?」
ノワールが呟く。
「でも……普通じゃないわね」
あたしは根元に目を向けた。
そこには淡い光の“映像”が揺れている。
幼いあたしが笑っていた。
幼いノワールが泣きながら走っていた。
「……これ……過去……?」
そうとしか思えなかった。
幹に視線を移す。
そこには、この空間とは少し違う“何か”が揺れていた。
半透明で、指を伸ばせばすり抜けてしまいそうな。
けれど、それが何を示しているのかは分からなかった。
そして、枝葉。
枝葉の先には、無数の淡い“映像”が揺れていた。
どれも霧の向こうに映るように不確かで、
薄く透けたものもあれば、輪郭だけのものも混じっている。
「あれ……人影……?」
思わず声が漏れた。
はっきりとは見えない。
けれど、立ち姿や並び方が、どこかあたし達に似ている気がした。
ただ、細部までは分からない。
輪郭だけの映像は特に、誰なのか判断できない。
いくつかの映像は、今のあたし達とは違う気がした。
背が伸びているような、雰囲気が変わっているような――
そんな“違い”だけが、ぼんやりと伝わってくる。
根に映っていた幼い自分達を思い出す。
過去があるなら――。
「……じゃあ、これ……未来……?」
思わず声が漏れた。
「……未来……?」
ノワールがその言葉を繰り返す。
あたしは、確かめるように枝へ手を伸ばした。
何も起きない。
ノワールも, 引き寄せられるように枝へ触れた。
その瞬間――
ノワールの未来の枝だけが、音もなく消えた。
「……え……?」
ノワールが手を引く。
枝は戻らない。
あたしが触れても変化しない。
ノワールが触れると、ノワールの未来だけが消える。
何が起きたのか、飲み込めなかった。 ただ、ノワールの肩が小さく震えているのが見えた。
「……私の……未来……」
ノワールの声が、かすかに揺れる。
「……ない……?」
その言葉が、静寂の空間に落ちた。
あたしは息を呑むことしかできなかった。
ノワールは、動かなかった。
未来の枝が消えた場所を見つめたまま、まるで時間ごと固まってしまったように。
「……ノワール?」
呼びかけても返事はない。
肩がわずかに上下しているだけで、その瞳は焦点を失っていた。
――自分だけ、未来がない。
その事実が、ノワールの中でどれほど重いのか。
想像するだけで胸が痛んだ。
けれど、どうすればいいのか分からない。
触れていいのか。
手を握っていいのか。
ノワールは嫌がらないだろうか。
あたしが踏み込みすぎてしまうのではないか。
そんな迷いが、胸の奥で絡まっていく。
でも――。
二階層で、ノワールはあたしの前に立った。
怖かったはずなのに、それでも。
今度は……あたしの番だ。
そう思った瞬間、指先が震えた。
怖い。けれど、離れたくない。
あたしは、ゆっくりと手を伸ばした。
ためらいながら、けれど確かに。
「……ノワール」
そっと、その手を握る。
ノワールの指が、かすかに動いた。
驚いたようにあたしを見る。
けれど、拒まなかった。
その事実だけで、胸が熱くなる。
「ノワール……あなたは……」
言葉を選ぶ。
知っていることだけを、そっと。
「……あの時、妹さんを助けようとしたのでしょう?」
ノワールの肩が、わずかに震えた。
「怖かったはずなのに……それでも誰かのために動ける。あなたは……優しい子よ」
ノワールの目が揺れる。
涙ではない。
でも、何かがほどけるような揺れ。
「二階層でも……あたしのために前に立ってくれた。そんなあなたに……未来がないなんて、あたしは思えない」
その瞬間だった。
ノワールの胸の奥から、かすかな“音”が漏れた。
ほんの一瞬。
風のような、息のような、でも確かに“音”だった。
「……あれ……?」
思わずノワールの胸元を見る。
けれどノワール自身は気づいていない。
ただ、あたしの手を握り返してきた。
弱く、頼るように。
その瞳に―― ほんのわずかに、光が戻ったように見えた。
「……妲己様……」
その声は震えていた。
でも、さっきまでの“空白”とは違う。
何が変わったのかは分からない。
ただ、ノワールの中で何かが揺れたのを感じた。




